2022年04月02日

2022年4月10日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:マルコによる福音書15章33節〜41節
説教:「主イエス、息を引き取られる」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:使徒言行録12章1節〜25節
説教:「逆境をこえていく言葉」須賀 工牧師

感染予防対策をした上で、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:47| 日記

2022年4月3日 主日礼拝説教「キリスト者と呼ばれる」須賀 工牧師

聖書:使徒言行録11章19節〜30節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録11章19節から30節の御言葉です。19節の御言葉をお読みします。「ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった」。
 ステファノが、迫害によって殺されました。この事件を起点として、多くのユダヤ人クリスチャンたちが、迫害から逃れるために、各地へと散らされていくことになります。しかし、彼らは、決して、ただ「逃げた」訳ではありません。聖書によると、彼らは、それぞれの逃げた土地で、主イエス・キリストの救いを伝道したと言われています。
しかし、ここに、一つだけ問題がありました。その問題とは、何でしょうか。それは、「ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった」ということであります。つまり、未だに、「ユダヤ主義」「ユダヤ選民思想」が、多くのクリスチャンたちの中に、根強く残っていた。主イエス・キリストは、「ユダヤ人の救い主」なのだ、という考え方。その考え方が、まだまだ根強く残されていたわけです。但し、当時のクリスチャンたちの多くは、「本国で育ったユダヤ人」と「外国で育ったユダヤ人」でありましたから、それもまた、仕方のないことであったと言えるかもしれません。
しかし、このアンティオキアにおいて、新しい風が、吹き込むことになります。20節から21節の御言葉をお読みします。「しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった」。
キプロス島、キレネ、言うならば、地方のクリスチャンたちが、大都市アンティオキアに来ました。彼らは、何をしたのでしょうか。「ギリシア語を話す人々」に、福音を語ったのです。これは言い換えるならば、「異邦人」に向けて、「福音」を語ったのであります。
決して、難しいことは、語っていないと思います。聖書によると、「主イエスについて」語ったとあります。「主イエスこそ、私達の救い主だ」「主イエスこそ、私達の救いの支配者だ」。ただ、それだけを語ったのではないでしょうか。
その彼らには、「名前」がありません。無名のクリスチャンたちです。有名な伝道者でもなければ、有力者というわけでもない。私達と同じです。平凡なクリスチャンです。
しかし、ただ、一心に、キリストだけを宣べ伝えた。これは、勇気のいることでありましょう。ユダヤ主義の壁を壊し、今までのユダヤ人の価値観を乗り越え、教会の伝統を越えて「私達の救い主は、あなたの救い主でもあるのだ」。そのように宣べ伝える。これは、とても勇気のいる行為だと思うのです。
しかし、伝道は、そのような、私達の勇気や力だけで、成り立つものではありません。聖書によると、「主がこの人々を助けられた」とあります。この言葉は、直訳すると、「主の御手が共にあった」という意味です。彼らが、一人で、伝道しているわけではないのです。神様が、彼らの支えとなった。神様が、手を添えてくださった。それ故に、彼らは、勇気をもって語ることができた。そして、その恵みに、応える人を、導いてくださったのです。
彼らの情熱―パッション−は、どこから来るのでしょうか。それは、主イエス・キリストの受難−パッション−から来るのです。キリストが、この私のために、命を捨ててくださった。そして、そのキリストは、あなたのためにも、命を捨ててくださった。そして、あなたのためにも復活し、永遠の命を約束してくださっている。このただ一つの、自分たちも受けた福音が、彼らの情熱を作り上げ、そして、神様が、その働きに手を添えて下さった。これが、ここで起きていることなのであります。
