2022年02月13日

2022年2月13日 主日礼拝説教音声「死から命へ」須賀 工牧師

ハレルヤ!主の御名を賛美します。

2月13日の主日礼拝説教音声を配信します。

聖書:使徒言行録9章32節〜43節
説教:「死から命へ」須賀 工牧師

@Spotify
https://open.spotify.com/episode/21X7yypiOf5an8Q0wrTvRs?si=7d5e4c57d36a4b5d

AYouTube
https://youtu.be/cjLDZKhl8i8

新しい一週間も、神様のお守りが豊かにありますように、心よりお祈り申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:26| 日記

2022年02月09日

2022年2月20日 礼拝予告

〇教会学校 感染症の影響を受けまして、休会とします。

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:使徒言行録10章1節〜33節
説教:「救いの恵み」須賀 工牧師

無会衆での礼拝をささげています。ライブ配信で、礼拝にご参加ください。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:06| 日記

2022年2月13日 主日礼拝説教「死から命へ」須賀 工牧師

聖書:使徒言行録9章32節〜43節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録9章32節から43節の御言葉です。32節の御言葉をお読みします。「ペトロは方々を巡り歩き、リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った」。
ここから、分かることは、何でしょうか。それは、「リダ」という地域にも、「聖なる者たちの群れ」、即ち、「教会がある」ということです。ペトロは、そのリダの教会を訪問した。そのことが、ここから、まず分かります。
 教会用語かどうかは、分かりませんが、「問安」という言葉があります。これは、「安否を問う」という意味です。恐らく、ペトロもまた、リダの教会に「問安」したのだと、そのように考えられるでしょう。
 しかし、「問安」は、単なる「安否確認」だけではありません。そこで、御言葉が語られ、励ましや慰めが与えられ、教会の秩序を整えられる。そのような、務めもあったと言えるでしょう。
当時の教会には、特定の「指導者」がいませんでした。そのような中で、教会生活を送る。そのことに、不安を感じる人もいただろうと推測できます。その彼らにとって、使徒ペトロの問安は、何よりも、大きな慰めや安心になっただろうと思うのであります。
 では、実際に、教会が、慰めを受け、励ましを受け、整えられていく。そのために、何がなされたのでしょうか。33節から35節の御言葉をお読みします。「そしてそこで、中風で八年前から床についていたアイネアという人に会った。ペトロが、『アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい』と言うと、アイネアはすぐ起き上がった。リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った」。
 ペトロは、リダの教会で、「アイネア」という人物と会います。アイネアは、8年間、体が不自由な生活をしていました。そのアイネアに向かって、ペトロは、次のように、語りかけます。「イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と。 
 ここに、「起きなさい。自分で床を整えなさい」という言葉があります。この言葉は、主イエス・キリストが、癒しを行われる際に、よく使われた言葉です。
 つまり、ここで、何が起きているのでしょうか。それは、復活の主、イエス・キリストが、今、ここにおられるのだ、ということです。ペトロが、癒しを行うわけではありません。今、ここに、病を打ち破られる、復活の主が、生きておられる。そして、働いておられる。それが、ここで、示されていることなのであります。
 この出来事を通して、リダとシャロンの人々は、主のもとに立ち帰りました。つまり、今、ここに、主イエス・キリストが、生きておられ、働いておられる。それを知り、主の下に立ち帰った、ということであります。言うならば、人々が、主のもとに、立ち帰るための手段として、「癒しの奇跡」が、用いられた、とも言えるかもしれません。
 特定の「指導者」を持たない、教会にとって、一番の慰めや励ましは、何でしょうか。それは、「病」をも打ち破られる、主イエス・キリストが、今も、ここにおられる、ということなのです。教会を支配しているのは、病による恐れや不安ではなく、今も、生きておられる、主イエス・キリストご自身なのだ、ということ。それを知った時、人々は、慰めを受け、キリストのもとへと立ち帰り、真の平安を得るものとされているのです。こうして、教会は、慰めや励ましを受け、教会の秩序が、キリストのもとで、再び、整えられていくことになるわけであります。
 さて、次に、ペトロは、「ヤッファ」という地域に、移動します。36節から43節の御言葉をお読みします。 「ヤッファにタビタ―訳して言えばドルカス、すなわち『かもしか』―と呼ばれる婦人の弟子がいた。彼女はたくさんの善い行いや施しをしていた。ところが、そのころ病気になって死んだので、人々は遺体を清めて階上の部屋に安置した。リダはヤッファに近かったので、弟子たちはペトロがリダにいると聞いて、二人の人を送り、『急いでわたしたちのところへ来てください』と頼んだ。ペトロはそこをたって、その二人と一緒に出かけた。人々はペトロが到着すると、階上の部屋に案内した。やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた。ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、『タビタ、起きなさい』と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。ペトロは彼女に手を貸して立たせた。そして、聖なる者たちとやもめたちを呼び、生き返ったタビタを見せた。このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた。ペトロはしばらくの間、ヤッファで皮なめし職人のシモンという人の家に滞在した」。
