聖書:使徒言行録13章1節〜12節、イザヤ書52章7節〜10節
説教:「聖霊によって」須賀 工牧師
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皆様の上に、神様の祝福がありますように、心よりお祈り申し上げます。
2022年04月30日
2022年5月1日 主日礼拝説教音声「聖霊によって」須賀 工牧師
posted by 日本基督教団 石山教会 at 19:18| 日記
2022年5月8日 礼拝予告
〇教会学校 9時15分〜
聖書:創世記2章1節〜3節
説教:「安息日の祝福」
〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:使徒言行録13章13節〜41節
説教:「信仰によって義とされる」須賀 工牧師
感染予防対策をした上で、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
聖書:創世記2章1節〜3節
説教:「安息日の祝福」
〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:使徒言行録13章13節〜41節
説教:「信仰によって義とされる」須賀 工牧師
感染予防対策をした上で、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:18| 日記
2022年5月1日 主日礼拝説教「聖霊によって」須賀 工牧師
聖書:使徒言行録13章1節〜12節
今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録13章1節から12節の御言葉であります。改めて、1節から3節の御言葉をお読みします。「アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウルなど、預言する者や教師たちがいた。彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。『さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。』そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた」。
使徒言行録は、この13章から、新しいステージに向かって、進み出します。即ち、いよいよ、「福音」が、使徒パウロを通して、全世界へと宣べ伝えられていくことになるのです。今朝の御言葉は、その「始まりの出来事」について記しています。
さて、アンティオキア教会には、少なくとも「5人」の働き手がいました。その中に、バルナバとパウロが含まれています。この二人が、聖霊の導きによって選び出され、世界伝道の担い手として、遣わされていくことになります。
ここで、大事なことは、何でしょうか。それは、これから始まる「世界伝道」が、決して、「個人的な情熱・感情・計画」によってなされたわけではない、ということです。あくまでも、「聖霊の導き」、「神様の選び」、「神様の御計画」、「神様の御心」によるものに他ならないのです。どこにあっても、いつの時代でも、「伝道」は、私達人間の側から行うものではないのです。あくまでも、「伝道の主体」は、「神様御自身」に他ならないのあります。それに対して、私達は、その神様の御業のために、先立って、救われ、選び出され、必要とされ、そして、用いられているのであります。
それは、言い換えるならば、今、あなたが、ここで、先立って、救われていること。それ自体が、神様の御計画の一部であり、神様の御業であったのだ、ということ。そして、神様が、今、あなたをも、必要とし、用いようとして下さっているのだ、ということでもあるのです。その幸いが、まずここで、指し示されているのであります。
更に、ここでは、もう一つ大切なことがあります。それは、これから始まる「世界伝道」は、バルナバやパウロの個人的な聖霊体験から始まったわけではない、ということです。
「聖霊」は、パウロやバルナバたちだけに、つまり、個人的に与えられたのではない。教会に対して与えられたものなのです。即ち、「聖霊」は、教会の働きとして、パウロとバルナバを選び出すように、彼らを世界へと遣わすように。そのように命じているのです。
それは、少し見方を変えて言うならば、これから始まる「世界伝道」は、「聖霊の導き」と、それに対する「教会の正しい応答」によって、始められたのだ、と言えるかもしれません。
なぜ、これが、重要なのでしょうか。それは、アンティオキア教会にとって、パウロとバルナバを失うことが、大変な痛手になり得るからであります。この聖霊の導きに応答しなければいけない。その犠牲を払わなければいけないからであります。
教会の中には、パウロとバルナバに、いつまでも、教会にいて欲しい。そう願った人もいたかもしれません。これは、決して、根拠のない、単なる推測ではありません。
