2021年12月11日

2021年12月19日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:ルカによる福音書2章1節〜7節
説教:「主イエスの誕生」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:使徒言行録8章1節〜13節
説教:「真の救い」須賀 工牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を捧げています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 12:18| 日記

2021年12月12日 主日礼拝説教「ステファノの殉教」須賀 工牧師

聖書:使徒言行録7章44節〜60節

 今朝、私達に、与えられた御言葉は、使徒言行録7章44節から60節の御言葉であります。引き続き、「ステファノの説教」を通して、神様の御言葉に、耳を傾けていきたいと思います。
 これも繰り返しになりますが、そもそも、なぜ、ステファノは、逮捕されなければいけなかったのでしょうか。そもそも、なぜ、彼は、裁判にかけられ、そして、死刑にされなければいけなかったのでしょうか。
 それは、彼が、「モーセの律法」と「神殿」を、冒瀆したからであります。ユダヤ人にとって、「律法と神殿」は、「信仰の拠り所」であります。あるいは、彼らのアイデンティティーでもあるわけです。それ故に、「律法と神殿」を冒瀆されること。これは、到底、許される行為ではなかったわけであります。
 先週は、「律法」を巡って、ステファノの「説教」を聞きました。今朝は、「神殿」を巡って、ステファノの「説教」に耳を傾けたいと思います。「神殿の冒涜者」と呼ばれたステファノが、「神殿」を、どのような仕方で語るのでしょうか。それが、今朝、私達に示されている御言葉であります。そして、このことを通して、私達は、どのようにして、神様と出会い、どのようにして、神様と交わるのか。そのことについても、同時に、注目して参りたいと思います。
 それでは、ステファノは、「神殿」について、どのように考えているのでしょうか。それが、一番、明確に示されているのが、48節の御言葉です。「けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません」。
 ここで、何が言われているのでしょうか。難しいことではありません。「神様は、『神殿』には住んでいない」ということです。これが、ステファノの言いたいことであります。
 逆の立場で、申し上げるならば、ユダヤ人たちは、神様が「神殿」に住んでいると、信じていた、ということになります。神殿は、神様が、住んでいる所。そこに行けば、神様と会える所。そのような、神殿を持っている。それが、彼らの誇りであり、安心であったわけです。
 しかし、それに対して、ステファノは、神様は、「人の手で造られた『神殿』に、住むことはない」のだと、語るわけです。それでは、そもそも、神様と私達は、どこで、どのようにして、出会えるのでしょうか。そのことを、明確に、語るために、ステファノは、イスラエルの歴史、とりわけ、神殿が、生まれる前の歴史から振り返って、語り始めます。
 イスラエルの民は、モーセを通して、エジプトから脱出します。その後、40年間、荒れ野を旅することになります。この40年間、イスラエルの人々は、どこで、どのようにして、神様との交わりを得ていたのでしょうか。
 それが、今朝の御言葉の44節にも、示されていますように、「証しの幕屋」においてであります。「証しの幕屋」、別名、「臨在の幕屋」と呼ばれています。これこそが、神様との出会いの場所であり、そして、何よりも、「臨在の幕屋」は、神様を礼拝する場所なのであります。
 つまり、神様との出会いや交わりは、神様を「礼拝」することで、実現するわけです。そして、もう一つ、大切なことがあります。それは、「臨在の幕屋」は、あくまでも、「幕屋」である、ということです。
「幕屋」とは、何でしょうか。これは、「テント」のことです。「テント」でありますから、勿論、分解することができます。そして、持ち運ぶこともできるわけです。旅をしながら、移動しながら、ある時は「分解」し、また、ある時には「設営」することができます。
 つまり、「証しの幕屋」「臨在の幕屋」は、特定の場所にあるのではなく、荒れ野を行く、信仰の旅路の中で、いつでも、私達と共にあるものなのだ、ということなのであります。
 但し、ここで、注意したいことがあります。それは、この幕屋が、決して、「簡易的」なものではない、ということです。そもそも、この幕屋の建設は、「神様」が、モーセに、命じて、作らせたものであります。つまり、これこそが、本来の礼拝の在り方であり、本来あるべき神様との出会い方なのだ、ということになるわけです。
 言い方を変えて申し上げるならば、神様は、特定の場所、特定の建物や人工物によってではなく、信仰の旅路を歩む私達が、主を礼拝する。正に、その所でこそ、私達と出会ってくださるのだ、ということになるわけです。
 更に申し上げるならば、この「臨在の幕屋」には、「契約の箱」が、置かれています。この「契約の箱」には、「十戒」が、納められています。「十戒」は、言うならば、神様の御言葉そのものであります。先週の御言葉に基づいて言うならば、そこには、「命の言葉」、私達を「神の民として生かす言葉」が、中心にあるのです。つまり、神様は、礼拝を通して、私達と出会ってくださる、それだけではなくて、神の民として生きる。その希望の言葉。その御言葉をもって、私達と交わりを持ってくださるのだ、ということになるのです。これが、本来あるべき、神殿の原点であり、礼拝の精神とも言えるわけなのであります。
