ハレルヤ!主の御名を賛美します!!!
2月27日の礼拝説教音声を配信します。良かったらお聴きください!
聖書:ヨハネによる福音書6章41節〜59節、エレミヤ書31章31節〜34節
説教:「主イエス・キリストを食す」須賀 舞伝道師
@Spotify
https://open.spotify.com/episode/6z3Osx9NWHjvTP76VYEYDB?si=0380885750634776
AYouTube
https://youtu.be/-jU93bJJRdM
新しい一週間も神様のお守りが豊かにありますように、心よりお祈り申し上げます。
2022年02月28日
2022年2月27日 主日礼拝説教音声「主イエス・キリストを食す」須賀 舞伝道師
posted by 日本基督教団 石山教会 at 13:29| 日記
2022年02月24日
2022年3月6日 礼拝予告
〇教会学校 9時15分〜
聖書:マルコによる福音書14章32節〜42節
説教:「ゲツセマネで祈る」
〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:使徒言行録10章34節〜48節
説教:「聖霊の働き」須賀 工牧師
感染予防対策をした上で、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
聖書:マルコによる福音書14章32節〜42節
説教:「ゲツセマネで祈る」
〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:使徒言行録10章34節〜48節
説教:「聖霊の働き」須賀 工牧師
感染予防対策をした上で、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 22:09| 日記
2022年2月27日 主日礼拝説教「主イエス・キリストを食す」須賀 舞伝道師
聖書:ヨハネによる福音書6章41節〜59節
今朝、私たちに与えられた御言葉は、ヨハネによる福音書6章41-59節です。本日の物語は6章22節から始まったイエス様とユダヤ人たちとの会話の続きになります。イエス様は、この直前の箇所で「わたしが命のパンである(35節)」と言われました。そして、この「命のパン」とは、父なる神様が天から与えたまことのパンであり、神のパンは天から降って来て、世に命を与えるものである、と説明されたのです。
この「わたしは天から降ってきたパンである(41節)。」という言葉に、ユダヤ人たちは引っかかりました。そして彼らはこんなことをヒソヒソと言いはじめるのです。「どうして今、『わたしは天から降ってきた』などと言うのか(42節)。」当時の常識として、天から降って来るのは神様だけであるという考えがありました。この考えからすると、「わたしは天から降って来た」というのは、「わたしは神である」と同じことです。この言葉にユダヤ人たちは躓いたのです。主イエスとユダヤ人たちとの対話の一つ目の論点、ポイントは、イエスは神なのか人なのかということでありました。
律法には、「わたしには、わたしをおいてほかに神があってはならない(出エジプト20章3節)。」という掟があります。つまり、主なる神様は、だだお一人であるということです。そして、主なる神様以外の人も像も神として崇めてはいけないのです。このことから、イエス様がこの時「わたしが天から降ってきたパンである」と言われたことがいかに、ユダヤ人たちにとってありえない言葉であったかが分かるでしょう。
しかも、この時、ユダヤ人たちは、「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。」と言っています。彼らはイエス様の家族を知っていたということです。第6章の物語の舞台であるガリラヤ地方はイエス様が育った場所でした。ですから、ここに集まってきた群衆の中には、以前からイエス様のことを知っている人もいたでありましょう。父である大工のヨセフも母のマリアも知っている、その息子のイエス様が「わたしは天から降って来た」などと言うのは受け入れ難い、と思ったのです。
イエス様は、ご自分を神と等しいものであるとおっしゃる。けれども、目の前にいるこのイエスという人は、どう考えても自分たちと同じ普通の人間だ。先ほども申しましたが、これは、イエスは神か人かという問題です。
この問いは、何も、当時のユダヤ人だけの問いではありません。イエスとは一体、誰なのか。キリスト教2000年以上の歴史の中で、ある人は、イエスは神ではない。イエスは人間だ、と言いました。また、聖書を素晴らしい人生訓の一つとして読んだり、イエスは立派な教えや人々のために良いことをした聖人君子であると考えたりする人も世の中にはたくさんいます。ここにいる皆さんの中にも、もしかしたら、キリスト教と初めて出会った時は、イエスが天から降ってきた者、即ち、まことの神が人間となったお方だということに戸惑いを覚えた方がおられるかもしれません。
しかし、聖書は、一貫して、主イエス・キリストは、人間となった神であるということを強調します。このヨハネによる福音書も、冒頭の1章1節で「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と宣言します。「言」とはイエス様を指します。ですから、「言は神であった。」とは「イエスは神であった」と言うことです。またこの福音書には、イエス様が、度々、神様を「わたしの父」と呼び、ご自身は神の独り子であることを示され、この世に来て、父なる神様の御心を行い、父なる神様の言葉を話すのだとお語りになったということが伝えられています。
