2022年03月20日

2022年3月20日 主日礼拝説教音声「あなたも離れて行くのか」須賀舞伝道師

ハレルヤ!主の御名を賛美します!!

本日の礼拝の説教音声を配信します!!

聖書:ヨハネによる福音書6章60節〜71節、出エジプト記32章30節〜35節
説教:「あなたも離れて行くのか」須賀舞伝道師

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新しい一週間も、神様のお守りが、豊かにありますように、心よりお祈り申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:52| 日記

2022年03月19日

2022年3月20日 主日礼拝説教「あなたも離れて行くのか」須賀舞伝道師

聖書:ヨハネによる福音書6章60節〜71節

 今朝、私たちに与えられた御言葉はヨハネによる福音書6:60-71です。本日の箇所は、主イエスと弟子たちとの間で交わされた会話を伝えます。先ほど一度お読みしましたが、ぱっと読んだ印象として、本日の箇所は、もしかしたら、とりわけ信仰者にとっては、心暗くなるような内容かもしれません。なぜなら、本日の物語の大きなテーマが、主イエスと弟子たちの「分断」であるからです。
 66節には、「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」とあります。主イエスを信じてついてきていた人たちが一人また一人と去っていき、ついには十二弟子を残すだけになってしまうのです。そして67節はこう続けます。「そこで、イエスは、十二人に「あなたがたも離れて行きたいか。」と言われた。」十二弟子の代表とも言われるシモン・ペトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます(68節)。」と答え、「あなたこそ神の聖者です。」と信仰を告白します。しかし、主イエスはこの十二人の中にわたしを裏切る者、悪魔に等しい者がいると告げる、ここで本日の物語は終わります。
 私たちは、今、レントの時を過ごしています。レント、受難節とは、主イエスの十字架の苦しみを覚え、悔い改めつつ過ごす期間です。主が、裏切られ、罵られ、嘲られながら十字架の死へと向かわれたこと、十字架の上で、肉引き裂かれ、血を流されたこと。また、その苦しみ、その死は他でもないこの私のためであったのだということ。そのことを心に留めて私たちはこのレントの時を過ごしています。本日の主イエスと弟子達との「分断」の物語は、もしかしたら、そのようなレントの時に、読まれるべくして与えられた御言葉であるのかも知れません。
 私たちは、今朝、この御言葉から、3つのことを聞き取っていきたいと思います。一つ目は、この物語は、主イエス・キリストを信じる者達が主のもとを去っていく物語であるということです。離れていったのが、「主イエス・キリストを信じる者たち」であったというところが一つのポイントとなります。
 冒頭60節にはこのように記されています。「ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」」実は、ここに、この福音書で初めて「弟子たち」という言葉が使われます。この「弟子たち」が主イエスのもとを離れていくわけですが、その後には、十二弟子たちとの会話が続きますから、十二弟子とは別の弟子たちと呼ばれた人たちが、この場にいたということになります。
 この「弟子たち」とは、主イエスが伝道活動をする中で信じるようになった人々だと考えられるでしょう。6章の初めには、主イエスが病の人を癒した奇跡を行ったことで大勢の群衆が主イエスを追って来たと言うことが伝えられています。そして、集まった5000人もの人々全てが5つのパンと二匹の魚で満腹になると言う奇跡が起こりました。主イエスの数々の奇跡を経験し、信じてついてきた人々を、ヨハネによる福音書は、「弟子たち」と呼ぶのです。
 それは、あえて「群衆」ではなく、「弟子たち」と呼んだと言えるかもしれません。なぜそう呼んだのでしょう。ここで思い出したいのは、使徒言行録において、キリスト者が「弟子たち」と呼ばれたことです。信仰を持つ人たちは、一般的に、信者や信徒、キリスト者などさまざまな呼ばれ方をします。しかし、聖書は、洗礼を受けて、信仰へと入れられた人を、キリストに信頼し、キリストの後について生きるようになった人々を、好んでキリストの「弟子」と呼びました。
 あえてここで、主イエスのもとを去っていく人々を「弟子たち」と呼ぶことで、聖書は、代々の教会に連なるキリストを信じる者たちに「あなたがたも離れて行くのか」と呼びかけているのです。このヨハネによる福音書が書かれて読まれたのは、様々な研究から、おそらく、主イエスが天に昇ってから数十年後の、紀元1世紀末であったと考えられています。その頃のキリスト教会は、ユダヤ教による迫害の中にありました。キリスト教は、旧約聖書に証される唯一の神への信仰を持つユダヤ教の中に、イエス・キリストというお方に対する新しい信仰を持つ者たちが生まれたのです。その人たちは、当初ユダヤ教のナザレ派と呼ばれていました。紀元70年のローマ帝国によるエルサレム神殿の崩壊以降、ユダヤ教内部での緊張が高まり、ユダヤ教は、イエスを救い主と信じる人々を、ユダヤ教の会堂から追い出すようになったのです。彼らは、ユダヤ教の会堂で礼拝をすることをいっさい禁じられました。そして、迫害が起こったのです。この迫害によって、イエス・キリストを信じた人々の中から、脱落し、離れ去っていく人々、主イエスへの信仰を失い、教会の一員として歩むのをやめてしまう人々が出ていきました。ヨハネによる福音書はそのような背景のもとで書き記され、読まれていったのです。
