聖書:ヨハネによる福音書7章25節〜36節、イザヤ書12章1節〜6節
説教:「イエスの由来」須賀舞副牧師
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皆様の上に、神様の祝福が豊かにありますように、心よりお祈り申し上げます。
2022年05月29日
2022年5月29日 主日礼拝説教音声「イエスの由来」須賀舞副牧師
posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:15| 日記
2022年05月26日
2022年6月5日 礼拝予告
〇教会学校 9時15分〜
聖書:創世記11章1節〜9節
説教:「バベルの塔とペンテコステ」
〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:使徒言行録14章8節〜18節
説教:「喜びで心を満たす神」須賀 工牧師
感染予防対策をした上で、礼拝を捧げています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
聖書:創世記11章1節〜9節
説教:「バベルの塔とペンテコステ」
〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:使徒言行録14章8節〜18節
説教:「喜びで心を満たす神」須賀 工牧師
感染予防対策をした上で、礼拝を捧げています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:59| 日記
2022年5月29日 主日礼拝説教「イエスの由来」須賀 舞副牧師
聖書:ヨハネによる福音書7章25節〜36節、イザヤ書12章1節〜6節
本日私たちに与えられた御言葉は、ヨハネによる福音書7:25-36です。
ヨハネによる福音書の一つの命題は「イエスとは一体誰なのか?」ということであります。そして、主イエスは、御自分が一体誰によって遣わされ、どのような存在としてこの世におられるのかを繰り返し説明して来られました。ヨハネによる福音書はその主イエスの言葉をはっきりと、しかも何度も記しています。
聖書は、一体、イエスというお方を何と言っているのでしょうか。イエスというお方は一体誰なのか?それは、2000年前のイスラエル、イエス様の時代の人々にとっても大きな関心事でした。少し本日の箇所について状況を説明しますと、イエス様はガリラヤ地方とエルサレムを行き来しながら伝道活動を行っていました。
聖書は、イエス様を取り巻く人々の中に、「群衆」と呼ばれる人々がいた事を伝えます。その「群衆」について、本日の御言葉の少し前の箇所、ヨハネによる福音書7:12ではこのように伝えています。「群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。」彼らには、イエス様が伝道活動の中でなされた数々の奇跡の業を見て、イエス様こそ聖書(旧約聖書)にかねてから預言されてきた救い主、メシアであるかもしれないという期待がありました。しかし、イエス様が安息日に病人を癒すなどの安息日の掟を守らない様子や、自分が神の子であるという発言を見聞きするにつれて、群衆の中には、次第にイエス様が神を冒涜するような事を平気で言って民衆を扇動しようとする危険な存在だと考える人も出てきていたのです。
また、ヨハネによる福音書は、イエス様に対して敵意を持つ人を総じて「ユダヤ人」と呼んでいます。一般的に「ユダヤ人」というとイエス様も弟子たちも群衆もユダヤ人に当てはまりますが、ヨハネによる福音書が「ユダヤ人」と言う時には、それは、最高法院の議員、ファリサイ派、祭司長などのユダヤの宗教者や指導者層に属する人々を指します。本日の箇所にも、イエス様に敵意を抱く存在として、「ファリサイ派」と「祭司長」が登場します。イエス様は、この時既にこれらの「ユダヤ人」たちから、神を冒涜していると激しい批判を受け、命を狙われるような状況にありました。
本日の御言葉の冒頭25節には、このようなイエス様を取り巻く「群衆」や「ユダヤ人」たちの様々な思いが滲み出ています。「さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。」時は、ユダヤ人の大きな祭の一つである仮庵祭。エルサレムにはイスラエル全土から祭りの祝いのために多くの人が集まっていました。7:14以下では、この時、イエス様が神殿の境内で人々に公然と教えを語ったことが記されています。エルサレムには、イエス様に好意をいだく者、反対に疑う者、更には殺害の計画を企てる者たちが入り乱れていました。そのような人々をひっくるめて、本日の箇所は、「エルサレムの人々」と呼びます。