それは本日の物語で、イエス様がご自分を「わたしは天から降って来たパンである」と言われたことも同じです。このようにヨハネ福音書は、主イエス・キリストとは、独り子なる神であられることを強調しますが、そもそも聖書という書物自体が旧約・新約、全体を通して、「イエスこそまことの神である」ということを証しする書物であるのです。
しかし、当時のユダヤ人が「このイエスという男は本当に神なのか?」とつぶやきあったように、私たちも聖書の言葉を素直に受け入れて、「イエスこそまことの神である」と信じて告白することは容易なことではなかったはずです。ここに、イエス様とユダヤ人たちの対話のもう二つ目の論点、ポイントがあるでしょう。それは、どうしたら「イエスこそまことの神である」と信じることができるか、ということです。
今日の箇所で、イエス様は、この問い対してこうお答えになりました。「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない(44節)」これは、「イエスこそまことの神である」と信じる信仰とは、その証拠を見て納得して信じるということではないということです。信仰とは、人の思いや理解を超えて、父なる神様が私たちを導いてくださって初めて与えられるものである、そうイエス様は教えておられるのです。
45節には、『彼らは皆、神によって教えられる』という預言者の言葉が引用されています。これはおそらく、旧約聖書の二つの言葉に由来しています。一つは、イザヤ書54章13節の「あなたの子らは皆、主について教えを受け」です。そして、もう一つは、本日お読みしたエレミヤ書31章34節の「そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである。」という預言です。特に、このエレミヤ書の預言は、新しい契約の預言として有名でありましょう。主なる神様は、預言者エレミヤに、イスラエルの先祖と結んだ契約、つまり十戒とは別に全く新しい契約を結ぶと言われました。そして、その契約とは、律法を胸の中に授け、心にそれを刻むものであり、契約が結ばれた時には、人々はもはやお互いに教えあうことなく、まことの主なる神様を知るようになるのだと言われたのです。
この新しい契約とは、まさに天からこの世に来てくださった主イエス・キリストそのものであります。主イエス・キリストを通して、神様と人とはそれまでとは全く違う、新しいかたちで結び合わされたのです。主イエス・キリストこそまことの神であり、主イエスの元へと近づき結ばれることこそが神様と結ばれる道であるのです。
では、私たちが主イエス・キリストと深く結ばれるためにはどうしたら良いのでしょうか。45節でイエス様は「父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る」と言われます。父なる神様によって教えられ、その教えを聞いて学ぶことで主イエスに近づくことができる、ということです。それは聖書の御言葉に聞くということです。当時は旧約聖書のみでしたが、私たちには新約聖書も与えられています。この聖書から神様の教えを聞こうとせず、自分の考えや感覚、あるいは常識や異なる教えによって主イエスのことを判断しようとしても主イエスに近づくことはできません。人間の感覚や常識からすれば、ヨセフの息子で両親のことも知っている普通の人間イエスが天から降って来た独り子なる神であるはずはないのです。
そして、ここまでの議論で一番大切なポイント、それは、主イエス・キリストを信じることと父なる神様を信じることは一つであるということです。私たちは、父なる神様によって主イエス・キリストの元へと導かれ、また、父の独り子である神、主イエスによって神様が示され神様を知ることができるのです。
ところで、このイエス様とユダヤ人との対話は、6章の冒頭から始まる5000人にパンと魚を与える奇跡物語から始まったものでした。主イエスは奇跡を味わった群衆に対して何度も「わたしは命のパンである(48節)。」と語られました。この命のパンは、食べるものが二度と飢えることのないパンであると言われます。そして、51節において、イエス様は「わたしは、天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためにわたしの肉のことである。」と語りました。
天から降った命のパン、それはイエス様そのものであって、イエス様の肉である、と言うのです。続く53節の「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」というイエス様の言葉は、当時も今も強烈な印象をもった言葉でありましょう。本日の説教題を「主イエス・キリストを食する」としました。この箇所からとった説教題です。当時の人々は、この言葉にも大きな躓きを覚えました。それは、イエス様と対立していたユダヤ人たちだけでなく、弟子たちも同じであったようです。次の箇所は、これらのイエス様の言葉を聞いて、「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」と伝えています。イエス様の言葉が指し示す本当の意味をこの時、誰も理解することはできなかったということです。
