2021年11月06日

2021年11月7日 主日礼拝説教「前進する教会」須賀 工牧師

聖書:使徒言行録6章1節〜7節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録6章1節から10節の御言葉であります。今朝の御言葉から示されることは、何でしょうか。それは、教会が「生きて」、「成長し」、そして、「前進して」いく。そのために、一体、何が、必要とされているのか、ということであります。
そのことを、深く、心に、踏まえた上で、改めて、一節の御言葉を、お読みしたいと思います。「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである」。
 教会の中で、「ある問題/もめ事」が、起きてしまいます。そのことが、ここで、まず語られています。使徒言行録は、決して、理想的な教会の姿だけを、描いているわけではありません。むしろ、リアルな教会の姿を、ここで、描いていると言えるでしょう。教会は、もめ事や争いもない、正に、天国のような所ではないわけであります。信仰が、同じだからと言って、対立や争いが起こらない。そういうことは、決してないわけであります。むしろ、教会の歴史は、多くの「もめ事」によって、成り立っている。そのようにも言えるかもしれません。
 しかし、使徒言行録が、このような「問題」を、包み隠すことなく、記しているのは、なぜでしょうか。それは、このような「弱さ」や「恥」の中にも、神様の深いメッセージが、力強く込められているからなのであります。
 そもそも、この「もめ事」の基本的な原因は、何でしょうか。それは、まず、「弟子の数が増えた」ということです。
 元々、教会のメンバーは、一つの部屋に、収まる程度の人数しかいませんでした。しかし、聖霊が働き、伝道が始まると、何千、何百という群れに、大きく成長していったわけであります。数十人の群れから、何千人の群れに膨れ上がったわけでありますから、当然、そこで、いざこざも起きるでしょうし、その在り方が、根本的に違ってこざるを得ない。そういうことも起り得るわけであります。
つまり、この「問題・もめ事」は、教会が、確かに、成長していることの「証し」であり、教会の成長に伴って、必然的に、起きたことでもあるわけです。
 教会というものは、「生きて成長する」ものなのであります。「生きて成長する」ということは、そこで少しずつ変化をしていくことであります。変化には、勿論、衝突や軋轢や苦痛が、伴うこともあるわけです。
 しかし、実は、その苦難や危機、そのものこそが、教会の成長の証しであり、更なる前進を促す、言うならば、チャンスや力になることもあるのです。違う言い方で申し上げるならば、このような問題や軋轢を通してもなお、神様が、教会の群れを養い、そして、育ててくださるのだ、ということ。そうとも、言えるのではないでしょうか。
 さて、もう少し、この「問題」について、深めていきたいと思います。この「もめ事」は、「ギリシア語を話すユダヤ人」と「ヘブライ語を話すユダヤ人」との間で起こりました。最初の教会には、そのような二つの「グループ」が、既にあったようです。
 ここで言われている「ギリシア語を話すユダヤ人」とは、簡単に言えば、イスラエルを離れて外国に住んでいたユダヤ人のことです。そして、「ヘブライ語(正確にはアラム語)を話すユダヤ人」とは、イスラエルに定住したユダヤ人のことであります。
 当時、ユダヤの社会では、「ヘブライ語を話すユダヤ人」が、「生粋のユダヤ人」であると言われていました。それ故に、外国に住むユダヤ人を軽蔑する、ということが、よくあったようであります。要するに、このような、ユダヤ社会における対立構造が、ここでは、教会の中にも、持ち込まれてしまった、ということなのです。教会も又、社会の縮図のようなものでもあります。こういうことは、今でも、起り得ることかもしれません。
 しかし、それでも、「教会と社会が、全く同じであるか」。そのように、言われるならば、答えは、「NO」であります。
今朝の御言葉において、とても、大切な言葉があります。それが「弟子」という言葉です。この場合の「弟子」とは、「十二人の使徒」のことではありません。主イエス・キリストを信じる、全ての人を指しています。
 実は、「信仰者=主の弟子」という意味で、この「弟子」という言葉を、初めて使ったのが、この使徒言行録6章だと言われています。つまり、信仰を持つことは、主イエスの弟子になることなのです。教会とは、主イエスの弟子たちの群れなのであります。信仰者を結び合わせている絆があるとするならば、それは、「主イエスの弟子」という絆なのであります。
