2022年03月05日

2022年3月13日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:マルコによる福音書14章53節〜65節
説教:「最高法院で裁判を受ける」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:使徒言行録11章1節〜18節
説教:「神の救いを喜ぶ」須賀 工牧師

感染予防対策をした上で、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。

YouTubeでのライブ配信については、教会のホームページに載せています(o^―^o)ニコ
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:24| 日記

2022年3月6日 主日礼拝説教「聖霊の働き」須賀 工牧師

聖書;使徒言行録10章34節〜48節、イザヤ書52章7節〜10節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録10章34節〜48節の御言葉です。今朝の御言葉を、ざっくりと要約すると、使徒ペトロが、ローマ人コルネリウスを訪問し、伝道するというお話です。
 しかし、これは、決して、簡単なことではありませんでした。使徒ペトロは、「ユダヤ人」です。コルネリウスは、「ローマ人」です。すなわち「異邦人」です。この両者には、人間の力では、決して、越えることのできないほどの、大きな隔ての壁がありました。実は、当時の教会にも、「ユダヤ人の選民思想」が、まだまだ、根強く残されていたようであります。例えば、主イエス・キリストは、あくまでも、「ユダヤ人のための救い主」。そのような、信仰的価値観が、まだまだ、無意識的に残されていたようであります。
 しかし、神様が、使徒ペトロに、そして、コルネリウスにも、「幻」を見せてくださいました。それによって、決して、交わることのない二人が、神様の深い御旨によって、出会うことになるのです。そして、使徒ペトロは、そのコルネリウスに対して、伝道を開始することになるのであります。
 それでは、使徒ペトロは、何を伝道したのでしょうか。今朝の御言葉には、使徒ペトロを通して、語られた御言葉−説教ともいえる−が記されています。それでは、この説教において、使徒ペトロは、何を語ろうとしているのでしょうか。それは、一言で申し上げるならば、「イエス・キリスト」についてであります。
教会には、「福音伝道」という言葉があります。この場合の福音とは、何でしょうか。それは、「イエス・キリストそのもの」を表しています。つまり、私達教会が、伝道において、何よりも優先して、なすべき一番のことは、「イエス・キリスト」について、伝えることなのです。これが、使徒たちから継承された、教会の務めに他ならないのであります。
 私達が、様々な期待をもって、教会に行く時、そこで聞くことの出来る言葉があるとするならば、それは、「イエス・キリスト」に関する言葉だけなのです。主イエス・キリストが、「誰で」「何をした」のか、ということだけなのです。しかし、正に、それこそが、私達にとって、最も必要な恵みであり、糧なのであります。
 ペトロは、主イエスこそ、真の「救い主」であると語ります。そして、その救い主は、この地上で、悪魔に勝利された御方であり、十字架に架けられて、復活させられた御方であり、そして、今や、生と死を貫く、真の支配者であるのだ、ということを、ここで語っています。
 そして更に、この救い主を、宣べ伝えるものとして、この自分が、立てられているのだ、ということ。つまり、自分自身の務めについて、最後に加えています。
 この使徒ペトロの説教が、最も強調していることは、何でしょうか。それは、この主イエス・キリストにおける、全ての出来事が、そして、その使徒たちの選びもまた、全て、ユダヤの中で、起きたことなのだ、ということなのであります。まず、そのことが、ここで強調されているのであります。
 しかし、ペトロは、ここで、ユダヤ人が、他の人々よりも優先されるべきであると、語っているのでしょうか。そうではありません。ユダヤの中だけで起きた、今までの出来事が、そこで、完結し、停滞しているのではなく、今まさに、新しい展開へと、進行し続けているのだ、ということ。そのことに、彼自身もまた、気づかされながら、驚きをもって、この御言葉を、語っていると言えるのであります。その意味で、伝道をする側の人間が、新しくされ、成長させられていくことで、伝道は、推進されていくのかもしれません。
