2022年04月23日

2022年5月1日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:創世記1章24節〜31節
説教:「人間の創造と祝福」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:使徒言行録13章1節〜12節
説教:「聖霊によって」須賀 工牧師

感染予防対策をした上で、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:52| 日記

2022年4月24日 主日礼拝説教「審きの時、救いの時」須賀 工牧師

聖書:ヨハネによる福音書7章1節〜9節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、ヨハネによる福音書7章1節から9節の御言葉です。改めて、1節の御言葉をお読みします。「その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった」。
 今朝の御言葉は、「その後」という言葉。この言葉から始まります。それでは、「その後」とは、一体、「どの後」のことなのでしょうか。主イエス・キリストは、今まで、何を行ってきたでしょうか。あるいは、主イエス・キリストは、一体、何を語ってこられたのでしょうか。そして、そのことによって、何が起きたのでしょうか。まずは、そのところから、簡単に、振り返ってみたいと思います。
まず、主イエス・キリストは、「五つのパンと二匹の魚」で、五千人を満腹にしました。いわゆる、「五千人の給食」。そのように呼ばれた奇跡が、行われたわけでありますこのことを通して、主イエス・キリストが、私達の命を養って下さる。そのような救い主なのだ、ということ。そのことが、ここで強く示されたわけであります。
 そして、その奇跡の後、主イエス・キリストは、ある御言葉を語られました。それは、主イエス・キリストこそが、「天からの真のパン」である、ということです。そして、そのキリストを食べること−あるいは、そのキリストと一つとされること−で、「永遠の命」が与えられるのだ、ということ。そのことが、力強く語られたわけであります。
 つまり、主イエス・キリストは、ただ、腹を満たして下さる救い主というだけではなく、キリストそのものの命を与え、私達を永遠に養って下さる。そのような救い主なのだ、ということ。そのことを、御言葉をもって、証ししてくださったのであります。
 これは、ただイエス・キリストが、救い主であるということ。それ以上の驚きです。即ち、主イエス・キリストは、ここで、同時に、「私は真の神なのだ」ということ。そのことも証ししていることになります。なぜでしょうか。神様だけが、永遠の命を与える権威を持っているからであります。
 さて、この主イエス・キリストの発言によって、一体、何が起きたのでしょうか。ある人たちは躓きました。ある人たちは、離れ去って行きました。ある人たちは、敵意や殺意を抱き、反発をしました。一部の弟子たちは、残りましたが、多くの人が、主イエス・キリストを、真の救い主と信じ、受け入れることができなかったのです。
 人間の関心は、腹を満たす救い主であって、永遠の命を保証する救い主ではなかった。あるいは、人間の関心は、私達の生活に安心を保証する救い主であって、永遠の命を保証する救い主ではなかったのだ、ということ。あるいは、人間の関心は、力ある英雄としての救い主であって、真の神と称する救い主ではなかったのだ、ということ。そのことが、ここからよく表されているのであります。いずれにせよ、今朝の御言葉は、そのような悲しい出来事を踏まえて、書き始められているのであります。
 今朝の御言葉によると、主イエス・キリストは、ユダヤ人に命を狙われていたようであります。そして、主イエス・キリストは、まるで、そのユダヤ人の殺意から逃げ回っているかのような印象を受けるかもしれません。
 しかし、果たして、それは真実でしょうか。それは、違います。それでは、なぜ、主イエス・キリストは、ユダヤを巡らなかったのでしょうか。あるいは、なぜ、主イエス・キリストは、ユダヤの中心エルサレムに、行かなかったのでしょうか。
 答えは一つです。まだ、「主の時」が、来ていなかったからであります。つまり、主イエス・キリストが、本当に死ななければいけないのは、「この時」ではないのだ、ということです。要するに、主イエス・キリストの死、キリストの贖い、あるいは、私達の救いは、人間の計画や思惑によって、実現したのでなく、あくまでも、神様の救いの御心、神様のタイミング、神様の御計画によって成就したのだ、ということ。そのことが、この一文から、既に、強く示唆されているのです。
 そのことを踏まえた上で、改めて、2節から5節の御言葉をお読みします。「ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。イエスの兄弟たちが言った。『ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動する人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。』兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである」。
主イエス・キリストの兄弟たちは、主イエス・キリストに、ユダヤ行きを勧めます。なぜでしょうか。仮庵祭が、近づいていたからです。仮庵祭は、過越祭に並んで、一番、エルサレムへ巡礼する者が多いお祭りです。
