2022年04月11日

2022年4月24日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:創世記1章1節〜10節
説教:「天地創造」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:ヨハネによる福音書7章1節〜9節
説教:「審きの時、救いの時」須賀 舞伝道師

感染予防対策をした上で、礼拝を捧げています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:57| 日記

2022年4月17日 主日礼拝説教「死は打ち破られた」須賀 工牧師

聖書:マタイによる福音書28章1節〜10節

 私達にとって「死」とは、一体何でしょうか。それは、「人生の終着点」でしょうか。あるいは、人間の力が及ばない「脅威」でしょうか。それは、「絶望」でしょうか。それは「悲しみ」でしょうか。
 そのどれも間違いではありません。私達にとって「死」は、「人生の終わり」であり、また「脅威」でもあります。時に「死」は、人間を「絶望」へと至らせ、「不安」や「悲しみ」、そして時には「怒りの感情」へと誘います。勿論、「死」というものを「平安」として積極的に理解する人もいるかもしれません。しかし、やはり私達を一般的にとらえてやまないのは、むしろ、前者の否定的な感情の方ではないかと思うのです。
 しかし、そのところで、忘れてはいけないこともあります。それは、主イエス・キリスト御自身もまた「死」を悲しまれたということです。主イエス・キリストは、ラザロの死に涙を流しました。更に、御自身の身に「死」が迫り来る中で涙を流します。更に言えば、十字架の上でもまた、主イエス・キリストは、神に嘆きながら悲痛の叫びを上げて死んでいかれます。このように、誰よりも、主イエス・キリスト御自身こそが「死」を悲しまれたお方でもあるのです。神の御子であるにも関わらず、「人間の死」の苦しみを味わい、涙を流されたのです。それは、「死」というものが、決して楽観的なものではなく、むしろ、人間にとって、いかに恐ろしく、苦しいものであるかを表していると言えるでありましょう。
 それでは、私達人間は、この「死の圧倒的な力」に敗北したままなのでしょうか。あるいは、私達の救いであるイエス・キリストもまた、死の力に敗北されたままのお方なのでしょうか。もし、そうであるならば、私達の人生には、何も希望は残されていません。この地上にあって、どれだけ豊かに満ち足りた人生であったとしても、死の力に敗北した人生の先には、何も希望は見出せないままでありましょう。いや、そのような人生は、希望なくして絶望に向かった人生であると言わなければいけないかもしれません。
 今朝、私達に与えられた御言葉には、二人の婦人が登場します。マグダラのマリアともう一人のマリアです。この婦人達は、主イエス・キリストが十字架で死んで葬られていく様を、初めから終わりまで見送りました。言い方を変えるならば、主イエス・キリストが「死」に敗北していく姿を一部始終、目の当たりにしたのだとも言えるでありましょう。
 主イエス・キリストに全てを賭けていた婦人達にとって、このキリストの死は大きな絶望を与えたことでありましょう。愛する主が死んでしまったのです。真の救い主でありながら死に打ち勝つことができなかったのです。死の圧倒的な力の前で、深い挫折と絶望を感じたことでありましょう。そして、その絶望の中にあって、婦人達は、キリストの墓へと向かって歩み出すのであります。
 しかし、このような「死に対する深い絶望の中」で、私達人間の思いを越えた出来事が起きるのです。今朝の御言葉の1節から4節をお読みします。「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」。
 ここで何が起きたのでしょうか。聖書によれば、神様が、天使を通して石をわきへと転がします。そして、その上に天使を座らせるのです。この石とは、墓に蓋をするための石であります。即ち、その墓石は、死者が完全に死んで葬られたのだということを決定付ける意味を持っています。あるいは、それは、死の勝利宣言であり、人間の敗北宣言を象徴したものであるとも言えるかもしれません。
