2021年11月13日

2021月11月14日 主日礼拝説教「仕えるイエス様」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書10章35節〜45節

 今朝、私達は、合同礼拝を捧げています。昨年は、コロナ・ウィルスの影響を受けて、合同礼拝はできませんでした。今年は、このように、子どもたちと大人が、共に礼拝できることを嬉しく思います。
イエス様は、どういう人でしょうか。イエス様は、子どもを招いてくださる御方です。では、子どもとは、どういう存在でしょうか。聖書では、「子ども」は、「小さい存在」「弱い存在」「誰かの力を借りて生きる存在」と言われています。でも、それで良いのです。イエス様は、このような「子どもたち」を招いて下さるのです。イエス様は、「大人になりなさい」とは言わないのです。むしろ、どちらかと言うならば、「子どものようになりなさい」と言われるのです。
このように、イエス様は、大人のように、何かを持っている人ではなく、「何も持たず」、「弱さ」や「小ささ」を抱えている人、更に言えば、父なる神様の力を必要とする存在。そのような存在を、快く受け入れてくださる。そのような御方なのです。
 けれど、人間は、「子ども」になるのが苦手です。もしかしたら「弱さ」を見せるのが嫌いな人もいるでしょう。「強く」みられたい、という人もいるかもしれません。だから、弱さを隠して、強さを見せるために、一生懸命に頑張るのです。頑張ることで、人から認められたい。偉いと言ってもらいたい。実は、そういう人が、この世には沢山いるのです。けれど、それは、結局、イエス様が願っている、私達の姿とは、全く逆なのです。
 イエス様のお弟子さんの中に、ヤコブとヨハネという人がいました。この二人は、兄弟です。彼らは、イエス様の弟子の中で、最初のお弟子さんでもありました。そして、何よりも彼らは、とても、真面目な、お弟子さんでもありました。
 そのような彼らが、イエス様にお願いをするのです。「イエス様、あなたが、救いを成し遂げられた暁には、私達を、あなたの一番近いところにいさせてください」と。
 実は、このヤコブとヨハネの願いは、他のお弟子さんたちも願っていたことでもありました。ヤコブとヨハネは、その意味で、早い者勝ちに勝ったともいえるかもしれません。なぜ、ヤコブとヨハネは、このようなお願いをしたのでしょうか。
 それは、彼らが、一生懸命だったからです。彼らが頑張ってきたからです。全てのものを捨て、家族と離れ、イエス様に従ってきた。それを認めて欲しい。全てが、終わった時、自分を、誰よりも認めていて欲しい。これが、ヤコブとヨハネの思いです。そして、そこにいた弟子たちの思いでもありました。
これは、キリストを信じる、私達にもあるかもしれません。これだけ頑張って信じてきた。教会にも欠かさずに来た。奉仕も沢山した。だから、認めて欲しい。イエス様の一番近くにいさせてほしい。そういう願いは、私達の心の中にも起り得ることです。でも、それは、少しでも、偉くなりたい。大人として認めて欲しい。そういう気持ちと似ているかもしれません。イエス様は、そのようなことを、弟子たちに求めているのでしょうか。
 イエス様は、彼らに、このように言われます。「では、私と苦しみも共にできますか」と。苦しいことがあっても、一緒にいてくれるか、という問いかけです。ヤコブとヨハネは、何と言ったでしょうか。「できます」と言うのです。
 さて、この後、ヤコブとヨハネは、どうなったでしょうか。彼らは、イエス様を裏切ることになるのです。従えないのです。イエス様が、一番、苦しんでいる時、つまり、あの十字架に架かられている時、彼らは、逃げてしまうのです。
 恐らく、イエス様は、そのことも、ここで、既に、知っていたと思います。彼らが、逃げ去ってしまうこと。彼らが裏切ってしまうこと。彼らが弱いこと。彼らが小さいこと。けれど、その自分の弱さを隠して、自分の強さに生きようとしていること。イエス様は、よくご存じだったのだと思うのです。
 ただし、この弟子たちの弱さを、しっかりと知りつつ、それでも、イエス様は、あの十字架に架かられるのです。なぜでしょうか。彼らの弱さや罪深さを、イエス様が背負って、十字架の上で、「神様ごめん」と代わりに言うためであります。イエス様は、そこまでして、お弟子さんのために生きてくださるのです。
 ヤコブとヨハネは、自分の頑張っている姿を認めて欲しかったのです。これだけのことをしている。こんなにも沢山のことをしてきた。だから、他の人よりも、この自分を認めて欲しい。他の人よりも、偉い人にしてほしい。自分の弱さを隠しながら、強く見られたいと思ったのです。それは、もう、イエス様のためには生きていないです。自分のためです。けれど、イエス様は、その弱さも、よく知っていた。それでも、お弟子さんのために、命を捨ててくださる御方なのです。
 だから、本当に大切なことは、自分のために偉い人になることではない。それは、イエス様のお弟子さんでなくても、みんながそうしている。でも、イエス様のお弟子さんは、そうでなくて良い。自分のためではなく、誰かのために生きる、誰かに仕えて生きていく。それが一番大切なこと。そのことを、イエス様ご自身が、御自身の命を捨てて、証明してくださったのではないでしょうか。
 私たちは、なかなか、イエス様のようには生きられないかもしれません。誰かのためにと言いながら、自分のためにすることもある。言っていることとしていることが違うこともあるかもしれない。
 だからこそ、大切なことは、何よりもまず、イエス様が、この私のために「何をしてくださったのか」ということを思い出すことです。神様と等しい御方が、神様の独り子である御方が、この私のために、あなたのために、何をしてくださったのか。私達の弱さを担って、何をしてくださったのか。そこに、何度でも立ち帰って、自分の生き方を見つめ直していくこと。それが、大切なのです。頑張るから認められるわけではありません。強いから偉いわけではありません。弱くても良いのです。子どものままでもよいのです。何も持たなくてもいい。イエス様は、そのような私達の弱さを知りつつも、私達ために、とことん仕え抜いてくださった。そのこと思いだしていく。その恵みを受け止めていく、その所から、私達の生き方が、新たに始まるのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 12:12| 日記