 兄弟たちの思いは、どのようなものだったのでしょうか。自分の兄がアピールをするのに良いと思ったのでしょうか。去って行った弟子たちを取り戻すチャンスだと思ったのでしょうか。
実は、違います。兄弟たちは、このように言うのです。「こういうことをしているからには」と。この言葉には、明らかに、悪意を感じます。つまり、主イエスの兄弟たちの発言は、主イエス・キリストのためを思った発言ではなく、主イエス・キリストに出て行ってもらいたい。そういう思いから出た言葉だったのであります。その言葉を裏付ける仕方で、最後に、こう記されています。「兄弟たちも、イエスを信じていなかった」と。
 主イエス・キリストの一番近くにいて、共に、生活をし、労苦を分かち合った家族ですらも、主イエス・キリストを救い主として、真の神として、受け入れることが出来なかった。最も身近な人々ですら、主イエス・キリストを受け入れることができないのであるならば、群衆が、あるいは、私達が、自らの力で、自らの感情や思いで、キリストを受け入れることは出来るはずないのです。
 主イエス・キリストは、今まで、何もしてこなかったわけではありません。ガリラヤでは、五千人の腹を満たしました。エルサレムの中でも沢山の奇跡を行いました。しかし、結局、誰一人として、家族ですら、主イエスを、真の救い主、真の神と受け入れる人はいなかった。正しく、主イエス・キリストを見つめることはできなかったのです。その意味で、主イエス・キリストの働きは、人の目に「ベールで隠された」ものとなってしまったのであります。
 6節から9節の御言葉をお読みします。「そこで、イエスは言われた。『わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。』こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた」。
 なぜ、群衆は、主イエス・キリストを受け入れられないのでしょうか。なぜ、一番、身近な家族ですら、主イエス・キリストを受け入れられないのでしょうか。
 それは、「世はあなた方を憎むことができない」からです。世が、私達を憎めない。それほどまでに、私達は、「神」にではなく、「この世」に属しているからなのであります。この世と仲良しだからです。言い換えるならば、罪に属しているからです。神から離れているからであります。いつでも、罪に落ちる時は、私達の近くで、備えられているのです。
 主イエス・キリストは、「わたしの時はまだ来ていない」と仰せになりました。つまり、その時は、「必ず来る」ということであります。私達の目には、もう隠された救いが、明らかにされる時が、必ず来るのだ、ということであります。
 さて、少し、飛びまして、ヨハネによる福音書13章1節以下の御言葉をお読みします。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時がきたことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。
 この聖句は、主イエス・キリストが逮捕され、弟子たちに裏切られ、十字架に架けられる直前の聖句です。
 群衆は、主イエス・キリストを受け入れることができませんでした。主の家族も、主イエス・キリストを受け入れることが出来ませんでした。しかし、実は、主イエス・キリストの下に留まった。そのような人たちもいたのです。それが、主が選ばれた弟子たちだったわけです。十二人の弟子たちだけは、主イエスの下に留まったのであります。
 しかし、この弟子たちですらも、この後、主イエス・キリストを見捨てて、逃げてしまいます。群衆ですらも、家族ですらも、選んだ弟子ですらも、主イエス・キリストから離れて行く。もう人間の側には、救いの余地はないのです。
 しかし、このような人間の不可能性の中で、それでも、主イエス・キリストは、愛することを貫かれたのであります。その愛の先に、十字架の死と復活がある。これが、真の救い主における、救いの「時」なのであります。神様が、備えてくださり、主が「必ず来る」と約束してくださった「救いの時」なのであります。
人間の不信仰、人間の罪を、主が身代わりとなって負って下さった。そして、赦しと永遠の命をもたらしてくださった。あのキリストの言葉、誰もが受け入れられなかった、あの言葉が、この瞬間に成就したのだ、ということなのであります。
 私達人間は、御言葉を聞くだけでは、主イエス・キリストを受け入れることはできないかもしれません。あるいは、数々の奇跡を目撃したところで、正しく主を信じることはできない。人間の側には、救いを知る可能性はないと言えます。
 しかし、復活の主は、赦しと愛を持って、再び、弟子たちと出会ってくださいました。そして、復活の主は、弟子たちに聖霊を与え、赦しの権能を授け、彼らを遣わしました。そして、今や、教会を立てて下さった。
 私達もまた、教会を通して、復活の主と出会い、その赦しと愛を知ることができる。真の救いが何であるか。主御自身が教えてくださる。
私達もまた、信じることにおいて足らずものであるかもしれない。しかし、その私達に対しても、復活の主は、教会を通して、出会って下さる。私達の心を聖霊で満たし、私達の心に触れていて下さる。そして、あの十字架の内に、あなたの真の救いがあり、真の永遠の命、永遠の養いがある。そのことを、教会を通して、礼拝を通して、今も、指し示し続けて下さる。私達の目に隠されている救いの真理も、主が、そのベールを取り除き、真の栄光を見る者としてくださる。その幸いに心を馳せつつ、新たに、主を賛美する生活へと、歩みを進めて参りたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:34| 日記