このようにして、アンティオキア教会は、世界で初めて、異邦人を受け入れ、異邦人を中心とした教会として誕生したのであります。極端な話をすれば、アンティオキア教会がなければ、石山教会もなかったかもしれません。その意味で、この出来事は、ただ単に、人間の情熱によるものだけではなく、神様の御心、神様の御計画、神様の情熱によって、実現したことであった。そのようにも言えるかもしれません。
 続いて、22節から24節の御言葉をお読みします。「このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた」。
 エルサレムの教会から、バルナバが派遣されます。因みに、バルナバは、「慰めの子」という意味です。
このバルナバは、アンティオキア教会の上に、神様の恵みが、確かにあることを見ました。ここに、神様の恵みが、確かにあることを、彼は見たのです。バルナバは、決して、この教会を「批判」したり、「裁く」ことはしませんでした。むしろ、共に「喜んだ」のです。今までの常識や価値観によって裁くのではなく、相手に与えられた恵みを見つめ、共に喜べる人。その人が、アンティオキア教会へと遣わされたのです。ここにもまた、神様の深い御旨があります。
 もし、バルナバが、裁く人であったらならば、アンティオキア教会が、エルサレム教会と切り離されていたかもしれません。その場合、教会は、どうなっていたでしょうか。アンティオキア教会は、聖書に基づくことのない、新興宗教のままで終わっていたでありましょう。あるいは、エルサレム教会は、ユダヤ主義の枠を越えられず、やはり終わりを迎えていたかもしれません。
 バルナバが、派遣されていくこと。それは、教会が、ますます、ユダヤの枠から解放されて、一つの体として成長し、世界に福音が告げ知らされるために必要なことあった。そして、それこそが、正に、神様の御旨だったのではないかと思うのです。そして、極端な話にはなりますが、この奇跡は、今、あなたが、キリストによって救われるために、必要な出来事だったのだ、ということ。そのことにも、思いを馳せていくものでありたいのであります。
 バルナバは、教会の人々に、このように、勧めています。「固い決意をもって、主から離れることがないように」と。伝道において、一番、大切なことは何でしょうか。主に委ねることも大切です。御言葉を語り続けることも大切です。
では、私達が、誰でも、出来る、具体的な伝道は、何でしょうか。それは、「主から離れないこと」です。留まり続ける、ということであります。一時のテンションに身をまかせ、熱が冷めたらやめてしまう。それは、伝道には、なりません。どのような状況に置かれても、主の下に留まり続ける。これが、実は、誰でもできる、一番重要な伝道であります。
 「自分は高齢ですから伝道はちょっと」と言われることがあります。本当に、そうでしょうか。今、ここに、あなたがいることが、もうすでに、伝道なのです。主が、そのように用いて下さっている、ということであります。伝道の主体は、あくまでも、神様御自身であることを忘れてはいけません。
 「自分は高齢だから」「自分は若すぎるから」「自分は無力だから」伝道は、出来ないのではないのです。それは、言い換えれば、「自分が若ければ」「自分が適齢期になれば」「自分に力があれば」伝道は、出来る、ということでありましょう。それは、伝道が、「人間の力」によるものだと考えている。その証拠ではないでしょうか。伝道の主体は、あくまでも神様であり、その神様が、あなたをここにおいてくださる。そのことによって、働かれるのです。目に見える仕方では、何もできていないかもしれない。しかし、そこにあなたがいること。それが、主の働きに参与していることにもなる。だから、何もしていない自分を責める必要はない。何もしていない人を裁く必要はない。全ての人が、今、ここで、そして、いかなる状況下に置かれても、主の下に、固く留まっていることこそが、伝道の器として、主の弟子として生きることなのであります。
 続きの御言葉に、耳を傾けていきたいと思います。25節から30節をお読みします。「それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。そのころ、預言する人々がエルサレムからアンティオキアに下って来た。その中の一人のアガボという者が立って、大飢饉が世界中に起こると“霊”によって予告したが、果たしてそれはクラウディウス帝の時に起こった。そこで、弟子たちはそれぞれの力に応じて、ユダヤに住む兄弟たちに援助の品を送ることに決めた。そして、それを実行し、バルナバとサウロに託して長老たちに届けた」。