しかし、主イエス・キリストの肉を食べ、血を飲むということが何を示すのか、ここに集う兄弟姉妹方は、よくお分かりだろうと思います。これはまさに主イエスの十字架の死、つまり、これから主が肉を割かれ、血を流されることを指し示している言葉であり、また、その肉と血が私たちの罪を聖める「しるし」であるということを言い表しているのです。そして、私たちの教会が月に一度礼拝の中で守る「聖餐」は、そのことを覚えて執り行うものであります。パンとぶどう酒は、十字架で割かれ流れ出た主の肉と血です。
この主の十字架の痛み苦しみを知り、覚え、また、実際に食することによって、私たちは主イエス・キリストと固く深く結ばれ、一つとなるのです。主イエス・キリストはその聖なる食卓にあなたを招いておられます。主イエス・キリストは、今日も言われます。「わたしを信じて、わたしを食し、わたしを飲みなさい。」と。どうか、一人でもの多くの方がこの主の招きに応えて信仰へと導かれることを願います。そして、信じる者たち、兄弟姉妹方の信仰が、主イエス・キリストを食することによってますます強められますことを祈り願います。
今朝、私たちに与えられた御言葉は、ヨハネによる福音書6章41-59節です。本日の物語は6章22節から始まったイエス様とユダヤ人たちとの会話の続きになります。イエス様は、この直前の箇所で「わたしが命のパンである(35節)」と言われました。そして、この「命のパン」とは、父なる神様が天から与えたまことのパンであり、神のパンは天から降って来て、世に命を与えるものである、と説明されたのです。
この「わたしは天から降ってきたパンである(41節)。」という言葉に、ユダヤ人たちは引っかかりました。そして彼らはこんなことをヒソヒソと言いはじめるのです。「どうして今、『わたしは天から降ってきた』などと言うのか(42節)。」当時の常識として、天から降って来るのは神様だけであるという考えがありました。この考えからすると、「わたしは天から降って来た」というのは、「わたしは神である」と同じことです。この言葉にユダヤ人たちは躓いたのです。主イエスとユダヤ人たちとの対話の一つ目の論点、ポイントは、イエスは神なのか人なのかということでありました。
律法には、「わたしには、わたしをおいてほかに神があってはならない(出エジプト20章3節)。」という掟があります。つまり、主なる神様は、だだお一人であるということです。そして、主なる神様以外の人も像も神として崇めてはいけないのです。このことから、イエス様がこの時「わたしが天から降ってきたパンである」と言われたことがいかに、ユダヤ人たちにとってありえない言葉であったかが分かるでしょう。
しかも、この時、ユダヤ人たちは、「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。」と言っています。彼らはイエス様の家族を知っていたということです。第6章の物語の舞台であるガリラヤ地方はイエス様が育った場所でした。ですから、ここに集まってきた群衆の中には、以前からイエス様のことを知っている人もいたでありましょう。父である大工のヨセフも母のマリアも知っている、その息子のイエス様が「わたしは天から降って来た」などと言うのは受け入れ難い、と思ったのです。
イエス様は、ご自分を神と等しいものであるとおっしゃる。けれども、目の前にいるこのイエスという人は、どう考えても自分たちと同じ普通の人間だ。先ほども申しましたが、これは、イエスは神か人かという問題です。
この問いは、何も、当時のユダヤ人だけの問いではありません。イエスとは一体、誰なのか。キリスト教2000年以上の歴史の中で、ある人は、イエスは神ではない。イエスは人間だ、と言いました。また、聖書を素晴らしい人生訓の一つとして読んだり、イエスは立派な教えや人々のために良いことをした聖人君子であると考えたりする人も世の中にはたくさんいます。ここにいる皆さんの中にも、もしかしたら、キリスト教と初めて出会った時は、イエスが天から降ってきた者、即ち、まことの神が人間となったお方だということに戸惑いを覚えた方がおられるかもしれません。
しかし、聖書は、一貫して、主イエス・キリストは、人間となった神であるということを強調します。このヨハネによる福音書も、冒頭の1章1節で「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と宣言します。「言」とはイエス様を指します。ですから、「言は神であった。」とは「イエスは神であった」と言うことです。またこの福音書には、イエス様が、度々、神様を「わたしの父」と呼び、ご自身は神の独り子であることを示され、この世に来て、父なる神様の御心を行い、父なる神様の言葉を話すのだとお語りになったということが伝えられています。
それは本日の物語で、イエス様がご自分を「わたしは天から降って来たパンである」と言われたことも同じです。このようにヨハネ福音書は、主イエス・キリストとは、独り子なる神であられることを強調しますが、そもそも聖書という書物自体が旧約・新約、全体を通して、「イエスこそまことの神である」ということを証しする書物であるのです。
しかし、当時のユダヤ人が「このイエスという男は本当に神なのか?」とつぶやきあったように、私たちも聖書の言葉を素直に受け入れて、「イエスこそまことの神である」と信じて告白することは容易なことではなかったはずです。ここに、イエス様とユダヤ人たちの対話のもう二つ目の論点、ポイントがあるでしょう。それは、どうしたら「イエスこそまことの神である」と信じることができるか、ということです。
