2022年03月11日

2022年3月20日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:マルコによる福音書14章66節〜72節
説教:「ペトロ、主イエスを知らないと言う」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:ヨハネによる福音書6章60節〜71節
説教:「あなたも離れて行くのか」須賀 舞伝道師

感染予防対策をした上で、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。

posted by 日本基督教団 石山教会 at 22:18| 日記

2022年3月13日 主日礼拝説教「神の救いを喜ぶ」須賀 工牧師

聖書:使徒言行録11章1節〜18節

 今朝、私達に、与えられた御言葉は、使徒言行録11章1節から18節の御言葉であります。1節から3節の御言葉をお読みします。「さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、『あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした』と言った」。
 使徒ペトロの伝道によって、コルネリウスが、救われました。これは、決して、簡単なことではありません。ペトロは、「ユダヤ人」であり、コルネリウスは、「異邦人」でありました。「ユダヤ人」と「異邦人」の間には、容易に越えることのできない、大きな壁がありました。
 当時の教会の中にも、「ユダヤ主義」「ユダヤ選民主義」が、根強く残されていたようであります。自分たちは、神によって選ばれた民であり、それ故に、主イエス・キリストは、ユダヤ人の救い主なのだ、ということ。そのような考え方が、教会の中においても、根強く、まだ残されていたのであります。
但し、それは、当時のクリスチャンのほとんどが、ユダヤ人クリスチャンであった、ということ。そこに原因の一端があると言えるでありましょう。その意味で、この問題・課題が生じることは、むしろ自然的なこと、仕方がないこと、とも言えるかもしれません。
 さて、今朝の御言葉によると、エルサレムのユダヤ人クリスチャンたちが、ペトロを非難します。それでは、彼らは、ペトロの「何を」非難したのでしょうか。聖書によると、ペトロが、「割礼を受けていない人たちのところへ行って、一緒に食事をした」。そのことを非難したのであります。
 ユダヤ人にとって、割礼は、「神の民であることの印」でもありました。割礼を受けているか否か。それが、神によって選ばれた民であるか否か、あるいは、神の目に、清い者であるか否か。その境界線となるのが、「割礼」なのです。それ故に、神の民ではない、汚れた人との交際は、律法によって、堅く禁じられていました。それは、その共同体の清さを守るためでもあったのです。それ故に、今、彼らにとって、ペトロは、律法の違反者であり、穢れを持ち込んだ人物でもあるわけです。そのような仕方で、ペトロは、非難の的となるわけです。
 その彼らに向けて、ペトロが、語った言葉があります。それが、今朝の御言葉の4節以降の御言葉であります。内容としては、10章に記されている出来事についてであります。
それでは、ペトロは、ここで、何を語っているのでしょうか。それは、実は、一つのことなのです。即ち、異邦人が救われることは、私達の思いを越えて、「神様の御計画」「神様の御心」なのだ、ということなのです。
 ペトロは、そもそも、律法に逆らうことはしたくなかったのです。異邦人と交際することが、律法で禁じられている。そのことも、百も承知だったわけであります。それは、10章を読んでみると、明確であります。
 しかし、それでも、彼は、律法に逆らった選択をしました。なぜでしょうか。それは、異邦人が、救われることこそが、神様の御心であることを、聖霊によって、あるいは、御言葉によって、味わい知るものとされたからであります。即ち、ユダヤ人の価値観、信仰観、あるいは、習慣や伝統。あるいは、律法の解釈。それらのものよりも、今、生きておられる神様の御心が、何よりも、大切なのだ、ということ。神様の御心を妨げることはできないのだ、ということ。そのことを、彼自身が、御言葉と御霊の力によって、知るものとされたからなのであります。
 思い返してみるならば、天に昇られる前に、主イエス・キリストは、このように語りました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒言行録1章8節)。
 この御言葉の通りに、サマリア人が救われました。そして、エチオピアの宦官−異邦人−が救われました。つまり、異邦人が、救われて、神の民に加えられること。これは、もうすでに、起きていることであり、主御自身が、約束し、更に、それを望んでおられるのだ、ということなのです。
 更に言うならば、異邦人やサマリア人が、救われること。これは、もうすでに、旧約の預言者たちも、預言をしていました。ペトロも又、そのように、理解していたようです。そのことについては、使徒言行録10章43節に、明言されています。
 つまり、神様の御心は、異邦人もまた、救われる、ということなのです。全ての人が救われる、ということなのです。そのために、神様は、先立って、ユダヤ人を選び、そして彼らを用いてくださったのだ、ということなのです。
 ペトロは、今、全てのことが、既に、神様によって計画され、神様によって、進行している、ということを知ったのであります。そうであるならば、自分の今までの価値観や習慣よりも、神様の御心を優先しなければいけない。そのような受け止め方へと、彼自身が、御言葉や幻、そして聖霊を通して、導かれたのであります。
 このペトロの言葉を通して、彼らは、どう答えたでしょうか。彼らは、沈黙しました。そして、神様の救いの豊かさを覚えて、主を賛美しました。
 しかし、これは、ただ、それだけではないでありましょう。ペトロは、最後に、このように、語ります。「主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら」と。その前には、「聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです」とも、語られています。「与える」「降る」という言葉は、過去に起きたことが、今も、継続し続けている状態を表す単語を使っています。
 つまり、このことを通して、ユダヤの枠を超え、律法解釈の枠を越えて、神は、今も共に生きて働き続けておられる。そして、教会の歩みを、新たに導いておられるのだ、ということ。そのことを、彼らは、このペトロの言葉を通して、はっきりと知ることができたのであります。人間の解釈や価値観に留まり続ける神ではなく、その枠を越えて、今、私達と共に、私達の先頭にたって、導き続けて下さっている。その幸いを、彼らは、ここで味わい知るものとされた。それが、彼らを賛美へと導く力になったのではないか。そのようにも言えるのであります。
 この箇所における、私達の受ける恵みは、何でしょうか。それは、今、私達が、ここで救われているのは、私達の意志や思いではなく、神様の御心なのだ、ということではないでしょうか。救いから、遠く隔てられた者であったかもしれません。救われる価値のない罪人であったかもしれません。
 しかし、神様は、今、あなたを救いたい。そのように御心に留めて下さり、御子の命を捧げて下さったのだ、ということなのであります。神は、死んでいません。神は、過去に縛られているわけでもありません。今、ここに生き、私達を御心のままに導き、御子の贖いに与らせ、真の悔い改めへと導き、まさに神の民としてくださったのです。
 まだ、神様の救いを知らない方もいるでしょう。そして、恐らく、神様の救いを、知りたい方もいるかもしれません。そして、その一人ひとりの内に、自分で作り上げた枠があり、その枠の中で、神様を納めようとしているかもしれません。
 しかし、そこには、真の神はいません。神は、その枠の外にいるからです。そして、あなたを縛り付ける、その枠から、あなたを解放し、真の神の民とすることを、主は、御心に留めていてくださるのです。
そして、教会もまた、そこにある、伝統や慣習は感情に捕らわれるのではなく、神様の御心を信じて、与えられた使命に生きる。その視点をもって、新しい時代を、私達もまた、主と共に、歩むものでありたいのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 22:11| 日記