2022年01月08日

2022年1月9日 主日礼拝説教「喜び溢れる」須賀 工

聖書:使徒言行録8章26節〜40節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録8章26節から40節の御言葉であります。今朝の御言葉には、一人の「エチオピア人」が出てきます。聖書によると、彼は、「エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産を管理していた宦官(かんがん)」であったと言われています。
 少し、分かりにくい表現であるかもしれません。要するに、このエチオピア人は、エチオピアという国の「高官」であり、「宦官(かんがん)」であると言われています。
 この人は、まず、女王の全財産を管理する高官でありました。恐らく、エチオピア政府の最高の地位に立つ人物であったと言えるでしょう。
この人が、このような、最高の地位に立つことが、出来たのには、大きな一つの理由があります。それは、この人が、「宦官」であったからです。
 「宦官」とは、去勢された男性で、女王に仕える働きをした人のことです。去勢され、男性としての機能を失うことで、女王に信頼を得て、仕えることが出来たわけであります。つまり、彼の高い地位や名誉は、男性としての機能を失う。そのことと引き換えに得られたものと言えるかもしれません。
さて、このエチオピア人は、エルサレム神殿に、礼拝に来ました。エチオピア−恐らく今のスーダンではないかという説もある−からエルサレムへの旅は、決して、楽な旅ではありません。恐らく、行って帰るだけでも、一年以上、かかるだろうと推測できます。
 しかし、彼は、そのような大変な旅をしてでも、エルサレム神殿に行くことを望み、礼拝をしたいと願ったわけであります。勿論、彼の国には、その国の宗教があり、神殿があり、礼拝もあったことでしょう。それでもなお、彼は、飽き足らず、飢え渇き、エルサレムに行って、ユダヤ人の神を礼拝したい。このように思ったわけです。ここに、この人の、並外れた求道心、真実の救いを求めようとする心。そのようなものが、ここで、強く表されていると言えるかもしれません。
 しかし、ここには、二つの問題がありました。一つは、彼が「異邦人」(ユダヤ人から見て)であった、ということです。ユダヤ人にとって、異邦人は、神様の救いから「隔てられた」人々でありました。それ故に、異邦人は、常に、エルサレム神殿では「後回し」にされていました。彼らは、神殿の真ん中に入ることが、許されず、常に、一番、後ろの庭で、礼拝を捧げることしか、許されていなかったと言われています。
そして、もう一つの理由は、彼が「宦官」であった、ということです。先ほども、申し上げましたが、「宦官」とは、王宮に仕えるために、去勢された男性のことです。旧約聖書申命記23章には、次のような、言葉があります。「すべて去勢した男性は、主の会衆に加わってはならない」と。どれだけ、熱心に、神を求めていても、この人は、宦官であるゆえに、神の民となる資格を得られないのです。救いを、切に求め、真の神を求めていても、そこには、ユダヤ教の「教えや伝統」という名の「隔ての壁」があったのです。
 しかし、この人のすごい所は、それでも、なお諦めなかった、ということです。聖書によると、彼は、帰り道に「聖書」を読んでいました。今の時代、聖書は、誰でも手に入れることができます。しかし、この時代の聖書は、全てが手書きの巻物でした。それ故に、聖書を所有することは、よほどの金持ちでなければ、不可能です。つまり、彼は、大金を支払って、聖書を購入し、その聖書を読みながら、帰国の途についたのです。異邦人として、宦官として、幾つもの「隔て」を受けていながらも、救いから排除されながらも、なお、神様を真剣に求めていく。救いを切に、求めていく。そのような、彼の姿が、ここで強く表されていると思うのです。
 因みに、当時の聖書は、一冊の本や巻物ではありません。それぞれの書が、別々の巻物でありました。今朝の御言葉によると、恐らく、彼は、数ある巻物から「イザヤ書」を手に入れたようです。
 なぜ、彼は、イザヤ書を、手に入れたのでしょうか。恐らく、大きな決め手となったのは、先ほども、共に読みました、イザヤ書56章ではないかと思います。そこには、このように、記されています。「主のもとに集まってきた異邦人は言うな。主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな。見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。なぜなら、主はこう言われる。宦官が、わたしの安息日を常に守り、わたしの望むことを選び、わたしの契約を固く守るならわたしは彼らのために、とこしえの名を与え、息子、娘を持つにまさる記念の名を、わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない…云々」。
 つまり、たとえ異邦人であっても、たとえ宦官であっても、信仰によって、「神の民」になれる。律法において、排除され、隔てられた人であっても、信仰によって、神の民とされる。そういう時代が来るのだ、ということ。そのことが、ここで、預言されているわけであります。
 彼にとって、この箇所は、何にも勝る、希望の御言葉に、なっただろうと思います。この箇所があるからこそ、希望を失わずに、神様を求め続けることができたのではないでしょうか。そして、この救いは、一体、何によって実現するのか、何をしたら実現するのか、そのことを知ろうと、彼は、このイザヤ書を熱心に読んでいたのだろうと思うのであります。
