2021年11月21日

2021年11月21日 主日礼拝説教音声「神の約束」須賀 工牧師

ハレルヤ!主の御名を賛美します!!

本日の礼拝説教音声を配信します!良かったらお聴きください(⌒∇⌒)

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新しい一週間、神様のお守りが豊かにありますように(o^―^o)ニコ
posted by 日本基督教団 石山教会 at 14:50| 日記

2021年11月21日 主日礼拝説教「神の約束」須賀 工牧師

聖書:使徒言行録6章8節〜7章16節

今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録6章8節から7章16節の御言葉であります。今朝の御言葉には、「ステファノ」という人物が、登場します。
 聖書によると、ステファノは、「恵みと力」に満ち、「知恵と霊」によって語り、「信仰と聖霊」に満ちた人であったと言われています。それ故に、初代教会の中でも、特に、影響力のある一人であったと考えられます。
 聖書では、この「ステファノ」を表現する際に、「恵みと力」「知恵と霊」「信仰と聖霊」と記しています。このような仕方で、二つのことが、セットで語られているわけです。
「力」「知恵」「信仰」は、どちらかと言うと、「ステファノ自身が持っている資質」と言えるかもしれません。それに対して、「恵み」「霊」「聖霊」は、神様によって与えられる賜物と言えるでありましょう。
 ここに、ステファノの信仰者としての本質が、よく表されているのではないでしょうか。即ち、彼の「力」も「知恵」も、そして「信仰」も、神様の「霊的な働き」あるいは「恵みの御業」なくして、そこに、本当の意味を持たないのだ、ということであります。更に申し上げるならば、ステファノ自身が、この主の働きを、切に求めつつ、伝道の業に、励んでいたのではないでしょうか。
 このことは、私達にとっても、決して、無関係ではないと思います。どれだけ、人の目に、素晴らしい行いをしていても、自分が中心になり、神様の働きを、切に求めない。その所では、そこに神様の輝きは見られないのであります。
逆に、私達の力や資質が、どれだけ小さく、貧しいものであったとしても、私達が、神様の働きを求め、そして、神様が、そこで働いてくださる。その所にこそ、神様の栄光が表れる。あるいは、教会の中で、主の光や輝きが、生まれてくるのではないかと思うのであります。
その意味で、ステファノは、自分の力に頼るのではなく、ただ一心に、主を見上げつつ、主の働きにより頼みながら、伝道をした人物であると言えるかもしれません。私達もまた、このステファノを通して、「伝道」とは、本来、何であるのか。あるいは、信仰生活の輝きは、どのようにして生まれてくるのか。それらのことを、改めて、深く、教えられるような思いが致します。
 さて、このように、ステファノは、神様に支えられながら、力強い伝道をしていきました。しかし、そこには、当然、ステファノに、敵対する者たちもいたわけであります。それでは、その敵対者たちとは、どういう人たちだったのでしょうか。そして、彼らは、なぜ、ステファノを攻撃したのでしょうか。
 まず、聖書によると、敵対者たちは、「キレネとアレクサンドリア出身」の人々です。彼らは、「解放された奴隷の会堂」に属する人々。このようにも、言われています。そして、「キリキア州とアジア州出身の人々」。この人々が、ステファノの敵対者となったようです。
 彼らには、共通していることがあります。それは、彼らが全て「外国で育ったユダヤ人」だということです。「解放された奴隷の会堂」とは、ローマに征服された際、捕虜とされた人々のことで、今は、解放されて、エルサレムに帰り、このような独自のコミュニティーを作っていたようであります。
 一方、ステファノもまた、その名前から分かりますように、恐らく、「外国で育ったユダヤ人」であったと考えられます。つまり、この前までは、価値観を共有し、一緒に痛みを分かち合い、一緒に笑い合っていた仲間。その仲間たちによって、ステファノは、これから迫害され、そして、最後には、殺されることになるわけであります。
 それでは、なぜ、ステファノは、逮捕されなければいけなかったのでしょうか。ステファノに対する、彼らの訴えは、「聖なる場所と律法を汚した」ということです。「聖なる場所」とは、「神殿」のことです。つまり、「神殿と律法を汚した罪」。その罪で、ステファノを訴えているのであります。
 彼らにとって、「神殿」と「律法」は、自分たちが、選ばれた神の民であることの保証でありました。あるいは、心の拠り所ともいえるかもしれません。それ故に、律法と神殿(そこにある伝統や慣習)を軽んじることは、絶対に許せないことだったわけであります。
 しかし、このような、彼らの気持ちも、「分からなくはない」と言えます。私達もまた、自分の信仰生活の平安を守るために、目に見えるものに固執したり、教会の伝統や慣習を拠り所としてしまったり。そういうことがあるかもしれません。
 知らず知らずの内に、作り上げられた「教会のルール」や「慣習」のようなものに固執し、それがあるから安心できる。そういう信仰生活を、送ってしまっていることもあるかもしれません。あるいは、そこから逸脱しようとする。そのような人を裁いてしまう、ということもあるだろうと思うのです。その時、私達もまた、この敵対者のような姿をしているかもしれません。