イエス様がユダヤ人の指導者たちから命を狙われていたことはそこにいたほとんどの人たちに知れ渡っていました。ユダヤ人たちは、イエス様をいつ捕らえてやろうかと見計らっていました。すぐにでも捕まえたいと思う反面、イエス様がたくさんの奇跡を行ったことも知れ渡っていたので、簡単に捕らえることもできずにいたのです。
そんなユダヤ人たちの思いとは裏腹に、それ以外の人々は、境内で堂々と教えているイエス様、そして、ユダヤ人の指導者たちが誰もイエス様を捕まえずにただ見ている様子に戸惑っていました。 宗教的指導者や政治的指導者がイエス様をメシアであると認定することには大きな意味があります。ひょっとしたらユダヤ人の指導者たちも、イエスをメシア、救い主であると認め始めたんじゃないだろうか。そう人々は考えていたのです。
けれども、仮にイエス様がメシアであるとしても、人々はそれでも信じ切ることはできませんでした。信じないどころか、むしろ、もっともっといろんな疑問が湧いてきたのです。人々はこう言います。「しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ(7:27)。」これは、明らかにイエス様がメシアであるということを疑う言葉でありましょう。
イエス様は、ガリラヤのナザレの出身だと言うことも多くの人が知っていました。父は大工のヨセフ、母はマリア。もし、このイエスという人がメシアであるならば、そのような普通の人と変わらない素性のはずがない。しかも、ガリラヤ地方は、エルサレムの人たちにとっては、サマリアをさらに超えたところ、いわば僻地にあります。しかも、ナザレは小さな無名の村でした。ヨハネによる福音書1:46にもイエス様の弟子となったナタナエルが最初はイエス様のことを疑って、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったことが記されています。また人々は、自分達が待ち望んできた救い主について、どこか神秘的なイメージを持っていたのかもしれません。だから「メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ(7:27)」と言うのです。
彼らは、一種のメシア像を自分たちの枠の中で作り上げていました。救い主を、自分の想像や期待に応える存在として考えていました。これは、何も当時の人々だけに言えることではありません。私たちは、神様を自分の思いのままになる存在として考えてはいないでしょうか。自分の思いや願いを叶えてくれる存在、聞いてくれる存在として無意識に自分達の願いばかりを祈ってはいないでしょうか。神様を信じるということは、神様の正しさを信じるということです。けれども、神様が正しさを持ってなされる事柄は、必ずしも私たちの思いと同じというわけではありません。ですから、願いが叶うと神様を信じるけれども、願いが叶わなかった時、理不尽なことに遭遇した時、私は神様に何故と問うてしまう。神などいないのかと思ってしまう。このようなことはよく聞く話です。エルサレムの人々にも、こんな救い主にきてほしいという自分達の思いがありました。しかし、目の前のイエス様はそれとはフィットしない、だから疑ったのです。
また、私たちが信仰において注意すべきは、神様を私たちの感覚によってイメージしていないかということです。神様を唯一証しするのは聖書だけです。そして、聖書には、主イエス・キリストの福音が示されています。ここを外れて、神様はこんなお方だろう、神様はあんなことなさらないはずだなどと、私たちは神様を自分勝手に創り上げてはいないでしょうか。神様をよく知るには聖書を読むことが何よりも大切なのです。
話を本日の箇所に戻したいと思いますが、イエス様は、このようなエルサレムの人々のザワつきに対して、突然、大声でこのように言われます。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである(7:28-29)。」
「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。」確かに、人々は、イエス様がガリラヤのナザレの出身であり、イエス様の家族などについても知っていました。しかし、イエス様は、人々に、あなたたちは、わたしのことを確かに知っている、しかし、それは本当にわたしのことを知っていると言えるのか、と指摘するのです。人々が知っていると思っているのは、完全に知っているということとは違うのです。たとえ、イエス様についてたくさんの知識や情報を持っていたとしても、肝心のイエス様が自分にとってどのような存在であるかを知らないのです。