 教会にも、色々な違いを持った人たちがいます。それ故に、対立関係もあります。気が合わない人もいます。考え方が違う人もいるでしょう。しかし、それでも、同じ志で、信仰を持ち、教会に連なり、礼拝を守っている。ただ、そのことにおいて、全ての信仰者は、共に、「主の弟子」として、共に生きているのであります。
 教会においても、「もめ事」は、確かに存在をするのであります。しかし、教会の「もめ事」は、あくまでも、「主の弟子である者同士」の問題なのであります。どれだけ、ぶつかり合っても、共通の絆、あるいは土台の上に、私達は、共に立たされているのであります。
 実は、これが、はっきりと明確にされていく、その時にこそ、あらゆる人間関係の問題や課題を乗り越えていく力になっていくのです。逆に言えば、もし、教会に、いつまでも、対立構造が残り続けているとするならば、教会は、あるいは、当事者同士が、未だに確認すべきこと、明確にすべきことが、まだ、出来ていない、ということでもあるわけです。では、この絆は、どこで、確認できるのでしょうか。それは、最後に、お話をしたいと思います。
 そもそも、この問題の内容は、何でしょうか。それは、「やもめに対する日々の分配」に関することでありました。
 当時の教会は、財産に余裕のある信徒が、献金をささげ、それを集めて、分配をしていました。特に、社会の中で弱者と呼ばれる人たち、例えば、「親のいない子ども」や「やもめ」、そして「貧しい人」に対しては、優先的に、資金や食料を分配されていました。
 しかし、この「日々の分配」を巡って、「もめ事」が、生じてしまったわけです。要するに、「日々の分配」に、不公平のようなものが生じてしまった、ということでありましょう。
 今朝の御言葉から言うならば、恐らく、この「日々の分配」は、十二人の使徒たちが中心となって、行っていたと思われます。しかし、日に日に、人数が増え、全体を把握することができなくなったのではないか。そのように考えられます。使徒たちも、人間でありますから、勿論、限界や間違いもあるわけであります。
 さて、ここで、特に注目したいことがあります。それが、この「もめ事」が、教会の「善い働き」の中で、起きてしまった、ということです。「互いに助け合う」という、教会の良い働きの中で、「もめ事」が生じてしまったのです。
 これは、私達も教訓としたいことです。一生懸命に、善いことをしようとする。教会の働きを「より良い」ものとする。「教会のために」「隣人のために」「兄弟姉妹のために」一生懸命になる。それは、決して、悪いことではありません。
 しかし、実は、そのような「一生懸命な善意」というところにも、「もめ事」や「対立」の種があるわけです。いや、そこで、自分の「正しさ」が前面に押し出され、他者を裁こうとする。そのような仕方で、「罪」に隙を与えてしまうことがあるのです。言い方を変えて言うならば、「自分が良い」と思って、一生懸命にしている時にこそ、実は、私達は、一番、「傲慢」になっているのかもしれません。それは、どちらのユダヤ人の立場とて、同じなのかもしれません。
 さて、このような、問題に対して、教会は、どのように、対処をしていくのでしょうか。2節から6節の御言葉をお読みします。「そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた」。
 私達は、時々、もめ事が起きた場合、そこから手を引いてしまうこともあるかもしれません。言うならば、消極的な対処方法を取ることもあるわけです。
 しかし、ここでの対処法は、逆でありました。ここでの問題を解決するために、そして、それが、より適切になされるために、ステファノを始めとする、新しい奉仕者が、七人立てられていくことになるのです。
つまり、今までしてきた働きを、より拡大させ、成長させるために、積極的かつ、新しい対処方法を選んだのであります。今までになかった局面に対して、教会は、今までの制度を新しく更新していくことを選んだのであります。
 はじめにも申し上げましたが、教会は、常に、生きて成長し、前進していくものであります。それは、ある意味では、変化を受け入れていく勇気を持つことでもあります。変化をしていくことは、痛みを伴います。しかし、それこそが、教会が生きて、成長していることの証しでもあるわけです。このように、教会を導く聖霊の働きは、教会に対して、必要であるならば、新たに進んで行く。そのことへと踏み出していく、勇気や励ましも、与えて下さるものなのです。
 さて、ここから、結論に入って行きたいと思います。今朝の御言葉の中で、一番、大切なことがあります。それが、2節の御言葉と4節の御言葉です。2節の御言葉をお読みします。「そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。『わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない』」。続いて、4節の御言葉をお読みします。「『わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします』」。
