2022年02月20日

2022年2月20日 主日礼拝説教音声「救いの恵み」須賀 工牧師

ハレルヤ!主の御名を賛美します!!

本日の礼拝説教音声を配信します(o^―^o)ニコ

良かったらお聴きください!

@Spotify
https://open.spotify.com/episode/6zZvVTZkSaLqeD81p2S2Eu?si=dad634f0f00e40fe

AYouTube
https://youtu.be/ZHb4zzeRnuM

新しい一週間も、神様のお守りが豊かにありますように、心からお祈り申し上げます。



posted by 日本基督教団 石山教会 at 13:24| 日記

2022年02月15日

2022年2月27日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:マルコによる福音書14章22節〜26節
説教:「聖餐を制定する」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:ヨハネによる福音書6章41節〜59節
説教:「主イエス・キリストを食す」須賀 舞伝道師

*コロナ・ウイルス感染症の感染状況等々によって、プログラムの変更やオンラインのみの礼拝になることもあります。ご了承ください。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:40| 日記

2022年2月20日 主日礼拝説教「救いの恵み」須賀 工牧師

聖書:使徒言行録10章1節〜33節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録10章1節から33節の御言葉であります。今朝の御言葉には、二つの町が、出て参ります。一つは、「ヤッファ」です。もう一つは、「カイサリア」であります。
聖書によると、使徒ペトロが、この「カイサリア」で、伝道をした。それが、今朝の御言葉の結論として、示されている、大きな出来事であります。
 この二つの町は、地理的に言うならば、とても、近い町であったと言われています。直線距離で、およそ50キロぐらいでありました。しかし、信仰的、あるいは、精神的に言うならば、決して、交わることのない、とても遠い町でもありました。
 「ヤッファ」という町は、イスラエルの中でも「古い町」の一つです。旧約聖書にも、その町の名が残されています。また、イスラエルの大型都市の一つ「テルアビブ」という港町もありました。
 それに対して、「カイサリア」は、比較的「新しい町」であります。「カイサリア」は、クリスマスにも出てくる、あの「ヘロデ大王」が、造った大型都市でありました。「カイサリア」という名前は、ローマ皇帝カエサルからつけられた名前です。それ故に、その名の通り、ローマの兵が、駐屯する町でも有名でありました。
 この二つの町には、大きな「隔たり」がありました。それは、言い換えるならば、「ユダヤ人」と「異邦人」の「隔たり」とも言えるかもしれません。その意味で、使徒ペトロが、「カイサリア」で、伝道をすること。これは、決して、簡単な話ではなかったようであります。
 恐らく、ユダヤ選民主義という理念。この伝統的な価値観は、教会の外にも、中にも、まだまだ、根強く残されていたようであります。そのことについては、今朝の御言葉の28節にも、よく表されていると言えるでありましょう。あるいは、ペトロの幻の中で、ペトロが、清い動物を食べることを拒んだ。そのような、様子からも、知ることができるかもしれません。ユダヤ人は、神に選ばれた民である、ということ。救い主は、ユダヤ人のためにいるのだ、ということ。教会の中にも、外にも、このような、ユダヤ人を優位とする価値観は、まだまだ、根が深いと言えるわけです。
 それでは、このような、「隔たり」は、どのような仕方で、取り除かれていったのでしょうか。今朝の御言葉は、その隔たりが、どのような、仕方で、取り除かれていくのか。そのことに注目をしながら、共に聴いて参りたいと思います。
 今朝の御言葉には、「コルネリウス」という人物が、出て参ります。この人は、ローマの百人隊長でありました。また、聖書によると、彼は、信仰深く、神を畏れる人でありました。更に、同時に、ユダヤ人からも信頼を置ける人物であったようです。そうであるならば、このような、コルネリウスの人間性や信心深さが、両者の隔たりを、取り除いたのでしょうか。恐らく、そうではないだろうと思います。
 今朝の御言葉において、一番、特徴的なことは、「幻」です。コルネリウスも使徒ペトロも、共に「幻」を見ました。聖書における「幻」とは、神様の「お告げ」、あるいは、神様の「御言葉」そのものを、あらわしています。
