聖書:使徒言行録14章1節〜7節、詩編146篇1節〜10節
説教:「生ける神に立ち帰る」須賀 工牧師
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今週も、神様の祝福が豊かにありますように、心よりお祈り申し上げます。
2022年05月23日
2022年5月22日 主日礼拝説教音声「生ける神に立ち帰る」須賀 工牧師
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:30| 日記
2022年05月22日
2022年5月29日 礼拝予告
〇教会学校 9時15分〜
聖書:創世記9章9節〜17節
説教:「ノアと虹の契約」
〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:ヨハネによる福音書7章25節〜36節
説教:「イエスの由来」須賀 舞副牧師
感染予防対策をした上で、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
聖書:創世記9章9節〜17節
説教:「ノアと虹の契約」
〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:ヨハネによる福音書7章25節〜36節
説教:「イエスの由来」須賀 舞副牧師
感染予防対策をした上で、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 03:37| 日記
2022年5月22日 主日礼拝説教「生ける神に立ち帰る」須賀 工牧師
聖書:使徒言行録14章1節〜7節、詩編146篇1節〜10節
今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録14章1節〜7節の御言葉です。1節から2節の御言葉をお読みします。「イコニオンでも同じように、パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話をしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を煽動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた」。
「イコニオン」における、パウロとバルナバの伝道が、始まりました。聖書によると、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が、信仰に入ったようです。
しかしまた、一方で、ユダヤ人による妨害もありました。聖書によると、「異邦人を煽動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた」とあります。要するに、ユダヤ人たちは、パウロたちの悪口を言い広め、評判を落とそうとしたわけであります。
さて、ここに出てくるユダヤ人とは、恐らく「外国で育ったユダヤ人」のことです。その意味で、パウロやバルナバと同じありました。
外国で育ったユダヤ人には、ある種のコンプレックスがありました。それは、自分たちが「本国のユダヤ人」ではない、ということです。彼らは、「生粋のユダヤ人たち」よりも、自らを劣ったものであると考えていました。いや、実際には、本国のユダヤ人からは、そのように言われていたのです。それだけに、生粋のユダヤ人たちよりも、真剣に、あるいは、熱心に、ユダヤ人であろうとしたわけです。彼らは、他の誰よりも、「割礼」を重んじ、「律法」に忠実であろうとしたのです。他の誰よりも熱心であることで、自分たちのコンプレックスから、自らを守ろうと思ったのかもしれません。それは、かつての「パウロ」の姿を見れば、よく分かることかもしれません。
しかし、今、そのパウロが、「律法」によって、人は救われないと言い、ただキリストを信じる信仰によってのみ救われると語っているのです。言うならば、同じ旧約聖書を読みながら、ユダヤ人の常識や価値観とは、全く、逆のことを、ここで語っていることになるのであります。
「律法」に対して、誰よりも真剣に、誰よりも熱心でいたい彼らにとって、このパウロの言葉は、到底、許せることではなかったわけです。そして、この強い思い―彼らなりの強い信仰心―こそが、彼らを、このような行動へと、駆り立てていくことになったのであります。
「伝道」は、いつでも、このような、「妬みや憎しみ」の中に、置かれています。なぜでしょうか。それは、「福音」が、人の誇りを傷つけるからです。あるいは、「福音」は、「人を揺さぶり」、時には人を「打ち砕く」からです。「福音」ほど、あらゆる世界の人間にとって、「非常識」なものはなく、「愚かなもの」はありません。
だから、人間は、「福音」を理解できないのです。「非常識で愚かなもの」だからです。逆に言うならば、「福音」を知るためには、人の誇りや価値観や常識や知識は、必要なものではないのです。ただ、「信仰」だけが必要なのであります。
そもそも、ユダヤ人の救いに関する「常識や価値観」とは、何でしょうか。それは、簡単に言うならば「報い」です。「〇〇をすれば、〇が与えられる」というものです。「割礼を受けていれば神の民となれる」「律法を守れば、神の国に入れる」というものであります。少し言い方を変えて申し上げるならば、善い行いに対しては、良いものが与えられ、悪い行いに対して、悪いものが与えられる、という価値観です。つまり、神様の救いや裁きが、人間の行いに対して、左右されるものなのだ、という価値観なのです。それ故に、彼らは、良いと思うことには忠実であり、悪いと思うものに対しては、人であれ、物であれ、必ず排除する。そのような傾向が生まれてしまうのであります。
