2021年12月04日

2021年12月12日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:マタイによる福音書1章18節〜25節
説教:「ヨセフへの御告げ」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:使徒言行録7章44節〜60節
説教:「ステファノの殉教」須賀 工牧師

感染予防対策をした上で、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 18:33| 日記

2021年12月5日 主日礼拝説教「変ることのない愛」須賀 工牧師

聖書:使徒言行録7章17節〜43節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録7章17節から43節の御言葉です。少し、間が開きましたが、前回に引き続き、「ステファノの説教」を通して、共に、御言葉に聴いて参りたいと思います。
 この「ステファノ」とは、どういう人でしょうか。彼は、キリスト教の歴史の中で、初めて、死刑によって、命を落とした、殉教者です。
 そもそも、なぜ、「ステファノ」は、逮捕されなければいけなかったのでしょうか。あるいは、なぜ、彼は、死刑にされなければいけなかったのでしょうか。
 それは、ステファノが、「モーセ−律法−と神殿」を汚したからであります。ユダヤ人にとって、「律法と神殿」は、神様の民であることの「印」でありました。言うならば、信仰生活の「拠り所」とも言えるかもしれません。あるいは、自分たちが、神の民であることを誇るための道具。そのようにも言えるかもしれません。
 それ故に、「律法と神殿」を、汚すことは、到底、許されることではなかったのであります。それは、言うならば、彼らのアイデンティティーを否定することであり、彼らの誇りやプライドを汚すことでもあったわけです。
 さて、ステファノは、「律法と神殿」を、汚した罪で、投獄され、そして、裁判を受けました。今朝の御言葉は、その裁判で、語られた、ステファノの「説教」です。
 この「説教」は、ひと言で言うならば、どのような内容でしょうか。それは、「イスラエルの歴史」についてです。イスラエルの歴史を語ることで、改めて、「神の民」とは、本来、どういう存在でなければいけないのか、ということが、ここで語られているのです。
 前回は、イスラエルの原点でもある「アブラハム」から「ヨセフ」の時代について語られました。そのことを通して、イスラエルの原点は、決して、「律法や神殿」ではないこと。そのような目に見えるもの、あるいは、律法を行うことではない。イスラエルの原点は、「神様の約束の言葉」「救いの言葉」を信じる。その信仰こそが「原点」なのだ、ということ。そのことが、とりわけ強調されて、語られたのであります。
 さて、今朝の御言葉は、その「説教」の続きの部分となっています。それでは、今朝の御言葉は、主に、何を語っているのでしょうか。
 それが「モーセ」という人物についてです。「モーセ」とは、どういう人物でしょうか。一言で言うならば、「イスラエルをエジプトから解放した解放者・指導者・預言者」です。恐らく、ユダヤ教の歴史の中で、最も偉大な預言者と言えるかもしれません。
さて、ステファノは、この「モーセを汚している罪」で逮捕されたわけですが、その彼が、モーセを、どのように理解しているのか。それが、ここで語られていることの、一つのテーマとも言えるかもしれません。
 ステファノは、まず、ここで、モーセの生涯について、触れています。細かい内容については、ここで、お話はいたしません。但し、この「説教」には、一つの大きな特徴があるのです。そこに注目したいと思います。
 その特徴とは、どういう特徴でしょうか。それは、モーセの誕生からモーセが、神に出会い、神によって選ばれ、神によって、エジプトに派遣されるまでの物語。この物語が、非常に細かく論じられている、ということです。
 それに対して、エジプトでの活躍、荒れ野での活躍。それらの活躍については、ほとんど触れられていない、ということなのです。ここから、この説教の強調点が、一つだけ見えてきます。それは、神様が、モーセを選んだのだ、ということであります。
 この強調点を、もう少し、深めてみたいと思います。まず、共に、25節の御言葉に耳を傾けていきたいと思います。「モーセは、自分の手を通して神が兄弟たちを救おうとしておられることを、彼らが理解してくれると思いました。しかし、理解してくれませんでした」。
 続けて、もう一つの箇所、35節も読んでみたいと思います。「人々が、『だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか』と言って拒んだこのモーセを、神は柴の中に現れた天使の手を通して、指導者また解放者としてお遣わしになったのです」。
 この二つの聖句は、絶妙な仕方で、対比されていないでしょうか。かつて、モーセは、「自分の手」で、イスラエルの同胞を救おうとしたのです。自分の手で、平和を勝ち取ろうとしたのであります。しかし、彼は、そこで挫折したのです。同胞に受け入れられず、逃げ出すしか方法はなかったのであります。
 しかし、そのような彼に対して、天使の手を通して、神様の手が差し伸べられた。そして、彼を、神の民イスラエルの指導者、預言者、解放者にしてくださった。イスラエルの救いは、人間の手によってもたらされたわけではないのです。モーセが、イスラエルを救ったわけではないのです。神様が、モーセに手を差し伸べ、彼を憐れみによって選び、用いてくださった。救いは、人の手によって実現したのではなく、神の手によって始まるのです。
 ステファノが、強調しているのは、このことなのです。人間には、救いを実現する力はないのです。神様が、救いを行われる。そのことを抜きに、モーセを理解し、モーセを称賛することは、それは、もはや、モーセの偶像化であり、正に、「偶像崇拝」なのです。