 さて、フィリポが、天使の導きによって、彼の所に遣わされました。その時、彼が読んでいたのが、イザヤ書53章、とりわけ7節と8節の御言葉でありました。
 ここには、「屠り場」に連れて行かれ、黙って毛を刈られる羊のように、苦しめられ、殺されていく、ある人のことが、書かれています。また、このある人は、命を失う故に、子孫を持てない人であると、預言されています。
 しかし、イザヤ書53章には、続きがあります。10節を読むと、内容に大転換が起るのです。即ち、いわれもないままに殺され、子孫を見ることも出来ないはずの、このある人が、自分の子孫が、末永く続くのを見るのだ、と約束されているのです。
 去勢されて、男性の機能を失い、子孫を残せない彼にとって、これもまた、希望の言葉であったと言えるでしょう。そして、同じように、この希望に与るためには、どうしたら良いか。その思いを抱きつつ、イザヤ書53章を朗読していただろうと思うのです。
 フィリポは、彼の疑問に答えました。聖書によると、「イエスについて福音を告げ知らせた」とあります。つまり、このイザヤ書に出てくる「ある人」とは、「あなたのこと」ではない。「イエス・キリスト」のことなのだ、ということ。そのことを、告げ知らせたのであります。
 主イエス・キリストは、罪もないのに、十字架に架けられた御方です。なぜでしょうか。主イエス・キリストは、私達人間の罪を背負い、罪人の代表者となって、十字架で、死なれたからです。
 このキリストの十字架の死によって、私達の罪が赦され、全ての者が、神の民とされます。主イエス・キリストは、特定の誰かのために、命を、捨てられたわけではありません。異邦人のために、宦官のために、あなたのために、あなたの罪を背負って、身代わりとなって、十字架に架けられた。この身代わりによって、全ての人間が、隔ての壁を越えて、神の民となる道、キリストの子孫−神様の子ども−となる道が、切り開かれていくことになるのです。あのイザヤ書の預言は、主イエス・キリストの十字架の死を通して、真に成就しているのであります。
 彼は、神様の救いから隔てられていました。神様の民になる道を断たれていました。自分は、救いを得られないことを痛感していました。
 しかし、今、彼は、神が遣わした、フィリポを通して−教会を通して−キリストと出会い、キリストを知り、自分も、神の民となることができる。神の子どもとなることができる。神様と共に生きられる。そのことを知った。そして、今までの飢え渇きが満たされ、真の喜びに満ち溢れつつ、神の民となる徴として「洗礼」を受けるものへと導かれていったのです。
 皆様には、信じているものがあるでしょうか。これが、自分の救いであると、確信できるものを持っているでしょうか。もしかすると、そういうものを、既に、お持ちになっているかもしれません。
それらを持つことを、私は否定しません。しかし、もう一度、考えて欲しいのです。それが、本当に、あなたの心を喜びに至らせているのか。いや、それが、本当に、あなたを喜ばせ続けるものであるのか。一時の喜びではなく、永遠の喜びになるのだろうか。
 洗礼を受けた後、フィリポの姿は、見えなくなりました。エチオピアの高官にとっては、これ以上、御言葉を説き明かす人が、いなくなった、ということです。しかし、聖書には、はっきりと書かれています。それでも彼は、「喜びにあふれて旅をつづけた」と。
 なぜ、それでもなお、喜びにあふれたのでしょうか。それは、彼が「キリスト」を知ったからです。キリストの救いを知ったからです。キリストが、彼の心の内に宿っているからであります。それで、もう充分、「喜び」なのです。
 聖書を読んでも、わからないことが、沢山あります。よく分からないから、信じられない。そういう人もいるかもしれません。しかし、私達が、聖書から知るべき真理は、ただ一つです。それは、主イエス・キリストを通して、私達が、様々な隔てを越えて、神の民へと招かれている、導かれている、ということです。それで、私達の救いは、十分なのです。
 大切なことは、この救いを、私の救いとするか、ということです。神様は、今も、私達を、神の民へと招き続けてくださいます。もしかすると、私達の前には、沢山の隔ての壁があるかもしれません。しかし、私達が、それを乗り越えるのではなくて、神様が、キリストが、教会を通して、その隔てを乗り越えてくださり、私達の心の内に、キリストを明らかにしてくださる。そして、神の民となる道を、切り開いてくださいます。そして、決して、死をもってすら打ち勝つことのできない、永遠の喜びへと、私達を導かれるのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 20:17| 日記

2022年01月04日

2022年1月2日 主日礼拝説教音声「聖霊を受ける」須賀 工牧師

ハレルヤ!主の御名を賛美します!

1月2日の主日礼拝説教音声を配信します!良かったらお聴きください(*- -)(*_ _)ペコリ

聖書:使徒言行録8章14節〜25節
説教:「聖霊を受ける」須賀 工牧師

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posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:39| 日記