先ほどの聖句の最後には、次のように、記されています。「出発させた」と。この「出発させた」という言葉の原文は、「解き放つ」「解放する」という意味なのです。これが、この言葉の本来の意味なのであります。
「解放」されるためには、それよりも前に「縛られていた」「縛っていた」現実があったのだ、ということが前提となっています。ここに、アンティオキア教会における、バルナバとパウロに対する、深い感情が込められているのではないでしょうか。教会は、彼らに、残っていて欲しいと願っていた。ずっと、ここにいて欲しいと願っていた。教会の願望によって、遣わされた者を、縛り付けてしまっていた。それは、少し、悪い言い方をするならば、自分たちだけ良ければ良い。この教会が豊かであれば良い。そういう思いに似ているかもしれません。
しかし、今、彼らは、自分たちの願いを犠牲にし、神様の御心に、全てを委ねる決断をしたわけであります。神様の御心に従って、自分たちの願いを犠牲にして、彼らを、世界伝道へと解放したのであります。それは、更に言うならば、自分たちだけ良ければよい。この教会だけが豊かであれば良い。そういう自分の思いや願いや欲望から、自分たちも解放されたのだ、とも言えるかもしれません。
なぜ、それが出来たのでしょうか。それは、彼らが、キリストにある本当の喜びを知っているからであります。福音にある本当の喜びを知っているからであります。だからそれを、世界に伝えたいと、彼らは思ったのであります。自分たちの所に留めて置くのではなく、このただ一つの喜びを、世界に伝えたいと思ったから。そのような仕方で、神様の伝道の業に加わりたいと思ったから。まだ、そこに、福音を知らない人がいるから。まだ、その先に、真の神様を知らない人がいるから。だから、このただ一つの救いを、彼らも又、伝えたい、伝えなければ。そう思えたからなのであります。
だからこそ、自らを犠牲にして、神様の救いの御計画、神様の御心に、身を委ねることを決めることができたのであります。アンティオキア教会が、自分たちの思いを犠牲にし、二人の伝道者を解放していく。その痛みや辛さなくして、世界伝道は始まらなかったのです。そして、神様は、その痛みや辛さをも用いて、世界伝道を、前進させていくのであります。
それは更に、時代を越えて、今、私達にも、その痛みや辛さが、ちゃんと届いています。彼らの、あの時の痛みなくして、彼らの真の献身なくして、今、私達に福音が届けられることがなかったのであります。そのことを、もう一度、私達も思い起こすものでありたいと思うのであります。
さて、今朝の御言葉の4節から12節まで、続けて、改めて読んでみたいと思います。「聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し、サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。二人は、ヨハネを助手として連れていた。島全体を巡ってパフォスまで行くと、ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者に出会った。この男は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物と交際していた。総督はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとした。魔術師エリマ―彼の名前は魔術師という意味である―は二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした。パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、言った。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った」。
バルナバとパウロが、最初に伝道した場所。それは、キプロス島でした。キプロス島は、バルナバの故郷です。更に、ここに出てくる「ヨハネ」という助手は、「バルナバのいとこ」だと言われています。つまり、最初の伝道は、言うならば「郷里伝道」「故郷伝道」だったわけであります。
彼らは、どのようにして、伝道をしたのでしょうか。聖書によると、「ユダヤ人の会堂」で、「神の言葉を告げ知らせた」のだ、と言われています。そこには、バルナバの家族や友人もいたことでありましょう。バルナバの言葉に、快く、耳を傾けてくれる人もいたかもしれません。その意味で、郷里伝道は、福音を知るための、良き足掛かりになったかもしれません。
しかし、この土地で、誰よりも先に救われた人。そのは、誰だったでしょうか。それが、「総督パウルス」でありました。彼は「異邦人」です。つまり、自分にとって、一番、身近な存在が、誰よりも早く、キリストを受け入れたのではなく、自分から一番、遠くにいた人から救われていったのであります。