 ユダヤ人の持っている、大きな問題は、知らず知らずの内に、このモーセを、理想的な偶像に仕立て上げてしまったことなのであります。本当に、モーセを大事に思い、尊重するならば、この神様の憐れみや選びを抜きには、語れないのではないか、ということなのです。
 続けて、37節から38節の御言葉に、聴いて参りたいと思います。「このモーセがまた、イスラエルの子らにこう言いました。『神は、あなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。』この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです」。
 ここには、モーセの役割が、書かれています。モーセの役割とは、何でしょうか。それは、神様と民の間に立って、神からいただく「命の言葉」を、神の民に語り伝えることです。
 では、この「命の言葉」とは、何でしょうか。それは、私達を、神の民として、「生かす言葉」とも言えるかもしれません。具体的に言うならば、「律法」です。
 律法とは、神の民として生きるための「言葉」なのです。神の民となるための「言葉」ではなく、「神の民として生きるための言葉」。これが、本来の「律法」の姿なのであります。神様が、憐れみによって、一人ひとりを選び、救い、神の民としてくださった。その恵みの力を覚えて、神の民として、御言葉に従って、感謝して生きる。そのために、律法がある。 
 つまり、この「律法」は、自分の手の力では、到底、救われないことを、この私に教え、神様の恵みの力によってのみ、この私が神の民とされていることを想起させ、その神様の民として、感謝をもって、再び、主に従って生きる。その心を育て上げ、本当の意味で、神の民として生きることの喜びを伝えるものなのであります。
 しかし、いつの間にか、律法そのものに、救いの効力があるように、理解されていくのです。律法を持っていること、律法を行うことが、救いの道であると考えられている。しかし、それもまた、やはり、律法を救いの主体とすることであり、「偶像化」させることに他ならないのであります。
 ステファノは、この一連の説教を通して、イスラエルの歴史が、正に、「偶像崇拝」の歴史を、辿っていることを、ここで明らかにしているのではないでしょうか。実際に、40節から43節にかけて「偶像崇拝」の歴史について、触れています。
 人間は、いつでも、真の神から離れ、自分の理想的な偶像に心を惹かれてしまうことがある。目に見えるもの。形あるもの。納得できるもの。そこに、深い慰めや安心を見出し、それだけを求めてしまう。理想的な神の像を作り上げてしまう。それは、決して、目に見える部分だけではありません。私達の心の中の出来事かもしれません。しかし、その先にあるものは何でしょうか。それが、43節にもあるように、民の滅びだったのです。
 私達にとって、大切なこと。それは、どのような不安な状況に追い込まれていても、神様の救いの約束。その約束の言葉。その言葉に、堅く、繋がって生きることです。アブラハムがそうであったように、そして、モーセが、そうであったように。「わたしが、あなたを救った。わたしは、あなたを神の国へと連れ戻す」。この約束の言葉に、しっかりと連なっていく。そこに、真の神の民としての姿がある。
 この聖書箇所を読みながら、気づかされることがあります。それは、このステファノは、モーセを通して、そこに、主イエス・キリストの姿を見つめているのではないか、ということであります。そのことが、顕著に表れているのが、37節です。「このモーセがまた、イスラエルの子らにこう言いました。『神は、あなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる』」。
 「モーセのような預言者」とは、どういう存在でしょうか。それは、正に、イスラエルの真の指導者であり、解放者であり、神様と民を結ぶ者であり、そして、命の言葉を伝える存在です。
 それは、言うまでもなく、主イエス・キリストのことではないでしょうか。主イエス・キリストは、人々を神の下へと連れて帰る、真の支配者であり、指導者であります。そして、主イエス・キリストは、人々を、罪と死の縄目から解放して下さる御方です。そして、主イエス・キリストは、神と民をつなぐ、真の仲保者であられます。そして、主イエス・キリストは、私達を神の民として生かす「命の言葉そのもの」であります。
 モーセの生涯を語りながら、ステファノは、そこで、主イエス・キリストを見つめていたのではないでしょうか。真剣に、モーセを見つめていく時、そこに、キリストの姿が浮かび上がってきたのかもしれません。
しかし、ステファノは、ここで、主イエス・キリストこそ、モーセ以上の存在であることも、語っています。「わたしのような預言者が、あなたがたのために立てられる」。このように、ステファノは、語りました。この「立てられる」という言葉は、「復活させられる」という意味なのです。
 私達が、礼拝するものがあるとするならば、それは、モーセや律法ではない。復活の主に他ならない。この復活の主は、今も生きておられます。そして、今も、私達を生かす命の言葉を語り続けてくださる。そして、変わることのない、救いの約束の言葉を、今も、私達の一番近い所で、語り続けてくださる。
この復活のキリストに、堅く連なって生きていく。そこにこそ、滅びからの救いがあり、偶像崇拝では、決して得ることのできない、朽ちず、しぼまぬ、真の平安と慰めを得ることができるのです。この深い幸いを、共に味わいつつ、共に信仰の旅路を歩み、救いの完成の日を、神の御国に心を馳せながら、天上の民と、共に待ち望みたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 18:28| 日記