2021年12月18日

2021年12月24日・25日・26日 礼拝予告

12月24日
クリスマス・イヴ礼拝 19時00分〜
説教:「罪から救うイエス様」須賀 工牧師
聖書:マタイによる福音書1章18節〜25節
*YouTubeのライブ配信があります。

12月25日
教会学校クリスマス礼拝 10時00分〜
説教:「イエス様のお誕生」須賀 工牧師
聖書:ルカによる福音書2章1節〜7節

12月26日
降誕節第1主日礼拝 10時30分〜
説教:「世の闇の中の光」須賀 工牧師
聖書:マタイによる福音書1章1節〜17節

正に、クリスマス三昧ということで…

感染予防対策をした上で、礼拝をささげています。皆様のお越しを心より、お待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:40| 日記

2021年12月19日 主日礼拝説教「真の救い」須賀 工牧師

聖書:使徒言行録8章1節〜13節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録8章1節〜13節の御言葉です。改めて、1節から3節の御言葉を、お読みいたします。「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。しかし、信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ。一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた」。
 ステファノが、殉教しました。そのステファノの殉教を機に、エルサレムにおいて、ユダヤ人による、大きな迫害が、起こることになります。そして、教会の人々は、エルサレムに、これ以上、滞在することが、できなくなってしまうわけです。
 教会は、今まで、順調に、成長して参りました。しかし、この迫害によって、教会は、バラバラにされてしまうのであります。ある人の目から見れば、教会は、失敗に終わったのだ、と見えるかもしれません。あるいは、ある人の目から見れば、教会は、挫折に終わったのだ、とも見えるかもしれません。
 しかし、果たして、本当に、そうでしょうか。この聖句には、「サウロ」という人物が、出て参ります。彼は、ステファノの殺害に、賛成した一人です。そして、教会の迫害者の一人でもありました。
 しかし、私達は、ここに、新しい希望も、見出すことができるのではないでしょうか。教会は、終わっていない。神様の救いの約束は、まだ途絶えていない。神様の救いの御計画も、決して、止まることはない。いや、むしろ、この痛みや悲しみの先に、希望が備えられている。私達は、ここで、その幸いを見出すものとされているように思うのです。
 私達は、この「サウロ」という人物を通して、教会が、今、新たなステージに向かって、進み始めていることを、知る者とされている。あるいは、ここに、迫害の痛みの中にあっても、私達クリスチャンは、常に、神様の御計画や御支配の中に生かされたものなのだ、ということ。そのことを、改めて、深く味わい知る者とされているのではないでしょうか。
 この「サウロ」が、後に、「パウロ」と呼ばれることになります。そして、このパウロこそが、世界伝道の立役者として、神様によって立てられていくことになるのであります。
 だからこそ、教会は、まだ、終わっていないのです。神様の救いの御計画は、止まることはないのです。その意味で、今朝の御言葉は、教会が、力強く、世界へと羽ばたいていく。そのための、準備期間ともいえるかもしれません。その幸いが、ここで、まず、示されているのであります。
 さて、この大規模な迫害の末、教会は、その歩みを止めてしまったのでしょうか。今朝の御言葉の4節には、次のような言葉があります。「さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いていた」。
 散って行った人々は、各地で「福音」を伝え始めていくことになります。結果的に、キリスト者が増え、教会が、更に、拡大していくことになるわけです。迫害を受けて、バラバラにされたことで、かえって、教会が、益々、拡大されていくのであります。
 逆境の中でこそ、ただ一つの福音−キリストそのもの−だけを、語り続けていく。その所に、教会の実りがあるのです。反対に、逆境の中で、福音に背を向け、この世に歩調を、合わせて歩んで行く。その所には、教会の衰退しかありません。いかなる苦しみや、悲しみの中に置かれても、ただ一つの福音に立ち、前進していく。そこに、教会の成長があるのであります。