 当時の教会は非常に厳しいところを通っていたのでしょう。弾圧が強くなるにつれ、あの人も来なくなる、この人も来なくなる。67節で主イエスは「あなたがたも離れて行きたいか」と最後まで残った十二人の弟子たちに問いかけますが、この問いは、当時のヨハネの教会が直面していた問いであったのだと思います。多くの人々が信じるのをやめて脱落していく中で、あなたはどうするのか、主イエスを信じて教会に留まり続けるのか、それとも信仰を捨てて離れ去っていくのか、そういう岐路に彼らは立たされていたのです。
 そして、これは、今朝ここに集う私たち、そして、この石山教会への問いでもあります。この石山教会 がこの地に建てられて70年以上の長い年月が過ぎました。その中で、牧会の最前線に立ってきた牧師や役員たちは、あなたも離れて行くのかと、この教会を離れてしまった人たちを現実に何人も知らなければなりませんでした。目の前で、幾度も、主イエスと、主の弟子とされた者たちの「分断」が起こりました。キリスト教会の長い歴史の中で、このようなことは常に起こり続けてきたのです。そこには、迫害、弾圧、戦争、人間関係などその時代時代のさまざまな理由があったかもしれません。しかし、本日のみ言葉が示すのは、その根本の問題は、私たちの信仰の問題であるということです。ここに出てくる弟子たちは、私たちのことでもあります。私たちは、イエスを我が主、我が神であると告白するキリストの弟子であると同時に、キリストを裏切り、嘲り、十字架へと向かわせた弟子でもあるのです。
 キリストの弟子たちが、キリストの弟子であることをやめようと考えた。もう自分は、キリストの弟子なんかでなくてもいいと思うようになった。そのきっかけは、「わたしは、天から降って来た生きたパンである(51節)。」という言葉でした。弟子達は、この主の言葉を「実にひどい話」だと考えたのです。ここに、私たちが今朝の御言葉から聞き取るべき二つ目のメッセージがあります。それは、信じる者たちも、主イエスの言葉に躓くという現実です。
 前回の礼拝において、私たちは、この「天から降って来た(51節)」と言う言葉が、主イエスがご自身を神と等しいお方であると宣言されている言葉であることを学びました。天、つまり、神のいるところから降って来た、神と等しい存在が、目の前にいるイエスという人である。それがユダヤ人たちには、どうしても理解できなかった。自分が神だと言う行為は、神を冒涜する、律法を犯すことと受け取ったのです。そして、弟子達も同じように考えたのです。この人が神だなんて、そんな話誰が信じられるか、実にひどい話だ、そう呟きあっていたのです。
 目の前で弟子たちが躓く様子を見て、主イエスは、更にこう言われます。「それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば‥(62節)。」「人の子がもといた所に上る」とは、主イエスが天に上ると言うことを意味しています。では、この‥のところで、一体、主イエスは弟子たちに何を語ろうとされたのでしょうか。
 ある牧師は、その直前のイエス様の言葉「あなたがたはこのことにつまづくのか。」という言葉から、「それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならばもっと躓くだろう(62節)。」と、ここにもおそらく「もっとつまずくだろう」という言葉が入ると言いました。またある牧師は、「それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば、あなたがたはどうなるだろう(62節)。」と、ここには「どうなるだろう」という言葉が入るのではないかと言います。主イエスが天から降った者であるということは、主イエスが天に挙げられる時に証明されるだろう、その時あなたは信じるかという意味です。
 この‥の部分は、原文にも言葉がありません。前後の文脈から推測するしかない、本当のところ何が正しいのかはわからないのです。しかし、どちらの牧師が言うことが入ったとしても、主イエスは、ここで信じる者たちに、非常に厳しい問いかけをされているように感じます。この「人の子がもといた所に上げられる」という言葉には、主イエスが十字架に挙げられることと、また、死んだのちに復活し、天にあげられると言う二重の意味があります。主の十字架は、キリスト教信仰の確信の部分であると言えるでしょう。この物語の時には、まだ起こっていないことですので、弟子たちは、当然何がこれから起こるのか、主イエスの言葉だけでは、分からなかったことでしょう。しかし、当然、この話が読まれた1世紀末頃のヨハネの教会や、私たちには、これが、主の十字架の死と復活、そして、昇天を言い表していることを知っています。その夜々の教会に連なる私たちが、改めて主の十字架の御前で、「あなたは信じるか、それとも去って行くのか。」と問われていると考えると、わたしは、素直に「はい信じます」と告白できない自分がいることに気づかされます。
