2021年12月24日

2021年12月26日 主日礼拝説教「世の闇の中の光」須賀 工牧師

聖書:マタイによる福音書1章1節〜17節

 今朝、私達は、2021年、石山教会のクリスマス礼拝を捧げています。御子イエス・キリストの御降誕の恵みを、新たに、味わい直しつつ、共に、今朝の御言葉に聴いて、参りたいと思います。今朝、私達に与えられた御言葉は、マタイによる福音書1章1節から17節の御言葉であります。
ここには、主イエス・キリストの系図が、記されています。この系図の中に、特徴的な5人の人物が出て参ります。まずは、3節の「タマル」。そして、5節の「ラハブ」と「ルツ」、そして6節の「ウリヤの妻」、そして、「マリア」であります。
 この5人には、共通していることがあります。それは、すべて「女性」である、ということです。一般的なユダヤ人の系図には、「女性の名前」は、出てきません。ユダヤ人の系図は、一般的に、「父とその息子」の名前を連ねることで、構成されていきます。つまり、ここに「女性」の名前が、出てくる、そのこと自体が、この系図の一番の特徴となるのです。そして、実は、ここにこそ、私達が、今年のクリスマスに聞くべきメッセージがあるのだ、ということなるわけであります。
 改めて、3節をお読みします。「ユダはタマルによってペレツとゼラを」。これだけを、読むならば、何も、違和感はないかと思います。しかし、実は、ユダとタマルは、夫婦ではありません。「タマル」は、ユダの息子の妻なのです。つまり、ユダは、自分の息子の妻によって、ペレツとゼラを得たことになるわけです。これは、正に、掟によれば「姦淫の罪」に当たります。つまり、救い主の系図には、罪人の名が、残されていることになるわけです。
 次の「ラハブ」とは、どういう女性だったでしょうか。彼女は、いわゆる「エリコの町の遊女」でありました。異教の町の遊女であります。イスラエルの人を助けたことで、イスラエル部族に入れられた人でありました。元々は、全く、神の民ではなかった。そのような存在であります。神様の救いとは、無関係の人。その人が、救い主の系図の中に、名を残しているのであります。
 それでは、「ルツ」は、一体、どういう人物だったでしょうか。「ルツ」は、旧約聖書の「ルツ記」の中心人物であります。しかし、彼女は、同時にモアブ人と呼ばれる「異邦人」でもありました。ユダヤ人にとっては、一番毛嫌いされた民族出身でもあります。ユダヤ人から見れば、「罪人」であり、「汚れた民族」でありました。そのような人の名前が、この系図には残されている。これもまた、驚くべきことであります。
 それでは、「ウリヤの妻」とは、どういう人物でしょうか。「ウリヤの妻」とは、バテシバという名前の女性です。聖書によれば、ダビデは、ウリヤから妻バテシバを奪い、ソロモンを授かります。それだけではなく、夫ウリヤを戦争の最前線に送り出し、戦死させ、まんまとバテシバを妻に迎えたといわれています。恐らく、マタイによる福音書は、明らかに、ダビデの罪を指し示すために、このような表現を用いたのだろうと思います。
 さて、この系図から、何が示されるでしょうか。それは、人間の歴史は、完璧ではない、ということであります。完全な人は、ここには、いないのだ、ということであります。誰もが、ここで傷を持っている。痛みを持っている。あるいは、穢れを抱えている。人間の歴史は、このように、罪や穢れを積み重ねていく中で、成り立っているのであります。
 これは、救い主の系図であります。ですから、華やかなものでなければいけないと、私たちを思うかもしれません。救い主とは、こうあるべきであり、こうでなければいけない。このように考えてしまうこともあるでしょう。間違っても、罪人の名を、記すべきではない。そのように考えてしまうものであります。
しかし、マタイによる福音書は、人間の罪ある歴史の中に、いや、人間の罪の歴史の最後に、イエス・キリストの誕生を位置づけようとしているのであります。ここに大きな恵みが指し示されているのではないでしょうか。
 すなわち、救い主である、主イエス・キリストが、罪人のただ中に来てくださった、ということ。そして、キリストを通して、罪を重ねる歴史に、終止符が打たれていくのだ、ということであります。罪から逃れられない歴史に、キリストを通して、終わりが告げられ、キリストを通して、救いの歴史が、ここから始まるのだ、ということなのであります。
 この系図の最後には、「キリストの名」が記されています。正確に言うならば、「このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」と記されています。これもまた、特徴的な書き方であります。
なぜなら、今までの系図は、「父から息子」という順番で、書かれています。しかし、ここでは「母マリアからイエスが生まれた」と言われている。つまり、主イエス・キリストは、真の人であるだけではなく、夫ヨセフの力を介することなく、神様の御業、聖霊の働きによって、真の神として、お生まれになったのだ、ということ。そのことが、ここで強調されているわけであります。
 神様は、この人間の歴史を見つめつつ、人間をお見捨てになることはなかった。いや、むしろ、御子を通して、御自身の側から、この歴史の中に入って来られ、罪ある歴史を、神様の側から断ち切ろうとしてくださったのであります。
 そもそも「罪」とは、何でしょうか。それは、「神様の御心から離れていくこと」です。端的に言えば、神様を信じないことであります。この系図を見るならば、ここに記されている、本当に多くの人間が、神様に背いた歴史を歩んでまいりました。神様に生かされていながら、神様によって選ばれていながら、神を信じることができず、異教の神々、自分に都合の良い神々を信じた。そういう人が沢山、名を連ねております。その意味で、人間の歴史とは、罪に塗られた歴史であると言えるのです。少なくとも、この系図は、そのことを、まず、私達に伝えているのであります。
しかし、その罪の極みの中にこそ、主イエス・キリストの来臨があるのです。神様は、罪ある人間を裁き、滅ぼすのではなく、御子イエス・キリストを、この世に与えることにおいて、人間を、罪が積み重ねられた歴史から救い出す。そのことを心に留めてくださっているのであります。
 ただ、私たちが、心に留めて置きたいことは、この主イエス・キリストが、私たちを救うために、ただこの世に来ただけではない、ということです。ご自身を犠牲とするために来られたのであります。そこに、神様の救いに対する驚くべき、ご意志があるのです。
 人の世は、罪にあふれている。それは、人間の歴史、系図を見てもよくわかることでありましょう。そして、人間こそが、神様の裁きにかけられ、滅ぼし尽くされても仕方のない存在でありましょう。神様は、ただ一人、正しい御方でありますから、罪を見逃すことはありません。
 しかし、神は、御子イエス・キリストを遣わし、十字架にかけることにおいて、私たちの罪のあがない、犠牲の捧げものとしてくださったのであります。本来は、私たちが受けなければいけない苦しみであり、死であります。しかし、神は、そのすべての苦しみを御子に代わりに負わせられた。これこそ、私たちに与えられた大いなる救いなのであります。
 私達は、クリスマスを通して、この御子の救いに、もう一度、立つことが大切です。クリスマスのカラーは、赤や紫であります。それは、どれも、受難を表した色であります。御子の誕生を覚えることは、この御子が、私達のために、命を捨てて下さったことを覚えることでもある。この計り知れない、大いなる恵みの中でこそ、御子の誕生が、真の喜びへと変えられていくのであります。この深い幸いに、思いを馳せつつ、クリスマスの恵みを、共に味わい、新たに歩み出すものでありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 13:47| 日記

