2022年01月23日

2021年1月23日 主日礼拝説教音声「主の選び」須賀 工牧師

ハレルヤ!主の御名を賛美します!!
1月23日の主日礼拝説教音声を配信します。良かったらお聴きください(o^―^o)ニコ

聖書:使徒言行録9章10節〜22節、詩編130篇1節〜8節
説教:「主の選び」須賀 工牧師

@Spotify
https://open.spotify.com/episode/6DWQJXYD8GNNFTbNPIhpv8?si=8f0de61bdfc54930

AYouTube
https://youtu.be/-gRhu_FMOl4

皆様の上に、神様の祝福がありますように、心よりお祈り申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:20| 日記

2022年1月30日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:マルコによる福音書12章28節〜34節
説教:「最も重要な掟について教える」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:ヨハネによる福音書6章32節〜40節
説教:「神様はあなたを見捨てない」須賀 舞伝道師

感染予防対策をした上で、礼拝を捧げます。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 03:06| 日記

2022年1月23日 主日礼拝説教「主の選び」須賀工牧師

聖書:使徒言行録9章10節〜22節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録9章10節から22節の御言葉であります。改めて、10節から12節の御言葉をお読みします。「ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、『アナニア』と呼びかけると、アナニアは、『主よ、ここにおります』と言った。すると、主は言われた。『立って、「直線通り」と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ』」。
 教会の迫害者であったサウロは、ダマスコ途上で、主イエス・キリストと出会いました。キリストと出会ったサウロは、地に倒れ伏し、視力を失いました。つまり、今、彼は、闇の淵に立たされている。そのようにも、言えるかもしれません。あるいは、サウロの回心は、闇から始まった。そのようにも、言えるかもしれません。
 サウロは、熱心なユダヤ教徒でした。律法に堅く立ち、熱心に真理を追究し、真剣に、神に仕えたい、そのように、思っていました。神様の為に、熱心に、真剣に、律法に従って、生きる。これが、彼にとっての信仰者としての生き方でありました
 しかし、その先にあったものは、何でしょうか。それが「闇の淵」だったわけです。これは、とても、大切なことかもしれません。真剣に、熱心に、真理を追究し、神に仕える。そのことで、自分の信仰を確かなものとする。あるいは、救いを確かなものとする。それは、決して、悪いことだけではないと思います。しかし、その先には、「闇」が、待っているのです。
 しかし、ここで、大事なことは、この「闇」が、「キリストと出会う」ことで、初めて、生まれた「闇」であった、ということです。主イエス・キリストと出会い、自分の過ちに気づかされ、自分の力が、全て奪われていく。言うならば、徹底的に、今までの自分が、打ち砕かれていく。その深い闇の中にこそ、信仰の始まりがあるのです。キリストと出会うことがなければ、サウロは、その闇にすら、気づけなかったかもしれません。
 そして、もう一つ、大切なことは、何よりもまず、主イエス・キリストご自身が、サウロと出会う。そのことを、望んでおられた、ということです。そして、その御子イエス・キリストは、世を裁くためではなく、信じるものを救うために、この世に、来て下さった御方であります。
 それ故に、サウロに対しては、一筋の光が、キリストによって、残されていくことになるわけです。主イエス・キリストは、サウロに対して、次のように、仰せになりました。「起きて、町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」と。神に敵対したサウロ。しかし、サウロは、滅ぼされることなく、今も、生きている。いや、生かされている。それだけではありません。なすべきことが、与えられる。もはや、滅びるしかない罪人が、なお、新たに生きることが、許され、神様に、必要とされているのです。
 その深い恵みの中で、今、サウロは、何をしているのでしょうか。「祈りをもって待っている」のです。何を待っているのでしょうか。神様の救いが、この身になることを、待っているのです。神様の御言葉の通り、闇の淵から、完全な仕方で、救い出される。その日を、サウロは、祈りをもって、待ち望んでいるのであります。
 サウロは、今まで、自分の力で、信仰や救いを得ようとしていたかもしれません。自分の真剣さ、自分の熱心さによって、救いを、確かにしようとしていたかもしれません。そこには、神様の救いを待つことよりも、自分の力で、自分の手や足で、救いを勝ち取ろうとする。そのような、サウロの姿が、あると言えるかもしれません。
 しかし、キリストとの出会いを通して、本当の自分の姿を知ることが、出来たわけです。自分が、神に敵対する罪人であることを知った。キリストを前にして、自分が無力であることを知った。信仰や救いの根拠が、自分の側には、何もないことを知った。
しかし、その自分を、それでも、憐れみをもって赦し、生かし、必要としてくださる。そのキリストが、いることも知ったわけです。だからこそ、こう祈らずにはいられないのです。「主よ、私を救ってください。憐れんでください」。そのように、祈りつつ、神の救いを、切に待ち望む。そのような、彼の姿が、ここにあるのではないかと思うのであります。自分の足で、救いを勝ち取ろうとした人間が、今、キリストを通して、神様によって救われることを、待ち望む人へと変えられていったのであります。