ここに、神様の深いみ旨があると思います。即ち、「伝道」は、人間の計画や思いを遥かに越えた、神様の御業なのだ、ということです。人間的な目から見れば、有効的・効率的な手段や方法も、神様の御業を究め尽くすことはできない。いや、人間の思いよりも、遥かに大きく、豊かな、恵みを、主は見せてくださるのであります。そのことが、まず、ここから指し示されていくのであります。即ち、伝道は、人間の計画や働きを越えた、神様の驚くべき恵みに溢れた御業なのだ、ということであります。そのことを踏まえて、次のポイントに触れてみたいと思います。
さて、彼らの伝道旅行は、初めから、順風満帆であったでしょうか。聖書によると、そうでもなかったようであります。むしろ、妨害もありました。
もともと、総督パウルスには、魔術師バルイエスという知り合いがいました。恐らく、総督の相談役だったのではないかとも言われています。この魔術師は、占い師のような存在で、占いを用いて、総督の相談に乗っていたのかもしれません。もし、そうであるならば、この魔術師には、ある程度の権威が与えられていただろうと思うのです。
しかし、総督は、バルナバとパウロに出会った。そして、神様の言葉を喜んだのです。その言葉を必要としたのであります。それに嫉妬した魔術師が、パウロたちの活動を妨害するようになります。結果的に、神様の御言葉が勝利を収め、魔術師の視力がうばわれてしまう。そのようなことが、ここで起きてしまったのであります。
それでは、この一連の出来事を通して、何が語られているのでしょうか。それは、何よりもまず、ここで、伝道のために、戦っているのは、パウロではない、ということです。ここで戦っているのは、「聖霊」なのです。
「伝道」は、ある意味で戦いです。福音を知らぬ人に、福音を伝えることは、沢山の痛みや恐れや悲しみや不安を得ることでもあります。時には、戦うこともあるかもしれません。時には、妨害するものと対峙しなければいけない場面もあるでしょう。
しかし、そこで、本当に、戦っているのは、この私ではないのです。そこで、戦っているのは、「聖霊」なのであります。神様が、そこで、戦って下さる。私達は、その場所を提供するだけのものなのであります。その意味で、「伝道」において大事なことは、有効的な手段を考えることではありません。効率化を図ることでもありません。神様が、そこで生きて働き、聖霊が、そこで戦って下さる。そのことを信じて、立ち上がることなのであります。
伝道は、ある意味で「戦い」と言いました。しかし、それは、勝てばよい、ということではありません。相手を敗北させることが重要ではないのです。
パウロは、最後に、バルイエスに向かって、このように言うのです。「時がくるまで」と。つまり、いつか、あなたの目は、開かれるのだ、ということです。「その日が、いつかは分からない。しかし、私は、あなたの目が、いつか開かれることを知っている。そう信じているのだ」、ということなのです。この人の救いを、神様に委ねていくのであります。
これは、ある意味で、とても、愛のある深い言葉だと思います。「あなたは、今、何も見えていないかもしれない。しかし、時が来れば、あなたの目は、開かれる」。この人の救いを、神様が、この人を救うことを、信じていなければ、この言葉は出ないのであります。
伝道は、確かに、戦うことです。しかし、勝敗を決めることではありません。勝利は、既に、御言葉にあることを、私達は、知っています。その上で、あなたが、救われる日がくる。そのことを、信じて待つことでもあるのです。
さて、ここでは、もう一つ大切なことがあります。それは、人を、本当に喜ばせるもの。それは、一体何か、ということなのです。総督パウルスは、魔術師の言葉に頼っていました。しかし、今、神様の言葉に触れた。それが、本当の喜びであることを知ったのです。そうでなければ、パウロたちを受け入れることはなかったでありましょう。つまり、魔術師の言葉からは、何も得られなかったということでありましょう。しかし、今、神の言葉に触れた。そこに、救いの全てがあることを、この人は知ることになったのであります。
それは、決して、奇跡を見たからではありません。聖書には、はっきりと、「神様の言葉を受け入れた」と書かれています。
「神様の言葉」とは、何でしょうか。それは、キリストの十字架の死と復活です。あるいは、神様の言葉は、キリストのそのものであると言えるでしょう。
つまり、総督パウルスは、そこでキリスト御自身と出会ったのであります。キリストと出会った。そして、「あなたのために私は命を捨てた。」「あなたはもう許されている。」「人の言葉ではなく、この私が、あなたを救うのだ。」「あなたは今、神様と共に永遠に生きられるのだ。」「人の言葉はいつか滅びるだろう。しかし、私は滅びない。そして、あなたも滅びることのない道に生きることができる。もう不安にならなくていい。不安になって、人の言葉や惑わしの言葉に頼らなくていい。今、私はあなたと共にいるのだ。永遠に共にいるのだ」。
