2021年11月27日

2021年12月5日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:ルカによる福音書1章26節〜38節
説教:「マリアへの御告げ」
*礼拝後、誕生者祝福をします。
*分級もあります。

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:使徒言行録7章17節〜43節
説教:「変わることのない愛」須賀 工牧師

感染予防対策をした上で、礼拝をささげています。

今年のクリスマス
12月24日午後7時〜  クリスマスイブ礼拝
12月25日午前10時〜 教会学校クリスマス礼拝
12月26日午前10時30分〜 石山教会クリスマス礼拝

どの礼拝でもお越し頂けます!!(o^―^o)ニコ


posted by 日本基督教団 石山教会 at 20:18| 日記

2021年11月28日 主日礼拝説教「命のパンをいただく」須賀舞伝道師

聖書:ヨハネによる福音書6章22節〜35節

 今朝から、教会の暦では、アドヴェントの期間に入りました。私たちは、本日、待降節第一主日礼拝を守っております。一つ目のろうそくに灯がともっています。このろうそくがすべて灯されると、私たちは嬉しい嬉しいクリスマスを迎えます。クリスマスの時は、キリストの誕生を記念し、祝う時でありますから、このアドヴェントの期間は、2000年前、神様の独り子、わたしたちの主イエス・キリストがこの世にやって来られたことを覚えて、クリスマスまでの時、主を待ち望む心で過ごすのです。
 今朝、わたしたちに与えられた御言葉は、ヨハネによる福音書6:22-35です。本日の話は、主イエスと群衆の対話が中心になっています。6:22には、「その翌日」とあります。これは、本日の物語が、直前で語られている、主が5000人にパンと魚を与えられた奇跡、そして、ガリラヤ湖の湖上を歩かれた奇跡が起こったの「その翌日」であることを意味しています。そして、本日の箇所に出てくる「群衆」とは、主イエスからパンと魚を与えられた人たちでありました。
 話の始まりである22-24節では、この群衆が、イエス様を熱心に探し求める姿が詳細に伝えられています。本日の聖書箇所には、「わたしが命のパンである」という非常に有名かつ、信仰者にとって大切な主の教えが含まれています。しかし、不思議なことに、この福音書は、ストレートに主イエスはこのように教えられた、などとは書き始めずに、その教えを語られた日に起こった出来事を、群衆の動きに焦点を当てて、丁寧すぎると言っていいほどに語るのです。
 これは一体なぜでしょうか。この群衆はそもそも、5000人の給食の前から、イエス様を熱心に追いかけていた人々でありました。主イエスと弟子たちがガリラヤ湖を渡って5000 人の給食の奇跡が起こった場所へとやって来た時、この群衆もその後を追ってやって来ていたのです。そして彼らは、主から与えられたパンと魚によって満たされる経験をしました。しかし、翌日になると、この群衆は、主イエスと弟子たちが乗ってきた舟が無くなっており、また、主も弟子たちもいないことに気がついたのです。6:15には、主イエスが「ひとりで山に退かれた。」とあり、また、6:16-17に記されているように、弟子たちだけが舟でガリラヤ湖を渡る為出発したことを、群衆は知っていました。ですから、主イエスだけが、まだこの近くにおられるに違いないと考えていたのです。
 23節は、ガリラヤ湖の西側の町、ティベリアスから、また別の人たちが、主イエスの後を追ってやって来たことを伝えます。そして、24節には、群衆が、このティベリアスからやって来た舟に分乗して、今度は、カファルナウムへと主を探し求めて向かったということが記されているのです。
 ここまでを読みますと、この群衆がかなり熱心に、いや、熱狂的と言っていいほどにイエス様の後を追っていた人々であったということがお分かりになるでしょう。その熱心さは、パンと魚の奇跡によってさらに高まっていました。皆さんも想像してみていただければと思いますが、5000人の熱狂というのはかなりのものです。スポーツの試合や、コンサートなどでスタジアムを埋め尽くす観客の歓声を想像してみてもいいかもしれません。しかし、これは、ある意味、危険を伴う熱狂とも言えるかもしれません。当然、パンと魚の奇跡が起きた場所には、スタジアムやコンサート会場とは違って無秩序に大勢の人がひしめき合っていたわけですから、危険を伴うような状況であったことも予想されます。そのようなことも含めてこの群衆の熱狂的な様子をご覧になった主イエスは、一度は姿を隠されました。
 しかし、彼らは、舟に乗って主を追っていったのです。舟に乗れるほどの人数ですから、おそらく、この群衆とは、5000人のうちのほんの一部の人々であったと思われます。もしかしたら、5000人の中でも最も熱狂的な人々と言いってもいいかもしれません。
 25節には「そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、『ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか』と言った」とあります。「ラビ」とは、「先生」という意味です。そして、この言葉は、話の流れからすると、この問いは、「先生、いつ、どうやってここにやって来られたのですか。」という質問になるでしょう。ある説教者は、この質問をした時、人々は、腹を立てていたのではないかとも言います。なぜなら、自分たちが思っていたはずのことと、違うことが起こったからです。そして、そのために、自分たちは、わざわざ主イエスをあっちこっち探し回った。このイエスという人は、私たちの求める預言者、指導者となるようなお方なのに、ちっとも私たちの言う事を聞いてくれないではないか。そのような苛立ち、腹立たしさが彼らの中にはあったのではないか、そのようなことを考えるとき、この群衆の姿は、本当の主イエスへの信仰であったのかということを思わされるのです。
 それに対して、主イエスはこのように言われました。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ(6:26)。」ヨハネによる福音書は、主の奇跡を「しるし」という独特の言葉を用いて言います。「しるし」とは、単に超自然的な出来事とは決定的に異なります。主イエスが、神様から遣わされたお方であり、また、神様の業を成し、神様の言葉を語られるお方であることを表す出来事、これが「しるし」です。ですから、本来、人は「しるし」を成されたイエス様を通して、主なる神様を知るはずなのです。