 バルナバは、迫害によって逃れていたサウロを、見つけ出します。そして、二人で、アンティオキア教会に仕えました。聖書の地図を見て頂ければわかりますが、このアンティオキア教会が、後に、パウロの伝道活動の拠点となります。ここから出発し、ここに帰って来る、と言う仕方で、アンティオキア教会が、用いられていくことになるのです。
パウロを送り出し、パウロが伝道する。そして、世界中に教会が、建てられていくことになる。その意味で、世界的な教会の母体となったのが、このアンティオキア教会であったと、言えるかもしれません。先ほども、申し上げましたが、アンティオキア教会なくして、私達の教会もなかったかもしれない。いや、私達が救いを知ることもなかった。全ては、神様の御旨と御計画によって、物事が、進行しているのです。
 さて、ある時、世界中に飢饉が起こります。その時、アンティオキア教会の信徒たちは、物資をエルサレム教会に送りました。自分たちも苦しい現実にありながら、エルサレム教会を助けたのです。
正に、教会は、神様の家族であると言えるかもしれません。キリストを頭として、一つの体ともいえるでしょう。共に喜ぶだけではなく、共に苦しみを担い合う。そのような教会関係、クリスチャン関係が、こうして生まれていくことになるのです。ユダヤの枠が取り除かれ、キリストを中心に、キリスト者が、一つの体となっていく。その幸いを、ここで見つめることが出来ると共に、今の教会もまた、キリストを中心に、一つの体であるかどうか。そのことが、改めて、強く問われていくのではないかと思うのです。
 さて、最後になりますが、聖書によると、このアンティオキア教会において、初めて、クリスチャンが「クリスチャン」「キリスト者」と呼ばれるようになったと言われています。この「キリスト者」という言葉は、教会の中で生まれた言葉ではありません。教会の外の人に言われた「あだ名」です。直訳すると「キリストの輩」「キリスト人」。私の私訳では、「キリスト野郎」です。他にも、「キリスト男」「キリスト女」「キリスト馬鹿」みたいな訳や解釈をしている人もいました。どちらかと言えば、馬鹿にされたような「あだ名」ともいえるかもしれません。
 しかし、彼らが、こう呼ばれていくことが大切です。「口を開けば、キリスト、キリスト」「キリストなしには夜も日も明けない」「また、キリストのことばかり、本当に、あなたはキリスト馬鹿ね」。彼らの生活の支配者は、正にキリストだったのではないでしょうか。キリストの恵みが、彼らの生活を満たしていたのではないでしょうか。
この私のために、キリストが命を捨ててくださった。この私のために、キリストは、復活された。このキリストがいなければ、罪や死から逃れられない。キリストしか、私の救いにならない。そして、そのキリストは、あなたのための救い主でもあるのだ。この深い恵みに、全生活が、満ち溢れている。たとえ、大飢饉が来たとしても、たとえ、人から馬鹿にされても、それでも、キリストに満ち溢れている。キリストの恵みに支配されている。その彼らの信仰が、多くの人々の心を捉えていくのではないかと思うのです。
 だからこそ、彼らは、このあだ名を、喜んで受け入れたのではないかと思います。そして、今、私達もまた、私達の存在に、キリストの名が付けられていることを喜びたいと思います。キリストの名を頂いていること、それほどまでに、私達の全生活の中心に、いや、その全てにおいて、キリストが支配している、ということ。その幸いを、改めて、深く心に留める者でありたい。そして、その深い恵みに留まり続け、益々、新しい時代を前進していきたいと思うのです。
 今、あなたが、救われるために、この歴史があります。今、あなたもまた、そのキリストの名を頂いて生かされています。そして、今、あなたの存在そのものを、神様が必要としています。この主の導きと招きに、応えて、様々な伝統や習わしを越えて、正に、キリスト者の自由に立って、共に、主に託された伝道の業に、共に生きていきたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:41| 日記