ここに、ヨハネによる福音書が繰り返し掲げる命題「イエスとは一体誰なのか?」という問いが再び登場することになります。イエス様は、その答えは「わたしをお遣わしになった方」を知るところにあると言われます。そして、イエス様を遣わしたお方こそ、父なる神様であるのです。ヨハネによる福音書3章16節には、なぜ父なる神様がイエス様をこの世に遣わされたのかが記されています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」父なる神がこの恵みの御心によって独り子主イエスを遣わして下さったことを知り、信じることによってこそ、私たちは主イエス・キリストを正しく知ることができるのです。そして、このことによってわたしたちは、イエス様こそこのわたしのメシア、わたしの救い主であることが分かるのです。
ところで、本日の箇所には、人々が何度もイエス様を捕らえようとしたことが記されます。30節には、「人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。」とありますし、32節にも「ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。」とあります。2度も捕らえようとしたのに、手が下されることはなかったのです。どうしてイエス様は逃げ切れたのでしょうか。するりするりと追手の合間をすり抜けたのでしょうか。聖書は、イエス様が何度も捕えられようとしても大丈夫であった本当の理由をこのように説明します。「イエスの時はまだ来ていなかったからである(7:30)。」「イエスの時」の「時」とは、単なる時間の流れではありません。神様が定めた「時」ということです。神様がそのご計画のもとに、あらかじめ決めておられる時がある。それが、「イエスの時」であるのです。具体的には、何を指し示しているのでしょう。それは、イエス様の十字架です。神様は、イエス様の十字架の死と復活を通して救いの御業を遂行なされました。それは、天地創造の初めから神様が定められた時であったのです。その時は、この時点ではまだきていませんでした。だから、イエス様は捕えられることがなかったのです。
また、イエス様御自身も、イエス様の時についてこのように言われます。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない(7:33-34)。」これを聞いたユダヤ人たちは、まったく意味がわからない、イエス様は何を言っているんだろう?そう思いました。本当に謎しか残らなかったのでしょう。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか(7:35-36)」と彼らは互いに言いました。とりあえずイエス様が、今しばらくしたら自分はどこかへ行くと言うことだけは彼らにも分かったのでしょう。それが探しても見つけることができない場所、自分達が行こうとしても行けないような場所だということも理解しました。けれども、それがどこなのかは全く見当がつかなかったのです。彼らは、イエス様は世界のあちこちに離散しているユダヤ人のところに行ってギリシア人に伝道をするのだろうかと考えたようですが、それも全く頓珍漢な考えでした。
勿論、ここでイエス様が言われるのは、ギリシア人のところに伝道に行くということではありません。イエス様は、「自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」と言われました。これは父なる神様のもとから遣わされて来たイエス様が、父なる神様のもとへと帰られるという意味です。そしてそれは、主イエス・キリストの十字架の死と復活、そして、昇天において起こるのです。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる」とは、イエス様はまだしばらくの間、人々の間で教えを語り、奇跡を行い、父なる神から遣わされた使命を果たしていかれるということです。そして父なる神が定めておられる「イエスの時」が来たなら、十字架の死へと向かわれるのです。今はまだその時ではありません。だからその時が来るまでは、ファリサイ派や祭司長たちがどんなに腹を立ててイエスを捕えようとしても、そのことは実現しないのです。
ここで一番大切なことは、イエス様の十字架は、ファリサイ派や祭司長たちといった人間の思いによって起るのではないということです。イエス様の十字架は、ただひとえに父なる神様のご計画によって、父なる神様が成し遂げられるのです。
