2022年04月08日

2022年4月10日 主日礼拝説教「逆境をこえていく言葉」須賀 工牧師

聖書:使徒言行録12章1節〜25節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録12章1節〜25節の御言葉であります。今朝の御言葉は、少し長い文脈となっています。また、映画を見ているような、劇的な場面も多数、描かれていると言えるかもしれません。
 今朝の御言葉は、それらのストーリーに沿って、お話をするのではなく、この全体の文脈から、ポイントを取り上げて、語らせていただきたいと思います。
 それでは、まず、この文脈から、特に示されていることは、何でしょうか。それは、「人間の『罪』とは何か」、そして、その罪の先に何があるのか、ということであります。
 今朝の御言葉には、「ヘロデ」という人物が出てきます。因みに、このヘロデは、「クリスマスの物語」に出てくる、あのヘロデとは、別人です。恐らく、「クリスマス」に出てくるヘロデの「甥」に当たる人物。そのような人物ではないかと、言われています。
 いずれにせよ、当時のユダヤは、長い間、この「ヘロデ家」の王政によって、支配されていました。
そもそも、この「ヘロデ」は、純粋な「ユダヤ人」ではありません。正確に言うならば「エドム人の子孫」です。そのため、ユダヤ人からは、正統な王として認められていなかった。そのような現実がありました。
それ故に、ヘロデ家は、代々、何をしてでも、ユダヤ人の支持を得たい。そのような気持ちで、努力をしてきたわけです。
 人から認められたい。人から褒められたい。人から受け入れられたい。人の注目を得たい。それが、ヘロデの心の中にある、強い思いでもありました。
 そして、それを得るためには、何でもしたわけです。聖書によると、教会を迫害しました。使徒を処刑しました。ペトロを捕えました。全ては、人から認められたいからです。人から褒められたいからです。神のように、崇められたいからです。全ては、その人間的な心から始まっているわけです。
 しかし、その「ヘロデ」には、決定的な「弱さ」もありました。それは、何でしょうか。それは、「不安な心」です。人から認められたい人は、失敗することを恐れるのです。間違うことを恐れるのです。
なぜ、ヘロデは、ペトロを捕え、尋常ではないほどに、厳重な監視を置いたのでしょうか。それは、「不安」だからです。失敗することを恐れたからです。失敗して、人からの誉を失うことを、恐れたからであります。おかしな話ではありますが、強さを強調する人ほど、よく恐れるのです。強さを誇る人ほど、不安を抱えるのです。
 しかし、同時に、ヘロデは、その弱さを、隠すのが上手いのです。それを覆い隠すようにして、力を強調するのです。人に認められたい。だから、力で、弱さを隠そうとするのです。
 人に褒められたい。人の誉を得たい。人に認められたい。だから、力を行使する。力で弱さを隠そうとする。そこにあるのは、もはや、神になろうとしている自分の姿であります。神を神とするのではなく、自分が、神になろうとする心です。そして、そこにこそ、人間の罪の闇がある。自分の弱さを隠し、罪ある自分から目を背け、それをひた隠し、まるで、神のようになろうとする。それが、ヘロデの行きついた先。ここに人間の罪の闇があるわけです。
 そして、そのヘロデは、どうなっていくのでしょうか。最後には、滅びていくのです。神様の厳しい裁きに、晒されていくのです。
 神様は、ただ一人、絶対的に、正しい御方です。罪に対して、徹底的な仕方で、裁きを行われる方です。神様は、確かに、私達が、望む、愛なる御方でもあります。しかし、その愛が、正しい愛であるために、罪を見逃すことはないのです。罪を見逃す神は、私達を本当に、愛しているとは言えません。罪に対して、はっきりと、否と言われる方です。もし、神様が、正しくないことも受け入れる神であるならば、私達に対する愛もまた、その正しさを失うのであります。その意味で、神様の愛と裁きは、表裏一体、コインの裏表に他なりません。
 それでは、私達人間が、救われる道は、本当に、あるのでしょうか。神様の正しさの前では、何もできない私達です。裁かれて当然の存在でありましょう。私達もまた、ヘロデと同じ心を持っていないとは、誰も言い切れないわけであります。
 今朝の御言葉には、もう一つ大切なポイントがあります。それは、この逆境の中にあっても、なお、救われた人たちがいるのだ、ということです。滅ぶ人もいれば、救われた人もいる。それが、ペトロと教会の人たちです。クリスチャンたちであります。