 さて、実は、この聖書箇所には、もう一人、恐らく、「打ち砕かれただろう」人物がいます。それが、「アナニア」です。13節から16節の御言葉をお読みします。「しかし、アナニアは答えた。『主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕えるため、祭司長たちから権限を受けています。』すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」」。
 主なる神は、アナニアを、サウロのもとに送ります。しかし、アナニアは、それに抵抗しました。彼にとって、ダマスコのクリスチャンにとっても、サウロは、未だに敵でしかありません。打ちのめされ、視力を失ったサウロを、癒す。それは、彼にとって、とんでもないことであったことでしょう。アナニアの気持ちは、よくわかるものです。
 しかし、神様は、「行け」と命じられます。そして、サウロは、「わたしが選んだ器」だと言われたのであります。「人」が、サウロを選んだのではないのです。神様が、サウロを「器」として、選んでくださった。人間の信念や価値観や感情が、目の前の人を救うのではありません。神が、憐れみをもって、選び、召し出してくださる。人の目から見れば、到底、受け入れられない者であろうとも、神が、器として選び出して下さるのであります。アナニアもまた、その深い、主の憐れみを知りつつ、自らが、打ち砕かれていく。そのような経験を、ここでしたのではないか。そのようにも、言えるのであります。
 この主の導きにより、アナニアは、サウロと出会います。そして、主の御言葉を伝え、癒しを与えました。今まさに、闇から光を見る者へと、サウロは、導かれたわけです。
 その後、サウロは、洗礼を受けます。そして、ダマスコの会堂で、伝道を開始しました。当時のキリスト教の礼拝は、ユダヤ人の会堂で、行われていたそうです。それ故に、サウロを知る者たちは、その変貌を見て、失神するほどに、驚愕したと言われています。ナザレのイエスに敵対していたはずの人間が、今、「イエスは、神の子」だと告白し、「イエスこそが、真の救い主」であると宣べ伝えているのです。それは、人々にとっては、天地が、ひっくり返るほどの驚きであったかもしれません。
 ユダヤ人の会堂で、このような言葉を語ることは、かなり、危険な行為でありましょう。今、目の前にいるのは、元々、サウロと同調しあっていたユダヤ人であります。下手をすれば、命を失うこともあるでしょう。「裏切り者」だと反感を買うかもしれない。そのような、危機的状況の中で、それでも、サウロは、「イエスこそが真の救い主」だと宣言した。そして、それを論証した。単なる感情による言葉ではないのです。知性や理性をもって、主イエスこそが、真の救い主−キリスト−であると、彼は、語り抜いたのであります。
 キリストと出会い、罪を知り、救いを知った。そして、今、キリストのものとされている。そのサウロは、自分の命をも、福音のために、捧げる者へと変えられたわけです。今や、彼の人生は、彼のものではなく、かつて迫害していたキリストのものとされている。そのことが、ここから、よく示されていると言えるのであります。
 しかし、それは、彼の個人的な情熱や熱心さ、あるいは真剣さからくるものではありません。もし、そこに彼の人間的な熱心さがあるとするならば、同じことの繰り返しになるでしょう。サウロは、確かに、熱心です。そして、真剣です。しかし、その熱心さ、真剣さの質が、今までとは、違うものへ変えられた。そのように、言えるかもしれません。
 元々、サウロは、熱心な人間でした。しかし、彼の熱心さは、人を傷つけ、人を殺していく。そのような熱心さであります。実際に、彼は、その熱心さ、真剣さ故に、クリスチャンを殺そうとしたわけです。
しかし、主イエス・キリストの「器」として、新たに生かされた時、そこに生まれる熱心さは、自らに苦しみを引き受け、人を、生かそうとする。そのような熱心さへと変えられたのです。
 その変化は、どのように生じたのでしょうか。それは、何よりも、神様が、主イエス・キリストが、御自身の命を捨てるほどに、あるいは、御自身に苦しみを引き受けて下さるほどに、この私に熱心でいてくださった。そのことを、知る者とされたからでありましょう。
 サウロの、新しい熱心さ・真剣さは、サウロに対する、神の熱心さから始まるのです。自分が、熱心でいることよりも、神様が、キリストの命をささげてまでも、この私の救いのために、熱心でいてくださった。その深い幸いを知る時、彼は、人を殺すための熱心ではなく、むしろ、自分が、苦しみを受けながらも、目の前の人の救いのために、語ることを止めない、語り続ける。そのような情熱へと変えられていったのであります。
 私達も又、キリストと出会い、そのことを通して、罪を教えられながらも、憐れみによって、信仰を頂き、今を得ています。私達もまた、主の器なのです。それまでは、サウロと同様に、欠けの多い器だったのかもしれません。その欠けに気づかず、神と人とを傷つけて生きていたかもしれない。そのような私達は、本来ならば、打ち壊され、捨てられても、良い器だったのかもしれません。
 しかし、キリストと出会うことで、確かに、私達は、打ち砕かれました。しかし、同時に、キリストの手によって、新たな器として、造りかえられ、用いられるものへと導きだされているのです。今、新たにされた私達の器には、神様の愛、キリストの救い、福音の力が、並々と注がれているのではないでしょうか。そして、それを、今、惜しみなく、目の前の人に注いでいく。そのような者として、私達もまた、選び出され、用いられているのです。
 確かに、パウロのような、大きな働きは、出来ないかもしれません。しかし、本来ならば、壊されていくべき、私達が、それでも、主の器として、新たにされている。そこには、人間の思いを、遥かに越えた、神様の御意志と御心による選びがあるでしょう。今、ここで、あなたが、生かされていること、救われていること。そこには、はかり知ることの出来ない、神様の選びと、伝道的な目的がある。私達は、今、全能なる神様に、必要な存在として、今を得、そして、永遠の命を得ている。その幸いを、深く心に留めつつ、感謝をもって、新しい日々を歩み出したいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 02:57| 日記