 そして、何よりも、大事なことは、教会に連なる一人ひとりが、その福音の恵み、救いの恵みに満たされて、前進していくことであります。当時のクリスチャンを支配していたのは、もはや、不安や恐れではなかったわけです。聖霊が、喜びが、慰めや救いが、そして、福音−キリストそのもの−が、彼らの心を支配していたのであります。この深い満たしの中で、教会は、前進し、そして、伝道は、更なる広がりをもって、行われていくことになったのではないでしょうか。
 さて、エルサレムから散らされた人の中に、「フィリポ」という人物がいました。聖書によると、彼は、サマリア地方で、「神の国とイエス・キリストの名について福音」を告げ知らせていたようであります。
サマリア地方と言えば、同じイスラエルの領土の中で、特に、排除と差別の対象とされた土地でありました。彼らもまた、エルサレム神殿とは、別の会堂を持って、信仰生活を送っていたようであります。
 そのような土地に、まず、教会が立てられていく。福音が告げ知らされていく。ユダヤ人の目からみれば、神様の救いから、こぼれ落ちたような存在。しかし、そのようなところにも、いや、そのようなところであるからこそ、キリストの光や希望が、力強く、告げ知らされていくことになるのです。
 自分は、神様の救いから、こぼれ落ちているかもしれない。そう思わなくても、良いのです。光の届かないようなところ。そのところにこそ、まず、キリストの救いが、その光は、教会の働きを通して、届けられていくのであります。
 「神の国」とは、「神様の御支配」のことです。主イエス・キリストは、私達の罪を背負って、十字架に架けられました。その主イエス・キリストは、その後、罪と死に打ち勝ちました。そして、キリストを信じる全ての人に、永遠の命を約束してくださいました。こうして、主イエス・キリストの十字架の死と復活の恵み。その恵みを、私の恵みと信じる時、あなたもまた、永遠なる神様の御支配の中に生きることができる。神様のものとして、永遠に生きることができる。そのような、救いを告げ知らせていたわけです。
 更に、その主イエス・キリストが、正に、今、全ての支配者であり、勝利者であることを証する。そのために、沢山の奇跡も、そこで行われていたようであります。聖書によると、多くの人々が、フィリポを通して、御言葉と御業によって、キリストの救いを知り、主の御支配の中へと導かれていったようです。
さて、このサマリアには、「シモン」という魔術師もいたようであります。彼も又、魔術を用いて、人々に驚きを与え、喜ばれていたようであります。聖書によると、「魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称」していたようでもあります。
 魔術というのは、要するに、色々と不思議なことをする力です。見えないものを見たり、知らないはずのことを言い当てたり、あるいは、死者の声を聞いたり、語ったりすること。それが、当時の魔術でありました。
 フィリポも、今申し上げましたように、病気を癒したり、不思議なことをしたりしていました。その意味では、魔術師と同じように見えるかもしれません。
 しかし、フィリポは、勿論、魔術師ではありません。どこが違うのでしょうか。それは、フィリポは、神様の御業、力によって、あるいは、聖霊の働きによって、色々な業をしていました。それ故に、フィリポは、自分自身を、誇ることはありませんでした。
 それに対して、シモンは、神様の力ではなく、自分の持っている力で不思議なことをしていたわけであります。そうでありますから、フィリポとは、対照的に、シモンは、自分の偉大さを誇ることになるわけであります。ここに、大きな違いがあります。
 そもそも、フィリポの目的は、自分の力を誇り、人々を驚かせ、自分に従わせようとする。そのことではなかったのです。むしろ、このことを通して、神様が、今、あなたを救い、あなたを、様々な苦しみや痛みから自由にしてくださるのだ、ということ。神様が、どれだけ、今、あなたを愛し、大切に思っているか。それを伝えることでありました。
 どれだけ、偉大な業や働きができても、それが、自分の誇りのためであるならば、それは、いつかは、廃れていくものであります。しかし、たとえ、それが小さな働きであったとしても、たとえ、自分自身が、目立つようなことはなくても、そこで、神様の御業を、切に求め、神様の力に、全てを委ねつつ、今、目の前の一人と向き合っていく。その時、その一つ一つの言葉と行いが、目の前の人にとっての、真の喜びへと変えられていくのであります。