 それでは、彼らの違いは、一体、何でしょうか。答えは、一つです。「キリストと一つであるか」ということです。「キリストと結ばれているか」ということです。そこに、裁きと救いの境界線があります。
キリストと結ばれているから、良い人生が送れるのでしょうか。それは、違います。実際に、使徒の一人は死に、ペトロは投獄されました。常に、キリスト者であるゆえに、逆境に晒されることがあるわけです。
しかし、その逆境の中にあってもなお、キリストにあって、神様の救いの出来事を見つめることがゆるされている。いや、その救いの出来事の中に、加えて頂くことが得られるのであります。
 よく話を思い出したいと思います。クリスチャンは、この世にあって、完璧であると言えるでしょうか。それは違います。間違いを犯します。失敗します。教会も同じです。
 ペトロが、投獄された時、教会は、祈りを捧げていました。祈ることしかできなかった、とも言えるかもしれません。それほどまでに、人間の限界の中に、彼らはいたわけです。
 しかし、ペトロが、解放された時、彼らは、その奇跡を疑ったのです。そんなことはありえないと思った。天使の存在を信じているのに、ペトロの解放は信じなかった。つまり、私達クリスチャンは、祈りの中ですら疑いの罪を犯すのです。不信仰になるのです。ペトロは、どうでしょうか。彼は、今、自分に起きている解放が、夢や幻だと思ったのです。そこに神が働いている。そういう希望はなかったのであります。
しかし、それでも、神様は、ペトロを救い、教会の祈りを聞かれたのであります。なぜでしょうか。それは、ペトロを救い、教会を救うことこそが、主の御心だったからです。
 教会が、一生懸命に、祈ったからでしょうか。しかし、それならば、なぜ、疑ったのでしょうか。心のどこかで、疑いながら祈っていたのではないでしょうか。
 ここで、祈りが聞かれたのは、教会が一生懸命だったからではありません。神様が、教会を救い、ペトロを救い出す。そのことに、一生懸命でいてくれたからです。彼らの足らざる祈りすらも、疑い深い不信仰な祈りすらも、神様の救いの御業の中に、入れることを、主がよしとしてくださったのです。祈りとは、神様に御業を委ねると共に、その御業に、私達が、足らざるものであるにも関わらず、入れて頂いている。その幸いを知ることでもあるのです。
 さて、ペトロが、解放された時、ペトロにもまた、意識がありませんでした。夢や幻だと思ったわけです。それは、言い換えるならば、この救いの出来事が、人間の意識や計画、あるいは、祈りの力によって、得られたものではない、ということを意味しています。
つまり、ただただ、神様の深い憐れみによってのみ、私達は、逆境を越えていくほどの救いを見つめることができるのです。クリスチャンは、祈りの中ですら、罪を犯します。不信仰に陥ります。無意識の中でも、罪を犯すわけです。
 しかし、神様は、ただただ、その深い憐れみによってのみ、私達を、その救いの光の中へと入れて下さる。なぜでしょうか。神様と私達の間には、キリストがいるからです。キリストの執り成しと、キリストの救いがあるからです。キリストを通して、私達は、神様の救いの御業を見つめ、逆境を越えるほどの真の奇跡を見つめることができる。死すらも、捕らえることのできない、真の奇跡を見るものとされる。
大切なことは、我に返る、ということです。神様を意識することです。そして、信じて、扉を開くことです。失敗しても良いのです。間違えを犯すこともある。しかし、それすらも、主の憐れみによって、救いの御業の一部に入れて頂けるのであります。
 石山教会もまた、今、無会衆礼拝を捧げています。逆境の時かもしれません。不安が、私達を支配しているかもしれない。全世界の教会も又、様々な、苦難、逆境の時を過ごしています。一人一人の上に、神様の助けがあることを祈りたいのです。
そこで、人間の限界を思わずにはいられない。祈っても無駄。祈っても意味がない。そう思いながら、疑いつつ、祈ることもあるかもしれない。
 しかし、主は、その私達もまた、キリストを通して、憐れみの内に置いて下さり、逆境をこえていくほどの救いの御業へと、私達を入れてくださる。様々な逆境は、今や、神様の救いの力を見るための栄光の支配に代えられることになるのです。その時がくることを、私達は信じたいのです。大事なことは、人の力や誉れを求めることではなく、人の力を捨てて、神様の救いの御業に身を委ねていくこと。神を神として崇め、逆境の中でこそ、賛美の声を止めないことなのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 23:10| 日記