 それは、わたし自身が、主イエスを裏切る可能性を完全に否定できないからです。長い信仰生活の中で、教会から離れた時期もありました。神様を中心にできず、自分の欲に流されてしまうこともあります。隣人を傷つけるような振る舞いをしてしまうことだってあります。
 けれども、イエス様の凄いところは、そのようなことは全てお見通しであると言うことです。主イエスは、信じる者たちの全てを知っておられるのです。そのことが64節の主イエスの「あなた方のうちには信じない者たちもいる。」という言葉にはっきりと言い表されています。その上で、63節で主イエスは「霊」の存在について教えています。「命を与えるのは 『霊』である。肉は何の役にも立たない。」「肉」は、罪を象徴的に言い表す言葉として聖書に度々登場します。もっと言うならば、神を信じない心、神を無視する心と言ってもいいかもしれません。主イエスは肉は神を信じるためには何の役にも立たないとはっきりと言われます。神を信じるために必要なものは、肉ではなく霊です。そして、主は、「わたしがあなたがたに話した言葉」つまり、主イエスの言葉こそが「霊」そのものであり、「命」であると言われるのです。
 どれだけ、キリストを信じようと足掻いても、自分の力で何とかしようと思っているうちは、キリストと一つにはなれないのです。今日の物語で、弟子たちが離れていったように、私たちも完璧な信仰者ではありません。自分が欠けの多い存在であることを認め、全てをキリストに委ねる時、自分時自身の肉なる者はキリストの霊によって綺麗にされてゆくのです。本日の御言葉から私たちが聞き取るべき最後のメッセージ、それは、神様がキリストを通して示してくださった愛は、私たちの肉なる思いを超えてゆくと言うことなのです。
 この主イエスの霊なる言葉を受け止めているのが、十二弟子の代表とも言える人物であったシモン・ペトロです。弟子たちが一人また一人と去って行く中、残った十二人の弟子に、主が言われるのが67節の言葉です。「あなたがたも離れて行きたいか。」この問いかけに、ペトロは、「主よ、わたしたちは、だれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています(68-69節)。」これは、これまで主イエスが教えて来られたことを全て網羅した完璧な答えだと言えるでしょう。
 しかし、それに対して言われた主の言葉は次のようなものでした。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ(70節)。」ここで、主イエスははっきりと、イスカリオテのユダの決定的な裏切り、イエスを死に追いやるまでの裏切りを宣言するのです。
 私たちが、主イエスの十字架への道筋を辿る物語を読み進める中で辛い思いを持ちながらも、しかし、決して通り過ぎることのできないことがあります。それは、主イエスを十字架につける決定的な役割を担ったのが、十二弟子の一人のユダであったと言うことです。
 しかし、本日の箇所で、主イエスがこのユダに対して言われたお言葉は、人の思いや常識を遥かに超える、愛と慰めに満ちた言葉でありました。この主の言葉を、私たちは最後に心に留めたいと思います。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか(70節)。」注目すべきは、主イエスは、確かに「十二人」を選んだと言われていると言うことです。それはもちろんユダも含めた十二人です。十一人の弟子と、一人の裏切り者を選んだのではないのです。そもそも、選ばれていないならば、それは裏切りとは言えないでしょう。裏切りとは、「選びに背く」ということだからです。
 主イエスは、その裏切り者のユダを「悪魔だ」と言われました。とてもきつい言葉です。しかし、実は、マタイによる福音書を読みますと、弟子の代表的な人であるペトロもまた主から「サタン、引き下がれ」と言われているのです。このことから、誰もが主イエスの選びに背き、サタンと呼ばれる可能性を秘めている、その現実に私たちは気付かされるでしょう。
 しかし、この後、ヨハネによる福音書は、主イエスが十字架にかかる前、弟子たちの足を洗った出来事を伝えます。その時、主イエスは、ユダの足も、ペトロの足も洗ってくださったのです。そして、主イエス・キリストは、選ばれた十二人のために、そして、キリストの弟子でありながらキリストのもとを去っていった者たちのために、また、敵対したユダヤ人のために、十字架へと向かわれたのです。主の十字架の死、さかれた肉、流された血、痛み苦しみ悲しみは、全ての裏切り者のためでありました。このレントの時、主イエスの十字架を見上げつつ、私たちのために死なれた主イエス・キリストを信じて歩んでまいりたいと願います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 23:16| 日記

2022年03月13日

2022年3月13日 主日礼拝説教音声「神の救いを喜ぶ」須賀 工牧師

ハレルヤ!主の御名を賛美します!!

3月13日の主日礼拝説教音声を配信します。

聖書:使徒言行録11章1節〜18節、詩編98篇1節〜9節
説教:「神の救いを喜ぶ」須賀 工牧師

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神様の祝福を心よりお祈り申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:13| 日記