 結果的に、サマリアの人々も、そして、シモンですらも、神様によって救われていくことになります。
そもそも、なぜ、サマリアの人々は、シモンも含めて、魔術に、心を奪われていたのでしょうか。
それは、どこかで、満たされていない自分が、いたからではないでしょうか。自分は、本当に、神様によって救われているのか。自分は、このままで、幸せに生きることができるのか。その時、目に見える、不思議な業に、心を奪われていく。この不思議な力に、より頼みたくなる。そのことで、安心を得たい。そのような気持ちが、芽生えていくことは、自然なことです。しかし、サマリア地方では、それでもまだ、自分を満たしきることができない。そういう人々が、多かったのかもしれません。
 シモンも同じです。彼にとって、人々の称賛こそが、彼の生きがいでありました。人々に認められたい。人々に褒められたい。そういう気持ちがあった。だからこそ、目に見える人間の業に、より頼んでしまう。しかし、どこかで、完全に、安心しきれない。そのような心があったのかもしれません。
 そのような、人間の様々な不安や恐れの中で、その時、フィリポと出会った。教会と出会った。教会を通して、神様と出会った。人間の業や目に見える業によっては、埋められない、満たされない。そういう人間の限界性の中で、教会に出会った。神様と出会った。
 それだけではない。神様が、この私を救いたいと願っておられることを知った。神様が、この私を愛し、永遠に、共にいたいと言って下さっていることを知った。神様が、御子イエス・キリストを、惜しみなく、死に渡されるほどに、私達を愛しぬいて下さっている。その深い幸いが、御言葉と御霊の力によって、今、彼らを満たしているのです。
 今、彼らは、不安や恐れから解放され、目に見える華々しい魔術からも解放され、真の救いにとらわれて、これからの地上の人生も、そして、死後も、主の御支配の中に入れられているのであります。救いの届かないような、闇の深い現実の中にもまた、神様は、今、教会を通して、このような永遠の真の救いへと、一人ひとりを迎え入れてくださるのです。
 今日は、多くの教会が、クリスマス礼拝を捧げていると思います。今年、石山教会は、12月25日に近い、日曜日に礼拝を捧げることになりました。ただ、少しだけ、クリスマスのお話をします。
このクリスマスの物語の一つに、占星術の学者たちの話があります。彼らは、「三人の博士」とも呼ばれています。
 この博士たちも、実は、「魔術の使い手」であったと言われています。しかし、どこか、心の中で、救い主を求めていたわけです。今の自分が、どうしても救われていない。そのような気持ちを、拭い去ることが、出来なかったわけです。
 神様は、その彼らを、御子イエス・キリストのもとへと導かれたのであります。そして、キリストとの出会いを通して、彼らを、真の喜びへと導かれました。彼らは、喜びをもって、自分たちの全てを、幼子イエスに捧げていきます。自分の全てを、主に明け渡してもなお、彼らには、喜びが、そこで残るのです。
 それに対して、当時の王様ヘロデは、この救い主の存在に、恐れを抱きます。自分の権力を失うことを恐れたのでありましょう。自分の持っているものに、固執したのです。だから、奪われることを、恐れることしかできなかった。
 博士たちは、自分たちの全てを、主に捧げました。それらが、彼らを、本当に、満たすものではない。そのことを知ったからです。だから、全てを明け渡し、主に全てを委ねた。しかし、そこには、それでもなお、喜びが残るのです。喜びに溢れる、彼らの姿があるのです。キリストと出会うことで、全てが満たされていく。キリストにとらえられることで、全てが喜びに変えられていく。今朝の御言葉と、同じ、メッセージがここで示されているようであります。
 私達の人生には、何度も、危機があります。不安や恐れに、支配されることもあります。自分は、本当に救われているのか。そのように、自問自答しながら、答えが出せないこともあります。
 しかし、今、復活の主は、そのあなたにも、福音を指し示し、神様の救いと愛とを、聖霊によって、確かに、届けてくださるのです。大事なことは、その深い恵みを覚えて、自らの身を委ねていくことではないでしょうか。その先に、サマリアの人々、東方の博士が得られた、真の喜びが、確かに備えられているのであります。その深い恵みを覚えつつ、クリスマスに向けた、心の備えを共にしてまいりたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:24| 日記