まとめにはいっていきたいと思います。私たちは、今朝、ヨハネによる福音書が繰り返し語る「イエスとは一体誰なのか?」ということについて聖書に聞いてきました。エルサレムの人々は、イエス様が本当にメシアなのかと話し合っていました。けれども、誰もが、自分勝手なメシア像を、自分の期待や、感覚、イメージに沿って思い描いていました。そして、それにイエス様を当てはめて、イエス様が自分のメシアとしてふさわしい者か、フィットする者かを吟味していたのです。
今朝、わたしたちには、「わたしたちにとってイエス様とは一体どのような存在であるか。」という問いが与えられています。その問いにシンプルに答えるとするならば、その答えは「聖書」に書かれているということです。聖書は、徹頭徹尾、神様と人間との断絶を語り、その断絶の責任は全て人間の側にある、人間の罪の責任であるといいます。神様がどんなに人間を愛していたとしても、人間は神様に背き、その愛から離れていってしまうのです。ユダヤ人たちは聖書(旧約聖書)を一生懸命読み、神様を知っていると自負していました。けれども、聖書(旧約聖書)に預言されている神様の御子イエス様を全く理解しませんでした。イエス様に「あなたたちは、わたしを探しても、見つけることができない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることが出来ない。」と言われてしまうほどにその関係の破れ、断絶した溝は深かったのです。「イエスの時」がくれば、イエス様は、このユダヤ人たちに捕えられ、殺されます。イエスを知らないと言う者がイエス様を殺すのです。信じますといいながら、自分勝手な信仰を持つ者がイエス様を見捨てるのです。イエス様を殺す者は、神様をも殺すと言うことです。けれども、神様は、神様御自身を殺すまでに罪深いこの人々を決して見捨てることはありませんでした。痛み苦しみの全てを味わい尽くされ、死の極み、陰府の淵へと落ちてゆかれてもなお、御自分を殺した者たちを赦されたのです。
今朝の御言葉に示される、エルサレムの人々やユダヤ人たちが犯した罪、神様を信じずに自分勝手な信仰に生きてしまうという罪は、わたしたちの罪でもあります。その意味においては、わたしたちも、2000年前あのゴルゴタの丘で、イエス様を十字架につけて殺したのです。
しかし、わたしたちが見上げる十字架、もう、この十字架にはイエス様はいません。イエス様は、蘇られたからです。復活なさった。だから、イエス様は今、この時も生きておられます。そして、生きておられる神、わたしたちの主イエス・キリストは、今、この時、わたしたちがイエス様の方へと向き直る時、「大丈夫だよ、いいんだよ、あなたを愛しているよ。」と言って、私たちを力いっぱい抱きしめてくださるのです。
イエス様は、確かにこのわたしたちを愛してくださっています。わたしにとって、イエス様とは、命を捨ててまでわたしたちを愛してくださる存在である、このことを受け入れたい、この福音に活かされてこの一週間も歩んで参りたいと願います。
本日私たちに与えられた御言葉は、ヨハネによる福音書7:25-36です。
ヨハネによる福音書の一つの命題は「イエスとは一体誰なのか?」ということであります。そして、主イエスは、御自分が一体誰によって遣わされ、どのような存在としてこの世におられるのかを繰り返し説明して来られました。ヨハネによる福音書はその主イエスの言葉をはっきりと、しかも何度も記しています。
聖書は、一体、イエスというお方を何と言っているのでしょうか。イエスというお方は一体誰なのか?それは、2000年前のイスラエル、イエス様の時代の人々にとっても大きな関心事でした。少し本日の箇所について状況を説明しますと、イエス様はガリラヤ地方とエルサレムを行き来しながら伝道活動を行っていました。
聖書は、イエス様を取り巻く人々の中に、「群衆」と呼ばれる人々がいた事を伝えます。その「群衆」について、本日の御言葉の少し前の箇所、ヨハネによる福音書7:12ではこのように伝えています。「群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。」彼らには、イエス様が伝道活動の中でなされた数々の奇跡の業を見て、イエス様こそ聖書(旧約聖書)にかねてから預言されてきた救い主、メシアであるかもしれないという期待がありました。しかし、イエス様が安息日に病人を癒すなどの安息日の掟を守らない様子や、自分が神の子であるという発言を見聞きするにつれて、群衆の中には、次第にイエス様が神を冒涜するような事を平気で言って民衆を扇動しようとする危険な存在だと考える人も出てきていたのです。