この幕屋の精神、礼拝の精神が、その後、「神殿」にも、引き継がれていくことになるのです。第一神殿を建てた、ソロモン王も、その後、登場する預言者たちも、この引き継がれた信仰や精神を大切にしました。それが、47節から50節に、示されています。
 しかし、今、ユダヤ人たちは、この信仰から逸脱し、特定の神殿に拠り所を見出し、安心感を得てしまったのであります。なぜでしょうか。それは、彼らが、預言者−神様の御言葉−を軽んじ、神様の御言葉と向き合うことをしなかったからです。そのことを、ステファノは、ひと言で、まとめています。即ち、「聖霊に逆らった」のだと。
 それは、言い方を変えるならば、目には見えない、神の霊的働きや、目に見えない、主の御言葉に背を向けて、目に見える儀式や神殿に、心が引かれたのだ、ということなのであります。
 礼拝の中心には、御言葉があります。そして、聖霊の働きがあるのです。この聖霊の働きがなければ、神様の御言葉は、私を生かす、命の言葉にはならないのです。この聖霊の働きがなければ、本当に、主と出会うことはないのです。聖霊の働きに目を背け、人間の思いや視点を中心にする所では、礼拝で語られる「説教」が、牧師の解釈やパブリックスピーチにしかならないのです。聖霊の働きを求めず、それに委ねない所で、礼拝は、神様との出会いの場にはならないのです。ただ、特定の場所に、一時の安心感を抱いているだけなのです。そこには、教会はあっても、神との出会いはないのです。教会に行くことはあっても、神様と出会いに行くことはないのです。
 ステファノは、どうして、ここまで、鋭いことを、語れたのでしょうか。それは、何よりも、ステファノ自身が、一つひとつの礼拝を通して、聖霊に満たされて、御言葉に生かされ、そして、主と出会っていたからではないでしょうか。
 ステファノのささげた礼拝は、キリスト教会の礼拝です。その礼拝には、勿論、復活の主が臨んでおられます。一つ一つの礼拝を通して、聖霊に満ち溢れ、復活のキリストと出会う。そこで、御言葉を通して、罪の赦しを知り、救いの約束を味わい直し、新たに生きるものとされてきた。信仰の旅路によって、疲れ切った自分を、本当に癒し、そして、励まして下さる方と、出会うことができた。その深い幸いこそが、このステファノの説教の原動力ともいえるかもしれません。いや、この長い説教全体の原動力が、この礼拝の恵みであったのではないでしょうか。
 さて、ステファノは、このことを通して、ユダヤ人の怒りにふれ、死刑にされます。そして、彗星のごとく現れたステファノは、瞬く間に、殉教の死を迎えることになるわけです。
しかし、このことを通して、何が、示されるのでしょうか。ステファノは、その苦しみや痛みの中で、キリストを見るのです。
 聖書によると、「神の右に立っておられるイエス」を見たのだ、と言われています。普通は、「神の右に座している」と言われます。しかし、今、キリストは、立ち上がっている。言うならば、主は、立ち上がって、ステファノの全てを、受け止めようとしておられるのであります。その幸いを、ステファノはみることができたのです。
 もう一つ、大切なことがあります。ステファノは、最後に、次のように語ります。「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と。この言葉は、主イエス・キリストが、その十字架の上で、語られた言葉です。
 「殉教」という言葉は、「証し」という意味も持っているのです。ステファノは、自分の雄姿を「証し」したわけではありません。キリストの救いを、ここで「証し」しているのであります。もう何も出来ない。もう苦しみしかない。人の目から見たら、無力であり、無意味であるかもしれない。しかし、そこにあってもなお、主の救いを証しするものとして、ステファノは、最後の最後まで、力強く用いられていくのであります。
 真の礼拝の恵みに与り、聖霊に導かれ、主の救いの言葉に生かされて、復活の主に出会う。その人の人生は、いかなる苦しみ中に置かれても、あの救い主が、この私のために、立ち上がって下さることを見ることができる。そして、生きるにしても、死ぬにしても、主のものとして、用いられていく喜びを知りつつ、主の御支配の中で、立ち続けることができる。
私達もまた、信仰生活の旅路の中で、いつでも、苦しみを経験することがあります。目に見えるものに頼りたくこともあります。
 しかし、私達にとって、大切なことは、いかなる時も、礼拝に帰り、礼拝を通して、聖霊の働きに、身を委ね、ただ、一心に、復活の主の御言葉に耳を傾け、そして、復活の主と出会うことを得る。その時、私達は、いかなる苦難の先も、救い主が、この私のために、立ち上がり、手を差し出して、受け止めて下さる。その幸いを見ることができ、主のために、それでも最後まで用いられる。そのことを、真の喜びとすることができるのです。
 この深い幸いを覚えつつ、共に、祈りをもって、新しい一週間の旅路を行くものでありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 12:15| 日記

2021年12月08日

ゆるゆるクリスチャントーク「ムービークロス#2〜レオン篇〜」

ハレルヤ!主の御名を賛美します!!

ゆるクリ!ムービークロス#2〜レオン篇〜を配信します(^▽^)/

よろしくお願いします(⌒∇⌒)

Spotify
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https://youtu.be/qi0ykbzYL5A

posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:58| 日記