 さて、このような、訴えに対して、ステファノは、どのように、答えたのでしょうか。ここから、ステファノによる長い説教が、始まります。今朝は、その最初の部分だけに注目をしたいと思います。
ステファノは、まず、「アブラハム」の話をします。イスラエルの歴史は、この「アブラハム」から始まりました。ここで、大事なことは、「アブラハム」が、神様の言葉を受けて、神様の示す土地に向かって、旅を始めた、ということです。自分の故郷から出て、つまり、安住の地を離れて、主の御言葉に従って、旅を始めたのです。
 しかし、それだけではありません。アブラハムは、財産も持たず、一歩の幅の土地さえも持たずに、旅を始めたのです。財産もない。身寄りもいない。子孫もいない。土地もない。何もない旅。それが、アブラハムの始めた信仰の旅路なのです。信仰生活とは、言うならば、何も持たずに歩む旅であると、ここでアブラハムの話から教えられるかもしれません。
 しかし、そのような、アブラハムにも、持っているものがありました。それが、神様の約束の言葉です。「いつかは、この土地が、あなたの所有地になる」「いつか子孫が増えるだろう」「いつか、あなたの子孫は、奴隷になる。だけど、必ず、私が助けて、この地に連れ帰るからね」。神様は、このように、アブラハムに、「約束の言葉」を与えられたのであります。アブラハムは、この約束に、この御言葉に、支えられながら、歩んだのであります。
 ステファノは、ここで、ユダヤの人々に対して、この「信仰の原点」に立ち帰ることを促しているのではないでしょうか。
 アブラハムの時代には、律法も神殿もないのです。アブラハムは、それらの目に見える保証や拠り所すらないのです。その中で、ただ、神の御言葉に聴き、その約束により頼んで、旅をしたのです。
神の民の原点は、ここにあるわけです。アブラハムのように、目に見える保証が、一切ないところで、ただ、神の約束の言葉を信じて生きる。まずは、そこに立ち帰ってほしい。ステファノを通して、主御自身が、それを、彼らに願っておられるのではないでしょうか。
 他にも、ステファノは、ヤコブやヨセフの話もします。そこで言われていることは、信仰の旅路は、決して、楽ではない、ということであります。色々な問題が起こる。時には、ぶつかり合うこともある。妬むこともある。罪を犯してしまうこともある。あるいは、食べるものに困ることもある。
 しかし、それでも、神様は、あの約束を、忘れないでいてくれた。断固として、約束を貫いてくださった。その救いの約束を、断固として守り抜いてくださった。神様は、約束に対して、変わることなく、真実であり続けて下さった。だから、目に見える何かではなく、目には見えないけれど、変わることなく、取り去られることのない、主の御言葉、主の約束に、立ち帰ってほしい。そのようなメッセージが、ここで強く響いてくるのです。
 そして、この約束は、今や、キリストを通して、最高の仕方で、表されているのです。今や、御子イエス・キリストを通して、地上の神の国ではなく、天にある真の神の国で、永遠に、神と共に生きられる。神様は、あの約束を、新しい仕方で、もっと豊かさをもった仕方で、貫いて下さったのです。
 私達は、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって与えられた、神様の救いの恵みを信じています。御子イエス・キリストは、私達の罪や汚れを背負って、身代わりとなってくださいました。そして、復活を通して、私達にも「永遠の命」を約束してくださいます。この約束は、決して、変わることのない約束です。私達もまた、この約束を覚えつつ、今を歩むのであります。
 信仰の旅路は、決して、楽なものばかりではありません。ステファノのように苦しみを受けることもあります。しかし、ステファノの顔は、「さながら天使の顔」のように見えたのです。捕らえられ、裁判にかけられ、死刑にされようかとしているにも関わらず、ステファノの顔は、天使の顔のように輝いて見えたのであります。
 聖書では、「天使たちは、神様のみもとで、いつも神様の御顔を仰いでいる」と言われます。神様を見上げる、神様の方に顔を向けていく。それによって、天使の顔は喜びと平安に輝くのです。
 ステファノが、この危機的状況の中で、それでも、輝いていたのは、なぜでしょうか。それは、彼が、主イエス・キリストによって与えられた、神様の救いの約束を信じ、この世の目にみえるものに、より頼むのではなく、ただひたすらに、御言葉に立ち帰り、約束に立ち帰り、そのことを通して、神に顔を向け続けていたからではないでしょうか。
 クリスチャンライフには、色々な危機もあります。しかし、その時こそ、主の約束の言葉、救いの約束に立ち帰り、私達に眼差しを向けてくださる、主に顔を向け直して、旅をする。その大切な生き方が、ここで、改めて、ステファノの説教を通して、指し示されていくのです。
 いかなる困難が来ようとも、神様の約束は、変わりません。いかなる困難が来ようとも、私達が、神様と共に、永遠に生きる。そのことは変りません。神様は、このことを指し示すために、今も、御言葉をもって、私達に語り続け、聖餐や洗礼を通して、その恵みを確かにしてくださいます。そのことを、深く心に留めて、その変わることのない約束の御言葉に、日々、立ち帰りつつ、信仰の旅路を共に、励まし合いながら、続けて参りたいと思います。

posted by 日本基督教団 石山教会 at 00:35| 日記