 今や、主イエス・キリストは、ユダヤ人だけの「救い主」ではない。今、正に、この救い主は、全ての人の主であり、全ての人の救い主に他ならない。国や言語、人種や立場によって、分け隔てをする神ではない。今や、その分け隔ては取り除かれ、主に立ち帰る、全ての人が、キリストの命によって罪から解放され、神の民として、永遠に生きることが許されている。ユダヤの枠を越えて、すべてのものが、主に立ち帰るならば、神の民として生きられる。
 ここに、教会の新しいメッセージがある。ここに、教会による新しい展開がある。そして、この新しいメッセージこそが、今、私達に与えられた、メッセージであり続けているのであります。ユダヤの枠を越えて、主イエス・キリストは、今、あなたの救い主でもいてくださる。今、あなたのためにも命を捨て、復活してくださる。そのキリストの下に立ち帰る時、今、私達もまた、神の民として、永遠に生きるものとされている。今も、その新しいメッセージは、変わることなく、私達にも、確かに、届けられているのです。
 「神は人を分け隔てなさらないことが、よくわかりました」。神様は、人を、分け隔てしない御方です。しかし、人間は、分け隔てをしてしまうかもしれません。自分にとって都合の良いものだけを受け入れ、そうでないものを排除してしまうことがあります。価値の規準を自分で決め、自分にとって価値あるものを優先し、そうでないものを受け入れない。そういうことは、いつでも、私達の内に、自然に起きるものです。
 しかし、神様は、分け隔てはしないのです。どのようなものであっても、キリストにあって救ってくださる。全ての人を、その救いへと招いてくださる。人に対して、価値をつけるのではなく、その人の内に、キリストを宿らせていくことで、価値を生み出して下さる。その深い幸いに、皆が共に立つとき、私達もまた、「分け隔て」の世界観から解放されていくのではないでしょうか。
 大切なことは、何よりもまず、神様が、あなたの内に価値を生み出し、あなたを受け入れているということ。そして、その私は、それには相応しくないにも関わらず、受け入れられているということ。そのことを深く、心に刻み付けることが、大切なのかもしれません。
 さて、使徒ペトロが、御言葉を語り終えるよりも前に、コルネリウスをはじめ、異邦人の内に、聖霊が降ります。沢山のユダヤ人たちが、それを目撃しました。そして、彼らは皆、洗礼へと導かれていくことになります。
 主イエス・キリストについて、知るだけでは、十分ではないのです。正しく主を知り、聖霊が働く時、信仰の目が開くのです。洗礼は、その恵みを証しする手段です。感情による救いではありません。逆に、知識によって救われるわけでもありません。あるいは、行いによる救いでありません。主を正しく知り、聖霊によって導かれるところに、真の信仰があるのです。大切なことは、信仰において、全ての始まりは、聖霊によるものである、ということです。
 使徒言行録は、「聖霊行伝」とも呼ばれています。聖霊によって教会が誕生しました。聖霊が降ることで、伝道が始まりました。聖霊によって、サマリアの人々が救われました。そして、同じく聖霊によって、異邦人が救われました。教会の新しい始まりは、いつでも、聖霊によって開始されます。
 いうならば、いつでも、聖霊が、先頭にたって、教会を導いていくようなものでありましょう。人間の計画で、教会が運営されるのではありません。聖霊の働き、神様の霊的な働きによって、教会は、いつでも、人間の思いを遥かに越えた仕方で、いつでも新たに、歩み続けるのです。
 大切なことは、私達が、いつでも、聖霊によって働かれる、その主に目を向け、主の御言葉に立ち帰り、そこで、いつでも、新たにされる。そのことを求めることであります。今までの伝統や習慣に囚われることなく、あるいは、自分が作り上げたルールやしきたりに縛られることなく、むしろ、そこから解放されていることを喜び、常に、御言葉と御霊の力によって、新たに造り変えられて生きる。そこに、教会の姿、教会の歩むべき道筋があるのです。そこの思いを馳せながら、共に、終わりの日に希望を置きつつ、共に歩みを続けて参りたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:13| 日記