2021年12月23日

2021年12月24日 クリスマス・イヴ礼拝説教「罪から救うイエス様」須賀 工牧師

聖書:マタイによる福音書1章18節〜25節

 私達は、今、クリスマス・イヴ礼拝を、共に捧げております。御子イエス・キリストの御降誕の恵みに、深く思いを馳せつつ、共に、主の御名を賛美するものでありたいと思います。
主イエス・キリストは、何よりも、まず、「真の人」として、お生まれになりました。聖書によると、マリアを通して、主イエス・キリストは、お生まれになられたのであります。
 つまり、主イエス・キリストは、私達と、同じ姿・形で、お生まれになったということであります。私達人間の痛みや苦しみを、知ることができる、そのような御方として、お生まれになった。私達の救い主は、私達から遠く離れた所にいるのではなく、私達と同じ所に立ち、私達の痛みや苦しみを、御自身の痛みとして、知ることが出来る、その所に、生きていて下さるのです。
 しかし、主イエス・キリストには、もう一つ、大切なお姿があります。主イエス・キリストは、「真の人」としてだけではなく、「真の神」として、この世に、降られたのであります。
 聖書によると、主イエス・キリストは、父ヨセフの力を借りることなく、「聖霊」によって、お生まれになられました。つまり、主イエス・キリストは、聖なる御方として、お生まれになられたのであります。
 神様は、私達にとって、もはや、遠く、隔てられた存在ではなく、主イエス・キリストを通して、私達の近くに、人格的に生きていてくださるのであります。本来、絶対的な権威を持つ御方が、主イエス・キリストを通して、御自身の方から、近づいて来て下さり、人間と関わりを持ってくださるわけであります。
 このように、主イエス・キリストは、「真の人」「真の神」として、この世に、お生まれになった。そのことによって、罪や汚れによって、断絶されていた、神様と人間との関係が、神様の側から修復されていくことになるのであります。
 さて、神様は、この主イエス・キリストを通して、何を、成し遂げてくださったのでしょうか。それは、「イエス」という名前からも、示されています。
 「イエス」とは、「神様は、私の救い」という意味です。つまり、神様は、私達を「救う」ために、御子の姿をとって、この世に、来て下さったということなのです。
 それでは、神様は、私達を、何から「救う」のでしょうか。聖書によると、「罪」から、私達を救うのであります。
 「罪」とは、何でしょうか。それは、「ただ一人の神様」を「神様として受け入れないこと」であります。それは、ただ一人の神様以外のものを、頼りに生きることでもありますし、神様を必要としないことでもあります。
 もし、自分は、「毎日、聖書を読んでいる」「毎日、神様にお祈りしている」「聖書のことも、信仰のことも良く分かっている」、だから、自分には、「罪」がないという、そういう自分がいるとするならば、なお、一層、気をつけたいものです。なぜなら、それは、神様により頼んでいるのではなく、「自分の行いにより頼んでいる」からであります。それは、もはや、大きな罪の出来事なのであります。
 このように、たとえ、どれだけ、信仰深い生き方をしていても、私達人間は、罪の力から、逃れ切ることはできないのであります。聖書によると、「罪の代償は死」であると言われています。簡単に言うならば、「罪の罰は死」である、ということであります。誰も、死から逃れることはできません。それは、私達が、この地上にあって、罪から逃れられないからなのであります。
 それでは、私達にとって、「希望」とは、何でしょうか。それは、「永遠の命」です。「死の力を打ち破る命」です。そもそも「永遠」とは、神様の御性質であります。ただ一人、神様だけが、時間にとらわれることなく、永遠に生きる御方であります。
 つまり、私達が、「永遠の命」を得るためには、私達自身が、神様と堅く結ばれていく必要があるわけです。しかし、先ほども、お伝えしましたように、私達には、「罪」や「穢れ」があります。それ故に、神に近づくことはできないのです。
 しかし、神様の側から、主イエス・キリストを通して、私達に近づいてきてくださるのであります。主イエス・キリストには、もう一つの呼び名があります。それが、「インマヌエル」です。「インマヌエル」とは、「神は、私達と共にいる」ということです。私達が、神様と共にいるのではありません。「神様」が、私達と共にいる。神様が、私達と共にいたい、堅く結ばれたいと、願っておられるのであります。
 この神様の御心を伝え、神様と人との懸け橋となるべく、主イエス・キリストは、「真の神」「真の人」として、この世に、お生まれになってくださった。そして、御子イエス・キリストは、この希望を現実のものとするために、私達の罪や穢れを背負い、十字架で、身代わりの死を遂げられた。そして、三日目に、復活された。罪と死を打ち破られたわけです。
 このキリストを、私の救い主として受け入れ、このキリストに結ばれて生きる時、私達も又、御子と共に、罪と死を打ち破り、永遠なる神の御腕に抱かれて、永遠に生きるものへと、造りかえられていくことになるのです。
 その瞬間から、私達にとって、「死」は、もはや「滅び」ではなく、この地上における「罪」との「死別」であり、同時に、永遠の命への入り口となるのです。
 私達は、このキリストを通して、あるいは、このキリストの救いを通して、「神」を「私の父」と呼べるほどに、神様との深い交わりの内に、今を生き、そして、死を迎えることができるのであります。
 大切なことは、主イエス・キリストを、私の救い主として、受け入れるかどうかです。私のための救い主であることを、受け止めることができるかどうかであります。
 キリストを受け入れるために、綺麗な心でなくても良いのです。綺麗な心でなければ、イエス様は、来てくれないのではないか。そのように思う必要はありません。あなたが、どのような心であっても、キリストの側から、あなたの内に、来てくださるのであります。
 主イエス・キリストは、馬小屋で生まれたのであります。動物たちの匂いに満ちた、臭くて、汚くて、暗いところにお生まれになったのであります。ただ、そこが、キリストが来られたことで、聖なるものへと変えられていくのです。
 私達の心も同じです。汚い心があるかもしれない。心が、闇に包まれているかもしれない。しかし、そこにこそ、キリストは、来てくださる。そして、私達を、主の目に適ったものへと、キリストが来てくださることで、造り替えてくださるのです。
 クリスチャンの方々もまた、決して、この地上においては、完全な人間はいません。だから、何度でも、私達は、希望を忘れ、不安になることがあります。だからこそ、もう一度、いや、何度でも、この恵みに立ち帰り、日々、新たにされて、歩みたいと思います。そして、クリスチャンではない方も、このクリスマスの恵みを知っていただき、今、神様は、キリストを通して、永遠に、あなたと、共に、生きる。そのことを望んでおられるのだ、ということ。そのことを、少しでも、味わい知っていただければと思います。
 皆様の上に、御子の御降誕の恵みが、豊かにありますように、心からお祈り申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:49| 日記