今日の箇所で、イエス様は、この問い対してこうお答えになりました。「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない(44節)」これは、「イエスこそまことの神である」と信じる信仰とは、その証拠を見て納得して信じるということではないということです。信仰とは、人の思いや理解を超えて、父なる神様が私たちを導いてくださって初めて与えられるものである、そうイエス様は教えておられるのです。
45節には、『彼らは皆、神によって教えられる』という預言者の言葉が引用されています。これはおそらく、旧約聖書の二つの言葉に由来しています。一つは、イザヤ書54章13節の「あなたの子らは皆、主について教えを受け」です。そして、もう一つは、本日お読みしたエレミヤ書31章34節の「そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである。」という預言です。特に、このエレミヤ書の預言は、新しい契約の預言として有名でありましょう。主なる神様は、預言者エレミヤに、イスラエルの先祖と結んだ契約、つまり十戒とは別に全く新しい契約を結ぶと言われました。そして、その契約とは、律法を胸の中に授け、心にそれを刻むものであり、契約が結ばれた時には、人々はもはやお互いに教えあうことなく、まことの主なる神様を知るようになるのだと言われたのです。
この新しい契約とは、まさに天からこの世に来てくださった主イエス・キリストそのものであります。主イエス・キリストを通して、神様と人とはそれまでとは全く違う、新しいかたちで結び合わされたのです。主イエス・キリストこそまことの神であり、主イエスの元へと近づき結ばれることこそが神様と結ばれる道であるのです。
では、私たちが主イエス・キリストと深く結ばれるためにはどうしたら良いのでしょうか。45節でイエス様は「父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る」と言われます。父なる神様によって教えられ、その教えを聞いて学ぶことで主イエスに近づくことができる、ということです。それは聖書の御言葉に聞くということです。当時は旧約聖書のみでしたが、私たちには新約聖書も与えられています。この聖書から神様の教えを聞こうとせず、自分の考えや感覚、あるいは常識や異なる教えによって主イエスのことを判断しようとしても主イエスに近づくことはできません。人間の感覚や常識からすれば、ヨセフの息子で両親のことも知っている普通の人間イエスが天から降って来た独り子なる神であるはずはないのです。
そして、ここまでの議論で一番大切なポイント、それは、主イエス・キリストを信じることと父なる神様を信じることは一つであるということです。私たちは、父なる神様によって主イエス・キリストの元へと導かれ、また、父の独り子である神、主イエスによって神様が示され神様を知ることができるのです。
ところで、このイエス様とユダヤ人との対話は、6章の冒頭から始まる5000人にパンと魚を与える奇跡物語から始まったものでした。主イエスは奇跡を味わった群衆に対して何度も「わたしは命のパンである(48節)。」と語られました。この命のパンは、食べるものが二度と飢えることのないパンであると言われます。そして、51節において、イエス様は「わたしは、天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためにわたしの肉のことである。」と語りました。
天から降った命のパン、それはイエス様そのものであって、イエス様の肉である、と言うのです。続く53節の「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」というイエス様の言葉は、当時も今も強烈な印象をもった言葉でありましょう。本日の説教題を「主イエス・キリストを食する」としました。この箇所からとった説教題です。当時の人々は、この言葉にも大きな躓きを覚えました。それは、イエス様と対立していたユダヤ人たちだけでなく、弟子たちも同じであったようです。次の箇所は、これらのイエス様の言葉を聞いて、「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」と伝えています。イエス様の言葉が指し示す本当の意味をこの時、誰も理解することはできなかったということです。
しかし、主イエス・キリストの肉を食べ、血を飲むということが何を示すのか、ここに集う兄弟姉妹方は、よくお分かりだろうと思います。これはまさに主イエスの十字架の死、つまり、これから主が肉を割かれ、血を流されることを指し示している言葉であり、また、その肉と血が私たちの罪を聖める「しるし」であるということを言い表しているのです。そして、私たちの教会が月に一度礼拝の中で守る「聖餐」は、そのことを覚えて執り行うものであります。パンとぶどう酒は、十字架で割かれ流れ出た主の肉と血です。
この主の十字架の痛み苦しみを知り、覚え、また、実際に食することによって、私たちは主イエス・キリストと固く深く結ばれ、一つとなるのです。主イエス・キリストはその聖なる食卓にあなたを招いておられます。主イエス・キリストは、今日も言われます。「わたしを信じて、わたしを食し、わたしを飲みなさい。」と。どうか、一人でもの多くの方がこの主の招きに応えて信仰へと導かれることを願います。そして、信じる者たち、兄弟姉妹方の信仰が、主イエス・キリストを食することによってますます強められますことを祈り願います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 22:03| 日記