 「ヤッファ」の教会には、「タビタ」という女性がいました。彼女は、自分が、出来る限りの精一杯で、奉仕をする人でした。とりわけ、やもめたちに対して、献身的に仕えた人でもありました。
 このタビタが、死の床についてしまったのです。そこで、ヤッファの信徒たちは、ペトロを呼びに行きます。ヤッファに着いたペトロは、何をしたでしょうか。聖書には、次のように記されています。「皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、『タビタ、起きなさい』と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった…」。
 この出来事も、基本的には、先ほどのリダでの出来事と同じことです。皆様は、この一連の出来事を、どこかで覚えていないでしょうか。実は、この出来事と似ている出来事が、福音書の中にも記されています。それが、ルカによる福音書8章40節以下の御言葉です。
 ここには、主イエス・キリストが、会堂長であったヤイロの娘を、死から復活させた物語が、記されています。そこで、主イエス・キリストは、このように、仰せになります。「娘よ、起きなさい」と。これは、アラム語で「タリタ・クム」という言葉を使います。ここでペトロは、「タビタ・クム」と言ったのではないでしょうか。
 つまり、主イエス・キリストの奇跡物語と、類似した仕方で、ペトロの奇跡物語が、記されていることになるのです。詳細に見ていけば、もっと沢山、共通点がありますが、ここでは割愛させていただきます。
 いずれにせよ、ここで、大事なことは、死を打ち破られた、復活の主、イエス・キリストこそが、ここに生きておられるのだ、ということです。病を打ち破られた救い主が、死も打ち破られた救い主として、今、ここに生きておられる。そして、死に支配されたものを、命へと導いてくださるのです。
 そのことを通して、何が起きたのでしょうか。「多くの人が、主を信じた」のであります。つまり、死を打ち破るほどの救い主が、今、ここにいるのだ、ということ。そのことを知った人々が、キリストを受け入れるようになった。言うならば、全ての人が、そこで、キリストを知り、救われていく。救いを確かにしていく。そのために、この奇跡が、手段として、用いられたのだ、と言えるかもしれません。
 もう既に、お気づきであるかと思います。教会にとって、一番の慰め、一番の励まし、一番の希望は、何でしょうか。それは、死を打ち破り、命を与えてくださる。その主イエス・キリストが、今も、ここにいてくださる、という現実です。奇跡は、その現実を知るための手段でしかありません。
 今、私達は、このような、奇跡に触れることはできません。しかし、死を打ち破られた復活の主は、今、確かに、ここにいます。教会にいます。生きて働き続けています。私達を包み込むように、支配してくださいます。その幸いを、証しするために、この聖書の箇所が、今も、変わることなく語り継がれ、今、私達にも、希望として与えられているのではないでしょうか。私達は、この御言葉を通して、今、正に、私達の中心に、復活の主が、生きておられる。そのことを、知るものとされているのです。
 因みに、「リダのアイネア」は、恐らく、高齢者であっただろうと言われています。何が言いたいのでしょうか。当時、教会を支配していた問題の一つは、「病」と「老い」と「死」なのだ、ということなのです。今の教会でも、一つの課題であると言えるかもしれません。
 「病」と「老い」と「死」は、人によっては、とても、苦痛であると言えるでありましょう。悲観的な価値観、あるいは、不安要素であると思います。出来るだけ、「病」や「老い」や「死」を迎えたくはない。誰もが、そのように思うものなのです。
 しかし、人間は、いつかは「老い」を迎え、「病気」になり、そして、「死」を迎えていくものです。しかし、私達は、実は、そのどれにも、縛られていません。私達は、病や死や老いを打ち破る、復活の主の御支配の中に、今正に、入れられているのです。私達を支配しているのは、病や老いや死ではない。私達を永遠に支配するのは、私達の救い主、イエス・キリストしかいないのです。
 確かに、病や老いや死は、私達にとって、厳しい試練であるかもしれない。しかし、そこで本当に、私達を支配しているのは、その全てを、打ち破られる主の恵みなのです。私達は、私達を、永遠に支配し、全ての苦痛に対して、勝利してくださる。その御方の腕の中で、病や老いや死を見つめることができるのであります。
 よく、聞かれることがあります。「自分の死を意識するほどに老いていく。その現実の中で、今、何をしたらよいか」と。答えは、一つです。死を打ち破られた、主イエス・キリストが、今、ここに生きていることを信じて、そこに立ち帰るということです。病や老いや死を打ち破れるのは、私達ではありません。それが、出来るのは、主イエス・キリストしかいません。その御方に身を委ねつつ、自らの今を見つめ直していく。そこに、真の慰めと励ましと希望がある。その幸いを、ここで強く指し示されているのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:02| 日記