 しかし、26節の主イエスの言葉は、群衆がわたしを追いかけるのは、単に自分たちの求めが満たされたからだ、と指摘します。群衆はこう考えていました。「イエス様が王になってくれれば、わたしたちはいつも満腹でいられる。自分たちが求める奇跡を、このお方は起こしてくださるだろう。」しかし、そのような思いをイエス様は見抜いて、指摘されるのです。
 そして、イエス様は続けてこのように教えられます。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい(6:27)。」パンを食べると、一度は、お腹を満たすかもしれません。しかし、時間が経つと必ず、またお腹が空きます。わたしたちは、お腹が空くとパンを食べる、この繰り返しによって栄養をとって生きています。これは当然のことです。そして、群衆が主に求めていたのは、このような「朽ちる食べ物」でありました。
 しかし、主イエスが本当に与えてくださる食べ物、それは、「いつまでもなくならない」食べ物であり、また、「永遠の命に至る食べ物」であるのです。5000人にパンと魚を主がくださった時、そのパンも、魚も、初めは、到底5000人を満腹にさせるとは思えないほどの少ない量でした。しかし、確かに5000人、いや、女性や子どもたちも入れるとそれ以上の人々を満たす、あふれんばかりの食べ物を主イエスは与えてくださったのです。この奇跡こそ、主イエスが、朽ちることのない、いつまでもなくなることのない、永遠の命に至る食べ物を、わたしたちに与えてくださるお方であることの「しるし」なのです。
 この主イエスのお言葉を聞いた群衆は、28節で、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と尋ねました。当時のユダヤの人々にとっては、永遠の命を神からいただくためには、神の業を行うこと、具体的には律法を守らなければいけないという考えがありました。それが彼らに刷り込まれていた当然の常識だったのです。ですから、彼らは、永遠の命に至る食べ物のために働くためには、どういう神の業を行ったらよいのでしょうか、律法をどのように守り行ったらよいのでしょうか、と尋ねたのです。
 それに対して、主イエスは、このように答えて言われました。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である(6:29)。」「神がお遣わしになった」そのお方こそ、わたしたちの主イエス・キリストであります。主イエスは、「このわたしを信じること、それこそが神の業なのだ。」と言われるのです。
 これを聞いた群衆はこう言いました。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです(6:30-31)。」これは、パンを与えて、満腹になることができれば、あなたたが神様から遣わされたお方だと信じましょうという意味です。やはり、ここでも人々は、自分たちの思いのままになる救い主の姿を求めていると言えるでしょう。
 しかし、彼らがここまでパンを求めるのには一つ訳がありました。それは古からイスラエルに伝えられた伝承を、彼らが考えていたからです。それは、奴隷の民であったイスラエルの人々を預言者モーセがエジプトから導き出した時、天からのパンが与えられたという話です。旧約聖書の御言葉として先ほどお読みした物語です。主イエスが5000人にパンを与えられた時、人々は、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である(6:14)。」と言いました。人々は、イエス様にモーセの姿を見ていたのです。
 しかし、モーセによって与えられたパンは、天から降ってきたパンでありました。つまり、パンは、モーセから出たものではなく、神様からもたらされたものであった、ここが重要なポイントです。イスラエルの民が、荒れ野の厳しい旅路を歩んで行くことができるようにと、神様は、イスラエルの民にパンを与えてくださいました。先ほど、まさにその出エジプト記の物語を朗読いたしましたが、イスラエルの民に与えられたパンとは、有り余るほどのものではなく、必要な糧を必要な分、日ごとに与えてくださった、しかも、余った者は次の日まで取って保管しておくことはできないものでありました。このパンは、神様がイスラエルの民といつも共におられるという「しるし」であったのです。しかし、イスラエルの民は神様が、自分たちの主でいてくださる、ということをすぐに忘れてしまうのです。しかし、そのような民を諦めることなく、神様は日ごとにパンを繰り返し与えてくださったのです。
 主イエスは、そのモーセの時代に日ごとに与えられたパンではなく、いつまでも朽ちることはないパンが、天から降ってきてあなたがたに与えられるのだと言われます。そして、群衆が、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください。」と言った時、イエス様は、「わたしが命のパンである(6:35)。」と言われました。
 神様に繰り返しパンを与えていただきながらも、神様からすぐに離れてしまう。そのような、自分たちの都合いいようにしか神様を信じない人間の心は、罪の闇に包まれていると言わざるを得ません。しかし、繰り返しパンが与えられていたモーセの時代は終わりました。二度とわたしたちが、神様から離れることが無いように、命のパンなる主イエス・キリストが天から遣わされて来られたのです。どんなに自分中心なわたしたちであっても、どんなに神様から離れてしまっているわたしであっても、どんなに深い闇に沈んでしまっているわたしであっても、神様は、御子イエス・キリストをこの世に、わたしたちのところに遣わしてくださったのです。2000年前のクリスマスの夜、闇を照らす光がこの世にやって来られた、わたしたちを救うためにやって来られた。
 わたしたちは、この救い主イエス様を心のうちに迎え入れたいと願います。わたしたちを飢えと渇きから救うためにやって来こられたお方、「命のパンを食べなさい」と招いてくださっているお方を心から受け入れ信じたいと思います。アドヴェントのこの期間、キリストの到来の意味を改めて覚えつつ、クリスマスを待ち望む日々を歩んで参りたいと願います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 20:08| 日記