総督パウルスは、そのキリストの招きの言葉に、真の喜びを見出したのではないかと思うのです。そして、この言葉は、今、時代を越えて、変わることなく、あなたにも、与えられた言葉なのであります。
このようにして、伝道は、痛みが伴います。時には妨害を受けます。時には傷つきます。しかし、伝道は、私達が、今、神が戦って下さることを知ることであり、人間の計り知れない奇跡を見ることであり、今、ここにもキリスト御自身が語りかけていることを知ることでもある。
そして、それは、キリスト者にとっても、そうでない者にとっても、深い慰めと喜びをもたらすものなのです。この深い恵みを覚え、神様の御心を問いつつ、主の導きに身を委ねて、私達もまた、それぞれの場に向かって、船をこぎ出していくものでありたいと思うのです。
今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録13章1節から12節の御言葉であります。改めて、1節から3節の御言葉をお読みします。「アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウルなど、預言する者や教師たちがいた。彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。『さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。』そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた」。
使徒言行録は、この13章から、新しいステージに向かって、進み出します。即ち、いよいよ、「福音」が、使徒パウロを通して、全世界へと宣べ伝えられていくことになるのです。今朝の御言葉は、その「始まりの出来事」について記しています。
さて、アンティオキア教会には、少なくとも「5人」の働き手がいました。その中に、バルナバとパウロが含まれています。この二人が、聖霊の導きによって選び出され、世界伝道の担い手として、遣わされていくことになります。
ここで、大事なことは、何でしょうか。それは、これから始まる「世界伝道」が、決して、「個人的な情熱・感情・計画」によってなされたわけではない、ということです。あくまでも、「聖霊の導き」、「神様の選び」、「神様の御計画」、「神様の御心」によるものに他ならないのです。どこにあっても、いつの時代でも、「伝道」は、私達人間の側から行うものではないのです。あくまでも、「伝道の主体」は、「神様御自身」に他ならないのあります。それに対して、私達は、その神様の御業のために、先立って、救われ、選び出され、必要とされ、そして、用いられているのであります。
それは、言い換えるならば、今、あなたが、ここで、先立って、救われていること。それ自体が、神様の御計画の一部であり、神様の御業であったのだ、ということ。そして、神様が、今、あなたをも、必要とし、用いようとして下さっているのだ、ということでもあるのです。その幸いが、まずここで、指し示されているのであります。
更に、ここでは、もう一つ大切なことがあります。それは、これから始まる「世界伝道」は、バルナバやパウロの個人的な聖霊体験から始まったわけではない、ということです。
「聖霊」は、パウロやバルナバたちだけに、つまり、個人的に与えられたのではない。教会に対して与えられたものなのです。即ち、「聖霊」は、教会の働きとして、パウロとバルナバを選び出すように、彼らを世界へと遣わすように。そのように命じているのです。
それは、少し見方を変えて言うならば、これから始まる「世界伝道」は、「聖霊の導き」と、それに対する「教会の正しい応答」によって、始められたのだ、と言えるかもしれません。
なぜ、これが、重要なのでしょうか。それは、アンティオキア教会にとって、パウロとバルナバを失うことが、大変な痛手になり得るからであります。この聖霊の導きに応答しなければいけない。その犠牲を払わなければいけないからであります。
教会の中には、パウロとバルナバに、いつまでも、教会にいて欲しい。そう願った人もいたかもしれません。これは、決して、根拠のない、単なる推測ではありません。
先ほどの聖句の最後には、次のように、記されています。「出発させた」と。この「出発させた」という言葉の原文は、「解き放つ」「解放する」という意味なのです。これが、この言葉の本来の意味なのであります。
「解放」されるためには、それよりも前に「縛られていた」「縛っていた」現実があったのだ、ということが前提となっています。ここに、アンティオキア教会における、バルナバとパウロに対する、深い感情が込められているのではないでしょうか。教会は、彼らに、残っていて欲しいと願っていた。ずっと、ここにいて欲しいと願っていた。教会の願望によって、遣わされた者を、縛り付けてしまっていた。それは、少し、悪い言い方をするならば、自分たちだけ良ければ良い。この教会が豊かであれば良い。そういう思いに似ているかもしれません。