2021年12月23日

2021年12月24日 クリスマス・イヴ礼拝説教「罪から救うイエス様」須賀 工牧師

聖書:マタイによる福音書1章18節〜25節

 私達は、今、クリスマス・イヴ礼拝を、共に捧げております。御子イエス・キリストの御降誕の恵みに、深く思いを馳せつつ、共に、主の御名を賛美するものでありたいと思います。
主イエス・キリストは、何よりも、まず、「真の人」として、お生まれになりました。聖書によると、マリアを通して、主イエス・キリストは、お生まれになられたのであります。
 つまり、主イエス・キリストは、私達と、同じ姿・形で、お生まれになったということであります。私達人間の痛みや苦しみを、知ることができる、そのような御方として、お生まれになった。私達の救い主は、私達から遠く離れた所にいるのではなく、私達と同じ所に立ち、私達の痛みや苦しみを、御自身の痛みとして、知ることが出来る、その所に、生きていて下さるのです。
 しかし、主イエス・キリストには、もう一つ、大切なお姿があります。主イエス・キリストは、「真の人」としてだけではなく、「真の神」として、この世に、降られたのであります。
 聖書によると、主イエス・キリストは、父ヨセフの力を借りることなく、「聖霊」によって、お生まれになられました。つまり、主イエス・キリストは、聖なる御方として、お生まれになられたのであります。
 神様は、私達にとって、もはや、遠く、隔てられた存在ではなく、主イエス・キリストを通して、私達の近くに、人格的に生きていてくださるのであります。本来、絶対的な権威を持つ御方が、主イエス・キリストを通して、御自身の方から、近づいて来て下さり、人間と関わりを持ってくださるわけであります。
 このように、主イエス・キリストは、「真の人」「真の神」として、この世に、お生まれになった。そのことによって、罪や汚れによって、断絶されていた、神様と人間との関係が、神様の側から修復されていくことになるのであります。
 さて、神様は、この主イエス・キリストを通して、何を、成し遂げてくださったのでしょうか。それは、「イエス」という名前からも、示されています。
 「イエス」とは、「神様は、私の救い」という意味です。つまり、神様は、私達を「救う」ために、御子の姿をとって、この世に、来て下さったということなのです。
 それでは、神様は、私達を、何から「救う」のでしょうか。聖書によると、「罪」から、私達を救うのであります。
 「罪」とは、何でしょうか。それは、「ただ一人の神様」を「神様として受け入れないこと」であります。それは、ただ一人の神様以外のものを、頼りに生きることでもありますし、神様を必要としないことでもあります。
 もし、自分は、「毎日、聖書を読んでいる」「毎日、神様にお祈りしている」「聖書のことも、信仰のことも良く分かっている」、だから、自分には、「罪」がないという、そういう自分がいるとするならば、なお、一層、気をつけたいものです。なぜなら、それは、神様により頼んでいるのではなく、「自分の行いにより頼んでいる」からであります。それは、もはや、大きな罪の出来事なのであります。
 このように、たとえ、どれだけ、信仰深い生き方をしていても、私達人間は、罪の力から、逃れ切ることはできないのであります。聖書によると、「罪の代償は死」であると言われています。簡単に言うならば、「罪の罰は死」である、ということであります。誰も、死から逃れることはできません。それは、私達が、この地上にあって、罪から逃れられないからなのであります。
 それでは、私達にとって、「希望」とは、何でしょうか。それは、「永遠の命」です。「死の力を打ち破る命」です。そもそも「永遠」とは、神様の御性質であります。ただ一人、神様だけが、時間にとらわれることなく、永遠に生きる御方であります。
 つまり、私達が、「永遠の命」を得るためには、私達自身が、神様と堅く結ばれていく必要があるわけです。しかし、先ほども、お伝えしましたように、私達には、「罪」や「穢れ」があります。それ故に、神に近づくことはできないのです。
