2022年02月04日

2022年2月13日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:マルコによる福音書13章28節〜36節
説教:「主イエス、終わりの日について教える」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:使徒言行録9章32節〜42節
説教:「死から命へ」須賀 工牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を捧げています。皆様のお越しを心より、お待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 22:18| 日記

2022年2月6日 主日礼拝説教「教会の発展」須賀 工牧師

聖書:使徒言行録9章23節〜31節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録9章23節から31節の御言葉であります。今朝の説教題を「教会の発展」と付けさせていただきました。
 教会は、どのようにして「発展」するのでしょうか。その答えが、31節に記されています。「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった」。
 教会が、発展するためには、何が、大切なのでしょうか。それは、「基礎が固まっている」ことであります。どのようなものでも、「基礎」が、固まっていなければ、堅く立ち続けることはできませんし、それ以上、成長することもありません。大切なことは、「基礎が固まっている」ということなのです。
 それでは、基礎を固めるためには、何が、大切なのでしょうか。それが、ここからも示されていますように、「平和を保ち」、「主を畏れ」、「聖霊の慰めを受ける」ことなのであります。今朝の御言葉は、これらの「三つ」のことを、象徴するような出来事について、記されています
 23節から26節の御言葉を、お読みします。「かなりの日数がたって、ユダヤ人はサウロを殺そうとたくらんだが、この陰謀はサウロの知るところとなった。しかし、ユダヤ人は彼を殺そうと、昼も夜も町の門で見張っていた。そこで、サウロの弟子たちは、夜の間に彼を連れ出し、籠に乗せて町の城壁づたいにつり降ろした。サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた」。
 サウロは、今、正に、「孤立」している状態であると言えるでしょう。ユダヤ人からは命を狙われ、クリスチャンからは、疑いの目で見られる。それが、彼の現状なのであります。
 しかし、それは、仕方のないことでもあります。元々、教会の迫害者であったサウロは、今やユダヤ人にとっては、裏切り者であります。そして、クリスチャンにとっては、ステファノをはじめ、多くのクリスチャンたちを苦しめた「敵」であるとも、言えるわけであります。言うならば、サウロは、多くの人々の敵意の中に、今、一人で置かれている。そのように言えるかもしれません。ただ、そのことは、サウロ自身も、覚悟の上であったと思います。
 しかし、このサウロを、一人ぼっちのままにしない。そのような存在もいるのです。それが、「バルナバ」という人でした。27節から28節の御言葉をお読みします。「しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった」。
 元々、バルナバは、レビ族に属するユダヤ人でありました。しかし、キリストと出会い、回心をして、キリスト者になりました。彼には、沢山の財産があったようですが、その土地を教会にささげ、教会の人々からも、あつい信頼を得た人物でもありました。そのバルナバが、サウロと使徒たちの間を執り成していく。そのような務めを、ここで担ったわけであります。
 この「バルナバ」という名前は、「あだ名」です。本名は「ヨセフ」と言います。この「バルナバ」というあだ名の意味は、「慰めの子」という意味です。つまり、バルナバは、父なる神様の慰めを知る人物であり、神様の慰めを語れる人物でもあったと言えるでしょう。
 今まで、サウロと教会(使徒たち)の間にあったのは、敵意の壁であったかもしれません。しかし、今、バルナバを通して、両者の中心には、「神様の慰めの言葉」が、立てられているのだと言えるかもしれません。いや、もはや、そこにはバルナバではなく、慰め主なる神と御子、聖霊が、立っておられる。そのようにも、言えるのです。
 31節にもありますように、「慰め」とは、「聖霊の慰め」です。この「慰め」という言葉は、ギリシャ語で「パラカレオー」という言葉を使います。直訳すると、「前に呼ぶ」「近くに呼ぶ」という意味です。