また、ヨハネによる福音書は、イエス様に対して敵意を持つ人を総じて「ユダヤ人」と呼んでいます。一般的に「ユダヤ人」というとイエス様も弟子たちも群衆もユダヤ人に当てはまりますが、ヨハネによる福音書が「ユダヤ人」と言う時には、それは、最高法院の議員、ファリサイ派、祭司長などのユダヤの宗教者や指導者層に属する人々を指します。本日の箇所にも、イエス様に敵意を抱く存在として、「ファリサイ派」と「祭司長」が登場します。イエス様は、この時既にこれらの「ユダヤ人」たちから、神を冒涜していると激しい批判を受け、命を狙われるような状況にありました。
本日の御言葉の冒頭25節には、このようなイエス様を取り巻く「群衆」や「ユダヤ人」たちの様々な思いが滲み出ています。「さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。」時は、ユダヤ人の大きな祭の一つである仮庵祭。エルサレムにはイスラエル全土から祭りの祝いのために多くの人が集まっていました。7:14以下では、この時、イエス様が神殿の境内で人々に公然と教えを語ったことが記されています。エルサレムには、イエス様に好意をいだく者、反対に疑う者、更には殺害の計画を企てる者たちが入り乱れていました。そのような人々をひっくるめて、本日の箇所は、「エルサレムの人々」と呼びます。
イエス様がユダヤ人の指導者たちから命を狙われていたことはそこにいたほとんどの人たちに知れ渡っていました。ユダヤ人たちは、イエス様をいつ捕らえてやろうかと見計らっていました。すぐにでも捕まえたいと思う反面、イエス様がたくさんの奇跡を行ったことも知れ渡っていたので、簡単に捕らえることもできずにいたのです。
そんなユダヤ人たちの思いとは裏腹に、それ以外の人々は、境内で堂々と教えているイエス様、そして、ユダヤ人の指導者たちが誰もイエス様を捕まえずにただ見ている様子に戸惑っていました。 宗教的指導者や政治的指導者がイエス様をメシアであると認定することには大きな意味があります。ひょっとしたらユダヤ人の指導者たちも、イエスをメシア、救い主であると認め始めたんじゃないだろうか。そう人々は考えていたのです。
けれども、仮にイエス様がメシアであるとしても、人々はそれでも信じ切ることはできませんでした。信じないどころか、むしろ、もっともっといろんな疑問が湧いてきたのです。人々はこう言います。「しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ(7:27)。」これは、明らかにイエス様がメシアであるということを疑う言葉でありましょう。
イエス様は、ガリラヤのナザレの出身だと言うことも多くの人が知っていました。父は大工のヨセフ、母はマリア。もし、このイエスという人がメシアであるならば、そのような普通の人と変わらない素性のはずがない。しかも、ガリラヤ地方は、エルサレムの人たちにとっては、サマリアをさらに超えたところ、いわば僻地にあります。しかも、ナザレは小さな無名の村でした。ヨハネによる福音書1:46にもイエス様の弟子となったナタナエルが最初はイエス様のことを疑って、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったことが記されています。また人々は、自分達が待ち望んできた救い主について、どこか神秘的なイメージを持っていたのかもしれません。だから「メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ(7:27)」と言うのです。
彼らは、一種のメシア像を自分たちの枠の中で作り上げていました。救い主を、自分の想像や期待に応える存在として考えていました。これは、何も当時の人々だけに言えることではありません。私たちは、神様を自分の思いのままになる存在として考えてはいないでしょうか。自分の思いや願いを叶えてくれる存在、聞いてくれる存在として無意識に自分達の願いばかりを祈ってはいないでしょうか。神様を信じるということは、神様の正しさを信じるということです。けれども、神様が正しさを持ってなされる事柄は、必ずしも私たちの思いと同じというわけではありません。ですから、願いが叶うと神様を信じるけれども、願いが叶わなかった時、理不尽なことに遭遇した時、私は神様に何故と問うてしまう。神などいないのかと思ってしまう。このようなことはよく聞く話です。エルサレムの人々にも、こんな救い主にきてほしいという自分達の思いがありました。しかし、目の前のイエス様はそれとはフィットしない、だから疑ったのです。