 しかし、神様の側から、主イエス・キリストを通して、私達に近づいてきてくださるのであります。主イエス・キリストには、もう一つの呼び名があります。それが、「インマヌエル」です。「インマヌエル」とは、「神は、私達と共にいる」ということです。私達が、神様と共にいるのではありません。「神様」が、私達と共にいる。神様が、私達と共にいたい、堅く結ばれたいと、願っておられるのであります。
 この神様の御心を伝え、神様と人との懸け橋となるべく、主イエス・キリストは、「真の神」「真の人」として、この世に、お生まれになってくださった。そして、御子イエス・キリストは、この希望を現実のものとするために、私達の罪や穢れを背負い、十字架で、身代わりの死を遂げられた。そして、三日目に、復活された。罪と死を打ち破られたわけです。
 このキリストを、私の救い主として受け入れ、このキリストに結ばれて生きる時、私達も又、御子と共に、罪と死を打ち破り、永遠なる神の御腕に抱かれて、永遠に生きるものへと、造りかえられていくことになるのです。
 その瞬間から、私達にとって、「死」は、もはや「滅び」ではなく、この地上における「罪」との「死別」であり、同時に、永遠の命への入り口となるのです。
 私達は、このキリストを通して、あるいは、このキリストの救いを通して、「神」を「私の父」と呼べるほどに、神様との深い交わりの内に、今を生き、そして、死を迎えることができるのであります。
 大切なことは、主イエス・キリストを、私の救い主として、受け入れるかどうかです。私のための救い主であることを、受け止めることができるかどうかであります。
 キリストを受け入れるために、綺麗な心でなくても良いのです。綺麗な心でなければ、イエス様は、来てくれないのではないか。そのように思う必要はありません。あなたが、どのような心であっても、キリストの側から、あなたの内に、来てくださるのであります。
 主イエス・キリストは、馬小屋で生まれたのであります。動物たちの匂いに満ちた、臭くて、汚くて、暗いところにお生まれになったのであります。ただ、そこが、キリストが来られたことで、聖なるものへと変えられていくのです。
 私達の心も同じです。汚い心があるかもしれない。心が、闇に包まれているかもしれない。しかし、そこにこそ、キリストは、来てくださる。そして、私達を、主の目に適ったものへと、キリストが来てくださることで、造り替えてくださるのです。
 クリスチャンの方々もまた、決して、この地上においては、完全な人間はいません。だから、何度でも、私達は、希望を忘れ、不安になることがあります。だからこそ、もう一度、いや、何度でも、この恵みに立ち帰り、日々、新たにされて、歩みたいと思います。そして、クリスチャンではない方も、このクリスマスの恵みを知っていただき、今、神様は、キリストを通して、永遠に、あなたと、共に、生きる。そのことを望んでおられるのだ、ということ。そのことを、少しでも、味わい知っていただければと思います。
 皆様の上に、御子の御降誕の恵みが、豊かにありますように、心からお祈り申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:49| 日記

2021年12月19日

2021年12月19日 主日礼拝説教音声「真の救い」須賀 工牧師

ハレルヤ!主の御名を賛美します!!

 12月19日(日)の礼拝説教音声を配信します。良かったらお聴きください(*- -)(*_ _)ペコリ

@Spotify
https://open.spotify.com/episode/34S61IUMESM51YSbE2cFEh?si=d-GmIlxAS461D7r5X91-rQ

AYouTube
https://youtu.be/TWIazcRa6Fw

新しい一週間も、神様のお守りが、豊かにありますように、心よりお祈り申し上げます。

posted by 日本基督教団 石山教会 at 14:27| 日記