つまり、今、サウロと教会の間には、聖霊なる神がいてくださり、お互いを、主の下へと呼び集めてくださっている。そして、そのお互いの心を、主御自身がいたわっていてくださる。今、正に、そのようなことが、ここで起きているのです。
 相容れることのなかった両者が、一つの体となり、平和を得るために、主御自身が、真ん中に立ち、それぞれを、御自身の内へと、共に、呼び入れてくださる。そして、一人一人の心に触れ、いたわってくださる。それが、今、ここで、バルナバを通して、起きていることなのだ、ということ。そのことが、ここで、強調されているのです。
 そして、ここで、大事なことは、使徒たちが、サウロを受け入れた、ということであります。しかし、それは、バルナバの説明に、説得力があったからではありません。あるいは、バルナバを信頼していたからでもありません。なぜなら、使徒たちも、バルナバでさえも、サウロの回心を、直接、目で見たわけではないからです。あくまでも、サウロの主観的な出来事について、話を聞いているだけなのです。疑い続けようと思えば、それもできるはずなのです。
 しかし、それでも、サウロは、使徒たちによって、受け入れられた。教会の一員として、受け入れられた。なぜでしょうか。
 それは、サウロと彼らの間に立って、彼らを招き続ける、主のもとに、共に立ち帰ったからであります。そして、そこで、自分の意志や思いを中心とするのではなく、神様だけを畏れたからでありましょう。自分たちの感情や思いに従うのではなく、私達の真ん中に立って、私達を近くに呼んでくださる。その真の神なるキリストのもとへと、共に立ち帰った。そして、そこで、神を畏れて、神だけを共に見上げていった。それが、ここで、起きたことなのです。
 人間的に言うならば、到底、受け入れられない。しかし、そこで、人の思いに従うことを止め、招き続ける、主の下へと、共に立ち帰っていった。その時、人間の思いで作り上げられた敵意の壁が、崩されて、一つとなる道が、切り開かれていったのです。
 使徒たちが、サウロと共に、主の下に立ち帰り、主を畏れ、そこで、主の慰めを知った時、この私達を救ってくださった御方が、敵意の壁を乗り越えて、今、このサウロも、また救ってくださったのだ。そのことに気づかされていった。自分が受けた、主の慰めに触れた時、今、ここで、サウロにも触れてくださる、そのキリストの憐れみを、知るものとされた。そのようにも、言えるかもしれません。
 さて、このように、サウロは、教会の一員へと、受け止められていくことなります。しかし、そこでもまた、ユダヤ人たちに狙われることになるわけです。そして、その命を守るために、彼は、タルソスへと向かっていくことになります。この所で、一度、サウロの物語は、幕を閉じることになるわけであります。
 このように、サウロが、キリストの体なる教会に、受け入れられた。そのことで、何が、起きたのでしょうか。
 それは、各地の教会が、今までよりも益々、神様のもとに、共に立ち帰り、ただ一人の主に畏れをもって礼拝し、共に、主の慰めを味わうようになったわけです。言い方を変えるならば、教会の中心が、キリストご自身であることへと、改めて、共に立ち帰り、キリストによって、真の慰めが得られることを、共に味わい、そのことによって、各教会同士が、平和を保つことができたのです。そして、それが、基礎固めとなって、発展していったのだ、ということなのです。
ここに、書かれている「ユダヤ、ガリラヤ、サマリア」の三地方は、以前までは、お互いに、憎しみ合っていた。そのような地域でもありました。
 しかし、その人間の敵意が、キリストへと立ち帰ることで、打ち破られていくことになるのです。
 そもそも、そのキリストこそが、私達人間の敵意によって、十字架に架けられた御方でもありました。しかし、復活の主は、その私達を、赦して下さった。
 このキリストに立ち帰ることは、この恵みを想起することでもありましょう。そして、今、その恵みの主が、この私を招き、慰め、いたわってくださる。それと同じように、今、この目の前の人や教会もまた、その恵みに生かされ、慰めを得ている。人間の感情によって、人を裁くことを止め、ただ、中心に立つ、キリストへと立ち帰る時、教会は、今よりも、更に、成長と発展を望むことができるのであります。
 2030年問題が、叫ばれている中で、それでも、教会が、立ち続け、成長し続けていくために、どうしたらよいのでしょうか。沢山のアイディアが生まれてくるかもしれません。
しかし、本当に、大切なことは、ただ一つなのです。それは、キリストへと立ち帰ることです。人間の感情や知恵や知識、経験や伝統に基づいた計画に縛られることなく、ただ、キリストへと立ち帰り、共に慰めを受け、平和を保つ。これが、教会の発展へと向かうための、重要なスタートラインであること。そのことを、ここから強く指し示されていると言えるのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 22:13| 日記