また、私たちが信仰において注意すべきは、神様を私たちの感覚によってイメージしていないかということです。神様を唯一証しするのは聖書だけです。そして、聖書には、主イエス・キリストの福音が示されています。ここを外れて、神様はこんなお方だろう、神様はあんなことなさらないはずだなどと、私たちは神様を自分勝手に創り上げてはいないでしょうか。神様をよく知るには聖書を読むことが何よりも大切なのです。
話を本日の箇所に戻したいと思いますが、イエス様は、このようなエルサレムの人々のザワつきに対して、突然、大声でこのように言われます。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである(7:28-29)。」
「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。」確かに、人々は、イエス様がガリラヤのナザレの出身であり、イエス様の家族などについても知っていました。しかし、イエス様は、人々に、あなたたちは、わたしのことを確かに知っている、しかし、それは本当にわたしのことを知っていると言えるのか、と指摘するのです。人々が知っていると思っているのは、完全に知っているということとは違うのです。たとえ、イエス様についてたくさんの知識や情報を持っていたとしても、肝心のイエス様が自分にとってどのような存在であるかを知らないのです。
ここに、ヨハネによる福音書が繰り返し掲げる命題「イエスとは一体誰なのか?」という問いが再び登場することになります。イエス様は、その答えは「わたしをお遣わしになった方」を知るところにあると言われます。そして、イエス様を遣わしたお方こそ、父なる神様であるのです。ヨハネによる福音書3章16節には、なぜ父なる神様がイエス様をこの世に遣わされたのかが記されています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」父なる神がこの恵みの御心によって独り子主イエスを遣わして下さったことを知り、信じることによってこそ、私たちは主イエス・キリストを正しく知ることができるのです。そして、このことによってわたしたちは、イエス様こそこのわたしのメシア、わたしの救い主であることが分かるのです。
ところで、本日の箇所には、人々が何度もイエス様を捕らえようとしたことが記されます。30節には、「人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。」とありますし、32節にも「ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。」とあります。2度も捕らえようとしたのに、手が下されることはなかったのです。どうしてイエス様は逃げ切れたのでしょうか。するりするりと追手の合間をすり抜けたのでしょうか。聖書は、イエス様が何度も捕えられようとしても大丈夫であった本当の理由をこのように説明します。「イエスの時はまだ来ていなかったからである(7:30)。」「イエスの時」の「時」とは、単なる時間の流れではありません。神様が定めた「時」ということです。神様がそのご計画のもとに、あらかじめ決めておられる時がある。それが、「イエスの時」であるのです。具体的には、何を指し示しているのでしょう。それは、イエス様の十字架です。神様は、イエス様の十字架の死と復活を通して救いの御業を遂行なされました。それは、天地創造の初めから神様が定められた時であったのです。その時は、この時点ではまだきていませんでした。だから、イエス様は捕えられることがなかったのです。
また、イエス様御自身も、イエス様の時についてこのように言われます。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない(7:33-34)。」これを聞いたユダヤ人たちは、まったく意味がわからない、イエス様は何を言っているんだろう?そう思いました。本当に謎しか残らなかったのでしょう。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか(7:35-36)」と彼らは互いに言いました。とりあえずイエス様が、今しばらくしたら自分はどこかへ行くと言うことだけは彼らにも分かったのでしょう。それが探しても見つけることができない場所、自分達が行こうとしても行けないような場所だということも理解しました。けれども、それがどこなのかは全く見当がつかなかったのです。彼らは、イエス様は世界のあちこちに離散しているユダヤ人のところに行ってギリシア人に伝道をするのだろうかと考えたようですが、それも全く頓珍漢な考えでした。