 教会にとって大切なことは、何でしょうか。それは、何でもかんでも「新しいことを取り入れること」でしょうか。あるいは、教会員の奉仕を「スムーズ」に行わせることでしょうか。そもそも、教会は、この「もめ事」に対して、なぜ、新しい奉仕者を立て、新しい制度を作り出し、導入したのでしょうか。
 その答えは一つです。神様の御言葉に、集中するためです。そのために、教会は、時には何かを捨て、時には、新しいものを取り入れるのです。全ては、神様の御言葉に、全集中を傾けるためなのであります。
 教会には、確かに、様々な問題や「もめ事」があります。それは、教会にとっては、一つの危機です。しかし、教会にとって、最も大きな危機は、神様の御言葉が、ないがしろにされ、妨げられることです。神の御言葉に集中できないことです。ここにこそ、いかなる「もめ事」にも勝る、教会の致命的な危機があります。
 どれだけ、仲の良い教会であっても、どれだけ、善い奉仕が出来ていても、どれだけ、良い教会制度や組織ができていても、そこで、神様の御言葉がないがしろにされ、妨げられ、中心とならないのであれば、教会が、その生命力を失うことにも、繋がるのであります。
 なぜでしょうか。それは、主イエス・キリストの十字架の死と復活。その救いを告げる、主の御言葉こそが、私達にとって、一番の命であるからです。それが、私達を生きるものとする糧だからであります。そして、それこそが、私達を、主の弟子としてつなぐ、和解の道を開く架け橋となるからであります。
 教会には、沢山の人がいます。色々な人がいて、色々な役割があります。それ故に、「もめ事」もある。「恥」をかくこともある。勿論、こういうことは、起らない方が良いのです。成長するために、わざわざ、火種を蒔くことは、成長させてくださる神を信じていない人がすることです。それは、教会を「自分の所有物」にしているにすぎません。
 大事なことは、「もめ事」が起きても、起きなくても、どうしたら、教会の中で、いつでも、人の栄光ではなく、主の栄光だけが輝くのか、どうしたら、主の御言葉に集中できるのか。その視点を持ち続けることではないでしょうか。そして、そのためには、ある時には、自分の大切にしている何かを、喜んで捨て、ある時には、何かを新たに取り入れていく。そのような心が、とても大切にされていくべきなのであります。
 教会は、この世にあっては、完璧ではありません。間違うこともあります。失敗することもあるでしょう。しかし、大事なことは、どのような働きをするにしても、そこで神様の救いの御言葉が真剣に語られ、真剣に聞かれていくことです。そこに、私達の全てを、注ぎ込むことです。その時、教会は、あるいは、教会に連なる全ての人が、何度でも命を取り戻し、前進していくことができる。そして、それもまた、沢山の人々に対する力強い証しにもなるのです。
 これからの日本の教会は、どうなるのでしょうか。私にも分かりません。統計学的には、多少は分かるかもしれません。しかし、どのような状況に立たされていても、ただ主の栄光のために、ただ御言葉に集中するために、私達は、教会の中で、自らの全てを、与えられた賜物を、知恵や知識を、共に分かち合う道を、選び取っていくものでありたいと思います。そして、いつでも、私達自身が、教会を通して与えられる御言葉の命に生かされて、喜びと希望の内に、この私が、主の弟子とされていることを、互いに喜びつつ、新しい歩みを進めて参りたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 18:15| 日記

2021年11月02日

2021年10月31日 主日礼拝説教音声「滅びからの救い」須賀 工牧師

ハレルヤ!主の御名を賛美します!!

10月31日の主日礼拝説教音声版を配信します。良かったらお聴きください(⌒∇⌒)

Spotify
https://open.spotify.com/episode/1RpU29VrEAsSX6W7ZsGfHE?si=34c0a6c788b64d7b

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https://youtu.be/noQ8NoDghG4

どうぞ、よろしくお願いします(*- -)(*_ _)ペコリ
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:12| 日記