しかし、今、彼らは、自分たちの願いを犠牲にし、神様の御心に、全てを委ねる決断をしたわけであります。神様の御心に従って、自分たちの願いを犠牲にして、彼らを、世界伝道へと解放したのであります。それは、更に言うならば、自分たちだけ良ければよい。この教会だけが豊かであれば良い。そういう自分の思いや願いや欲望から、自分たちも解放されたのだ、とも言えるかもしれません。
なぜ、それが出来たのでしょうか。それは、彼らが、キリストにある本当の喜びを知っているからであります。福音にある本当の喜びを知っているからであります。だからそれを、世界に伝えたいと、彼らは思ったのであります。自分たちの所に留めて置くのではなく、このただ一つの喜びを、世界に伝えたいと思ったから。そのような仕方で、神様の伝道の業に加わりたいと思ったから。まだ、そこに、福音を知らない人がいるから。まだ、その先に、真の神様を知らない人がいるから。だから、このただ一つの救いを、彼らも又、伝えたい、伝えなければ。そう思えたからなのであります。
だからこそ、自らを犠牲にして、神様の救いの御計画、神様の御心に、身を委ねることを決めることができたのであります。アンティオキア教会が、自分たちの思いを犠牲にし、二人の伝道者を解放していく。その痛みや辛さなくして、世界伝道は始まらなかったのです。そして、神様は、その痛みや辛さをも用いて、世界伝道を、前進させていくのであります。
それは更に、時代を越えて、今、私達にも、その痛みや辛さが、ちゃんと届いています。彼らの、あの時の痛みなくして、彼らの真の献身なくして、今、私達に福音が届けられることがなかったのであります。そのことを、もう一度、私達も思い起こすものでありたいと思うのであります。
さて、今朝の御言葉の4節から12節まで、続けて、改めて読んでみたいと思います。「聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し、サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。二人は、ヨハネを助手として連れていた。島全体を巡ってパフォスまで行くと、ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者に出会った。この男は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物と交際していた。総督はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとした。魔術師エリマ―彼の名前は魔術師という意味である―は二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした。パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、言った。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った」。
バルナバとパウロが、最初に伝道した場所。それは、キプロス島でした。キプロス島は、バルナバの故郷です。更に、ここに出てくる「ヨハネ」という助手は、「バルナバのいとこ」だと言われています。つまり、最初の伝道は、言うならば「郷里伝道」「故郷伝道」だったわけであります。
彼らは、どのようにして、伝道をしたのでしょうか。聖書によると、「ユダヤ人の会堂」で、「神の言葉を告げ知らせた」のだ、と言われています。そこには、バルナバの家族や友人もいたことでありましょう。バルナバの言葉に、快く、耳を傾けてくれる人もいたかもしれません。その意味で、郷里伝道は、福音を知るための、良き足掛かりになったかもしれません。
しかし、この土地で、誰よりも先に救われた人。そのは、誰だったでしょうか。それが、「総督パウルス」でありました。彼は「異邦人」です。つまり、自分にとって、一番、身近な存在が、誰よりも早く、キリストを受け入れたのではなく、自分から一番、遠くにいた人から救われていったのであります。
ここに、神様の深いみ旨があると思います。即ち、「伝道」は、人間の計画や思いを遥かに越えた、神様の御業なのだ、ということです。人間的な目から見れば、有効的・効率的な手段や方法も、神様の御業を究め尽くすことはできない。いや、人間の思いよりも、遥かに大きく、豊かな、恵みを、主は見せてくださるのであります。そのことが、まず、ここから指し示されていくのであります。即ち、伝道は、人間の計画や働きを越えた、神様の驚くべき恵みに溢れた御業なのだ、ということであります。そのことを踏まえて、次のポイントに触れてみたいと思います。
さて、彼らの伝道旅行は、初めから、順風満帆であったでしょうか。聖書によると、そうでもなかったようであります。むしろ、妨害もありました。