 つまり、コルネリウスも、使徒ペトロも、神様の御言葉に押し出されるようにして、出会うことができた、ということになるわけであります。
 つまり、ここで、働いているのは、人間ではなく、「神様」御自身であった、ということであります。福音を伝える者も、福音を伝えられる者も、神様の御言葉の導きによって、動かされているのだ、ということなのであります。
 更に言い方を変えて申し上げるならば、「異邦人」と「ユダヤ人」の隔たりは、神様の御言葉による、導きの中で、取り除かれていくのだ、ということなのであります。
 人間の信仰深さや、人間性の豊かさが、人と人との隔たりを、乗り越えるわけではないのです。ここでは、そのような、ヒューマニズムが、語られているわけではありません。いや、そのような、人間の価値観を中心とするところでは、ペトロは、決して、動かされることはなかったでありましょう。
 神様の御言葉が語られ、その神様の御言葉に、耳を傾けていく。その御言葉に、お互いが、身を委ねていく。そのことを通して、両者の隔てが、取り除かれているのであります。一方が、神を信じ、もう一方が、神を拒絶する。そのような所では、真の和解は、起り得ないのだ、とも言えるでありましょう。
 お互いに、自分の思いや価値観を捨て、お互いに、主の御言葉に、真摯に耳を傾けていく。主の御業に立ち帰って行く。主の御言葉に、身を委ね、共に神の御前に立つ。そのところにこそ、真の和解や繋がりが、生まれていくことになるのであります。
 これは、決して、クリスチャンとノンクリスチャンだけの問題ではないかもしれません。教会の中における、あらゆる隔たり、あらゆる分断を越えていく。そのようなものが、あるとするならば、それは、共に、神の前に立ち、神の御言葉に耳を傾けていく。そこから、新しい、人間関係が始まっていく。そのようにも言えるのであります。
 私達は、使徒言行録を10章まで、読み進めてきました。神様は、これまで、様々な仕方で、隔ての壁を越えて行かれたように思います。まず、多くのユダヤ人が救われました。そして、サマリア人、次いで、異邦人が救われた。更に言うならば、迫害者まで救われていったわけであります。
 そして、今、到底、救われるはずのない、ローマ兵までもが、神様の選びの中に、入れられているのであります。ユダヤ主義の枠を越えて、今までの価値観では、絶対に救われるはずのない人々へと、福音が、確かに伝えられていくのであります。正に、全ての国々へと、福音が伝えられ、救いを広げられていくのです。
それは、即ち、もう、キリストの福音が、届かないところはないのだ、ということなのです。救いの光が、届かない所は、もうないのであります。どれだけ闇の深い世界であっても、そこに、神が働いてくださる。伝える者にも、伝えられる者にも、神が働きかけてくださる。そのことによって、福音は、確かに、届けられていくのです。
 主イエス・キリストは、このように、仰せになりました。ルカによる福音書24章46節以下の御言葉であります。「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と』。更に、使徒言行録1章8節では、このように語られています。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。
 何よりも、主イエス・キリストご自身が、いや、神様御自身が、全ての人が、救われることを、望んでおられるのであります。人間の価値観や、人間の感情、あるいは、今までの伝統や言い伝えを越えて、それらの全ての隔てを越えて、神様が、今、あなたが、救われることを望んでおられる。
私達キリスト者は、主イエスを、救い主と信じる群れです。しかし、救い主は、私達のためだけの救い主ではありません。私達の外にいる人々、私達との間に隔てのある人々、その人々の救い主でもあるのであります。
 私達のために、命を捨てて、十字架に架かり、死んで復活し、罪の赦しと永遠の命を約束してくださった御方。その御方は、私達の群れの外にいる。そのような人々にとっても、真の救い主であり続けるのであります。大切なことは、何でしょうか。それは、伝える者も、伝えられる者も、この神様の深い恵みに押し出され、共に、主の御言葉の前に立つことであります。
 私達クリスチャンは、「ただの人間」です。特別なものではありません。ただ、主の憐れみによって、今、先立って、神の民とされています。それと同じように、今、ここで、共に礼拝を捧げている、あなたも又、今、主の導きによって、神様の前に立つ一人の人間であります。そして、主は、そのあなたを、御子の命によって、救いたいと願っておられるのです。その深い幸いに、思いを止め、主の招きの声に、共に、耳を傾けて参りたいと思います。

posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:24| 日記