 更に聖書によれば、キリストの墓には番兵がつけられていました。それは、弟子達がキリストの死体を盗むのではないかと思われていたからです。その意味で言うならば、この番兵の役割は、主イエス・キリストを死へと追い込むこと、キリストの死を固持することであると言えるでしょう。
 このように主イエス・キリストは、死の支配の中に完全な仕方で抑え込まれていくのです。神の御子でありながら主イエス・キリストもまた、死の圧倒的な力によって抑え込まれ、支配されてしまった。真の救い主ですら、死の前で敗北してしまった。神の御子、神に等しきお方ですら、死の力に抑え込まれてしまった。そうであるならば、誰が救われるのか。どうして人間が救われるのか。そう思わずにはいられない状況が、ここで生まれていたのであります。
 しかし、そのようなどうすることもできない死に対する深い絶望の中で、神様が生きて働かれるのであります。墓石を転がし、それを天使の足下に置かれます。そして、キリストを死に抑え込もうする番兵をも制するのです。それは正に、神様の力によって死の力が無力であること、神様の前で死が敗北したこと、神様は死すらも支配しておられるということ。そのことを、神様御自身が強くあらわしてくださったということでありましょう。そして、何よりも死の力によって心が闇に満たされた人々は、この大いなる出来事を通して、神の光、神の輝きの中へと招かれていくのであります。人間の力では、死を克服することはできません。しかし、まさにそのところで、その絶望の中でこそ、神様が生きて働かれる。神様がそこで死の闇を越えて光の輝きをもって、人間を照らし出して下さる。それがここからまず示されていることなのです。
 では、この神様は、光の中で人間に何を示してくださるのでしょうか。5節から7節をお読みします。「天使は婦人たちに言った。『恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました」。
 ここでは沢山のことが語られていますが、注目すべきことは二つあります。それは、まず「主イエス・キリストが墓にはいない」ということです。「キリストが墓にはいない」ということは何を意味しているでしょうか。それは、キリストによって墓は空しくなったということです。あるいは、主イエス・キリストは死を打ち破られたのだということであります。キリストは死んで敗北したままではないのです。この死を打ち破り、この苦しみ、絶望を打ち破られた。私達に人間にとって、死は最大、最強の敵とも言えるかもしれません。誰もが、その死に打ち勝つことはできません。
 しかし、打ち勝つことができたお方がいたのです。それが主イエス・キリストなのです。このキリストを前に、死の力は無力なのです。死は空しくされているのです。その大いなる恵みが、ここでまず神様の遣わした天使、あるいは神様の御言葉を通して強く指し示されているのです。即ち、主イエス・キリストは決して死に敗北したのではないということ。むしろ、死に勝利し、死を乗り越えておられるということ。その復活のキリストのもとにこそ、大きな希望があるのだということ。それを神様はここで深く指し示してくださっているのです。
 そして、ここでは、もう一つ大切なことがあります。それは、正にその「主イエス・キリストが、ガリラヤで弟子達を待っているのだ」ということです。「ガリラヤ」は何を意味しているのでしょうか。「ガリラヤ」は、主イエス・キリストと弟子達の出会いの場所です。そして、主イエス・キリストと弟子達の活動の原点でもあります。つまり、ここで主イエス・キリストは、主の弟子達を原点へと迎えるために、ガリラヤで待っていてくださるのだということが分かるのです。少し言い方を変えるならば、主の弟子達を主の弟子として改めて招き、同じようにまた愛する弟子として迎えて下さっているということでありましょう。
 主の弟子達は、皆、主イエス・キリストを見捨てて逃げ出しました。主イエス・キリストを裏切ったのであります。キリストを信じ、従って生き抜くことができなかったのであります。それは言うならば、キリストに対しても、神様に対しても、罪を犯したことになります。