勿論、ここでイエス様が言われるのは、ギリシア人のところに伝道に行くということではありません。イエス様は、「自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」と言われました。これは父なる神様のもとから遣わされて来たイエス様が、父なる神様のもとへと帰られるという意味です。そしてそれは、主イエス・キリストの十字架の死と復活、そして、昇天において起こるのです。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる」とは、イエス様はまだしばらくの間、人々の間で教えを語り、奇跡を行い、父なる神から遣わされた使命を果たしていかれるということです。そして父なる神が定めておられる「イエスの時」が来たなら、十字架の死へと向かわれるのです。今はまだその時ではありません。だからその時が来るまでは、ファリサイ派や祭司長たちがどんなに腹を立ててイエスを捕えようとしても、そのことは実現しないのです。
ここで一番大切なことは、イエス様の十字架は、ファリサイ派や祭司長たちといった人間の思いによって起るのではないということです。イエス様の十字架は、ただひとえに父なる神様のご計画によって、父なる神様が成し遂げられるのです。
まとめにはいっていきたいと思います。私たちは、今朝、ヨハネによる福音書が繰り返し語る「イエスとは一体誰なのか?」ということについて聖書に聞いてきました。エルサレムの人々は、イエス様が本当にメシアなのかと話し合っていました。けれども、誰もが、自分勝手なメシア像を、自分の期待や、感覚、イメージに沿って思い描いていました。そして、それにイエス様を当てはめて、イエス様が自分のメシアとしてふさわしい者か、フィットする者かを吟味していたのです。
今朝、わたしたちには、「わたしたちにとってイエス様とは一体どのような存在であるか。」という問いが与えられています。その問いにシンプルに答えるとするならば、その答えは「聖書」に書かれているということです。聖書は、徹頭徹尾、神様と人間との断絶を語り、その断絶の責任は全て人間の側にある、人間の罪の責任であるといいます。神様がどんなに人間を愛していたとしても、人間は神様に背き、その愛から離れていってしまうのです。ユダヤ人たちは聖書(旧約聖書)を一生懸命読み、神様を知っていると自負していました。けれども、聖書(旧約聖書)に預言されている神様の御子イエス様を全く理解しませんでした。イエス様に「あなたたちは、わたしを探しても、見つけることができない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることが出来ない。」と言われてしまうほどにその関係の破れ、断絶した溝は深かったのです。「イエスの時」がくれば、イエス様は、このユダヤ人たちに捕えられ、殺されます。イエスを知らないと言う者がイエス様を殺すのです。信じますといいながら、自分勝手な信仰を持つ者がイエス様を見捨てるのです。イエス様を殺す者は、神様をも殺すと言うことです。けれども、神様は、神様御自身を殺すまでに罪深いこの人々を決して見捨てることはありませんでした。痛み苦しみの全てを味わい尽くされ、死の極み、陰府の淵へと落ちてゆかれてもなお、御自分を殺した者たちを赦されたのです。
今朝の御言葉に示される、エルサレムの人々やユダヤ人たちが犯した罪、神様を信じずに自分勝手な信仰に生きてしまうという罪は、わたしたちの罪でもあります。その意味においては、わたしたちも、2000年前あのゴルゴタの丘で、イエス様を十字架につけて殺したのです。
しかし、わたしたちが見上げる十字架、もう、この十字架にはイエス様はいません。イエス様は、蘇られたからです。復活なさった。だから、イエス様は今、この時も生きておられます。そして、生きておられる神、わたしたちの主イエス・キリストは、今、この時、わたしたちがイエス様の方へと向き直る時、「大丈夫だよ、いいんだよ、あなたを愛しているよ。」と言って、私たちを力いっぱい抱きしめてくださるのです。
イエス様は、確かにこのわたしたちを愛してくださっています。わたしにとって、イエス様とは、命を捨ててまでわたしたちを愛してくださる存在である、このことを受け入れたい、この福音に活かされてこの一週間も歩んで参りたいと願います。
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