もともと、総督パウルスには、魔術師バルイエスという知り合いがいました。恐らく、総督の相談役だったのではないかとも言われています。この魔術師は、占い師のような存在で、占いを用いて、総督の相談に乗っていたのかもしれません。もし、そうであるならば、この魔術師には、ある程度の権威が与えられていただろうと思うのです。
しかし、総督は、バルナバとパウロに出会った。そして、神様の言葉を喜んだのです。その言葉を必要としたのであります。それに嫉妬した魔術師が、パウロたちの活動を妨害するようになります。結果的に、神様の御言葉が勝利を収め、魔術師の視力がうばわれてしまう。そのようなことが、ここで起きてしまったのであります。
それでは、この一連の出来事を通して、何が語られているのでしょうか。それは、何よりもまず、ここで、伝道のために、戦っているのは、パウロではない、ということです。ここで戦っているのは、「聖霊」なのです。
「伝道」は、ある意味で戦いです。福音を知らぬ人に、福音を伝えることは、沢山の痛みや恐れや悲しみや不安を得ることでもあります。時には、戦うこともあるかもしれません。時には、妨害するものと対峙しなければいけない場面もあるでしょう。
しかし、そこで、本当に、戦っているのは、この私ではないのです。そこで、戦っているのは、「聖霊」なのであります。神様が、そこで、戦って下さる。私達は、その場所を提供するだけのものなのであります。その意味で、「伝道」において大事なことは、有効的な手段を考えることではありません。効率化を図ることでもありません。神様が、そこで生きて働き、聖霊が、そこで戦って下さる。そのことを信じて、立ち上がることなのであります。
伝道は、ある意味で「戦い」と言いました。しかし、それは、勝てばよい、ということではありません。相手を敗北させることが重要ではないのです。
パウロは、最後に、バルイエスに向かって、このように言うのです。「時がくるまで」と。つまり、いつか、あなたの目は、開かれるのだ、ということです。「その日が、いつかは分からない。しかし、私は、あなたの目が、いつか開かれることを知っている。そう信じているのだ」、ということなのです。この人の救いを、神様に委ねていくのであります。
これは、ある意味で、とても、愛のある深い言葉だと思います。「あなたは、今、何も見えていないかもしれない。しかし、時が来れば、あなたの目は、開かれる」。この人の救いを、神様が、この人を救うことを、信じていなければ、この言葉は出ないのであります。
伝道は、確かに、戦うことです。しかし、勝敗を決めることではありません。勝利は、既に、御言葉にあることを、私達は、知っています。その上で、あなたが、救われる日がくる。そのことを、信じて待つことでもあるのです。
さて、ここでは、もう一つ大切なことがあります。それは、人を、本当に喜ばせるもの。それは、一体何か、ということなのです。総督パウルスは、魔術師の言葉に頼っていました。しかし、今、神様の言葉に触れた。それが、本当の喜びであることを知ったのです。そうでなければ、パウロたちを受け入れることはなかったでありましょう。つまり、魔術師の言葉からは、何も得られなかったということでありましょう。しかし、今、神の言葉に触れた。そこに、救いの全てがあることを、この人は知ることになったのであります。
それは、決して、奇跡を見たからではありません。聖書には、はっきりと、「神様の言葉を受け入れた」と書かれています。
「神様の言葉」とは、何でしょうか。それは、キリストの十字架の死と復活です。あるいは、神様の言葉は、キリストのそのものであると言えるでしょう。
つまり、総督パウルスは、そこでキリスト御自身と出会ったのであります。キリストと出会った。そして、「あなたのために私は命を捨てた。」「あなたはもう許されている。」「人の言葉ではなく、この私が、あなたを救うのだ。」「あなたは今、神様と共に永遠に生きられるのだ。」「人の言葉はいつか滅びるだろう。しかし、私は滅びない。そして、あなたも滅びることのない道に生きることができる。もう不安にならなくていい。不安になって、人の言葉や惑わしの言葉に頼らなくていい。今、私はあなたと共にいるのだ。永遠に共にいるのだ」。
総督パウルスは、そのキリストの招きの言葉に、真の喜びを見出したのではないかと思うのです。そして、この言葉は、今、時代を越えて、変わることなく、あなたにも、与えられた言葉なのであります。
このようにして、伝道は、痛みが伴います。時には妨害を受けます。時には傷つきます。しかし、伝道は、私達が、今、神が戦って下さることを知ることであり、人間の計り知れない奇跡を見ることであり、今、ここにもキリスト御自身が語りかけていることを知ることでもある。
そして、それは、キリスト者にとっても、そうでない者にとっても、深い慰めと喜びをもたらすものなのです。この深い恵みを覚え、神様の御心を問いつつ、主の導きに身を委ねて、私達もまた、それぞれの場に向かって、船をこぎ出していくものでありたいと思うのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:11| 日記