 実は、聖書では、「罪と死」とは、決して切り離せない関係にあると考えています。「罪の報酬が死」と言われているように「罪の結果が死なのだ」と考えられているのです。このように、「罪と死」とは、決して切り離せない関係にあります。但し、ここで「罪」とは、犯罪を意味する罪とは違います。聖書がいう「罪」とは簡単に言えば「神様を信じないこと」です。即ち、「神様を信じない罪人」は、神の刑罰によって、ただ死んで滅んでいくだけなのです。死の世界に支配されたまま滅んでいくだけなのです。これが、罪によって引き起こされる死の現実なのだと、聖書は語っています。
 その意味で、主の弟子たちが、主イエス・キリストを裏切った、真の神の御子であるキリストを裏切った、その瞬間から、彼らは「死に支配された人生」へと歩み出したのだとも言えるでありましょう。また、キリストを裏切ったその瞬間から、彼らは死の滅びに向かった道を歩み出したのだとも言えるかもしれません。
 しかし、そのような彼らを、復活の主イエス・キリストは再び弟子として迎え入れるのです。彼らの罪を赦し、憐れみをもって彼らを招かれるのであります。死を打ち破った復活のキリストの御手の中へと招きいれてくださるのです。罪に落ちた人々をただ滅びの内へと見捨てて行くのではなく、罪と死の隔たりを打ち破り、罪と死を越えて、救い主の御手の中へと改めて迎え入れてくださるのであります。ここに復活のキリストにおける大きな恵みが指し示されているのです。そして、このキリストに結ばれて生きる時、そこで主の弟子達もまた、罪と死から解き放たれ、永遠なる神と共に永遠に生きる新しい道が切り開かれていくのであります。神様は、このように、復活のキリストが、弟子達を待ち続けていること。そこにこそ、罪と死を越えた真の救いがあることをお示しになってくださったのです。
  私達は、今、キリストの復活の御言葉を頂きました。死に絶望するところに神様が、生きて働かれるのだ、ということを知りました。そして、その神様は、復活のキリストを通して死は無力なのだということを教えて下さいます。更に、この主イエス・キリストは、人間の罪と死を打ち破り、憐れみをもって御自身の御手の中へと信じる者を招き続けてくださっているということ。そして、その招きに応えていく先にこそ、死を越えた希望があるのだということ。その大きな幸いが、ここで示されているのです。
 今、この御言葉の光に照らされて、私達は新たに歩み出す者とされています。マリアたちは、絶望を象徴した墓に背を向け、この喜びを他の人々と共に分かち合うために、そして、何よりもキリストと出会うために立ち上がり、走り出します。この招きに応えるために、墓に背を向けて走り出すのです。前を向いて歩み出すのです。
 しかし、忘れてはいけません。私達がキリストを捜すのではなく、キリスト御自身が、実は、私達と出会ってくださるのだということです。そして、主は次のように声をかけられます。「おはよう」と。この「おはよう」という言葉は、「喜んでもいいのだよ」という意味です。絶望だけに向かった人生は終わったのだよ。もうこれ以上悲しむことはないのだよ。死が辛く悲しいことは、私が誰よりも知っているよ。だけど、もう悲しまなくてもよい。ここに死を越えた命がある。だから、もう苦しまなくても良い。喜んで良いのだ。そのようにキリストは、私達がキリストを見いだすよりも早く私達と出会ってくださり、御言葉を与えてくださる。
 私達にとって「死」はやはり苦しいものです。悲しいものです。そして、それは簡単に乗り越えられるものではなく、また、楽観的に乗り越えることが本当に良いことなのかとも思います。いや、人間の力だけでは、その現実から立ち上がれないのが事実です。だから、素直に悲しんで良いと思います。辛く、嘆いてもよいと思います。墓の前で動けなくても良いでしょう。でも、ぜひ、心に留めていてください。そのような絶望の中でこそ、神様が生きて働き、復活のキリストを指し示し続けて下さるのです。そして、今も、その復活のキリストは、一人一人を招き、待ち続けてくださるのです。私達が立ち上がり、墓に背を向け、ただ希望へと走り出せるそのときまで、待ち続けていてくださるのです。
 そして、私達が前を向いて走り出した、その所でこそ主イエス・キリストの側から私達を見いだし、喜んでも良いのだ、もう悲しむことはないのだと声をかけて下さる。その幸いに改めて心を向けていくものでありたいと思います。

posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:50| 日記