しかし、この価値観には、決定的な弱点があります。それは、神様の意志が、人間の行いによって、左右にコントロールされているということです。人間の行いが、神様の意志よりも、優先されてしまっているということです。それは、言い換えるならば、神様よりも、人間が中心になっているということであります。
そして、もう一つの大きな欠点があります。それは、この価値観によっては、人間が完全な平安を得ることが出来ない、ということであります。いつでも、どんな時でも、自分は良いことをしているか、忠実であるか、悪いことをしていないか、それが不安でたまらなくなるのです。常に、自分が、本当に救われているのか否か、不安な気持ちを抱えながら、生きなければいけないのです。
実は、この宗教的価値観は、日本人やギリシア人の宗教観と似ている部分があります。そのことについては、次回、お話をさせていただきます。
さて、パウロは、このユダヤ人の持つ宗教的価値観や常識を、福音によって打ち砕きました。そのことを踏まえて、3節の御言葉をお読みします。「それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みにして勇敢に語った。主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである」。
ここでは、パウロとバルナバが、妨害を受けながらも、神様を信じ、御言葉と御業で、福音伝道を続けたことが、記されています。ここで特徴的なことは、二つあります。一つは、「パウロ」ではなく、「神御自身」が働いている、ということ。そして、もう一つは、神様が「その恵みの言葉を証しされた」ということです。
神様が、ここでしていることは、パウロを通して語られた「恵みの言葉」を証明することなのです。つまり、パウロの福音伝道の中心は、「恵みを語ること」に他ならないのです。私達は、私達人間の行いによって救われるのではなく、ただひたすらに、「神様の恵み」によってのみ救われるのです。ここに福音の内容があるのです。
神様は、決して、人間の行いによって、その御意志を変える御方ではありません。神様は、断固として、恵みによって、私達を救う。そのただ一つの意志を貫かれる御方なのだ、ということなのです。そのために、神様は、御子に、私達の罪を背負わせることもいとわず、その御子の命を惜しみなく、死に渡されるのです。それほどまでに、断固とした御意志で、私達の救いを、恵みによって成し遂げてくださる御方なのであります。そこに、人の行いが入る余地はないのです。
人間の行いは、人間の誇りを生みます。あるいは、逆に、人間を不安へと駆り立てていくものです。しかし、福音は、神様の恵みによる救いを語ることで、その人間の誇りを打ち砕き、真の平安へと導くのです。
私達は、その救いの前では、全くの無力であることを、知ることになります。しかし、それでも良いのです。美しい、正しい行いはいりません。それでも不安にならなくても良いのです。なぜなら、神様は、恵みによってのみ、あなたを選び、信仰を与え、キリストの救いを受けるものとしてくださったのからであります。そして、それを、御自身の御意志としてくださる御方なのです。
大切なことは、この福音が、この救いが、この恵みが、今、あなたへの恵みであることを、受け止めていくことなのであります。
4節から7節をお読みします。「町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた。異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとしたとき、二人はこれに気づいて、リカオニア州の町であるリストラとデルベ、またその近くの地方に難を避けた。そして、そこでも福音を告げ知らせていた」。
御言葉によると、パウロとバルナバの伝道活動によって、町に分裂が起こります。そして、迫害が、ますます強くなったようです。二人は、迫害から身を守るために、新しい町へと避難することになります。
しかし、この迫害からの避難が、更に、福音を告げ知らせるためのチャンスに変えられていったようです。迫害の中に置かれても、主の御業は止まることはありません。折を得ても得なくても、福音は、確かに告げ知らされているのです。
福音は、私達の誇りを打ち砕きます。福音は、人間の価値観からすれば非常識です。福音は、人間の価値観からすれば「愚かなもの」です。
しかし、後に、パウロは、このように語りました。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」。
福音こそが、私達を救う神の力なのです。私達には、私達自身を救う力はないかもしれない。しかし、神様は、教会を通して、御言葉を通して、私達の内に福音を届け、信仰の目を開く力があるのです。どのような状況にあっても、神様は、私達の内に、あなたの内に、あなたを救う力に満ちた福音を届けてくださるのです。
自分の常識にとらわれていませんか。自分の価値観に縛られていませんか。あなたの持っている真理が、本当に、あなたに平安をもたらしているでしょうか。あなたから生まれてくるものは、あなたの枠のなかだけのものでしかありません。あなたが滅びれば、共に滅びていくだけのものです。神様の救いは、あなたが、滅びても、あなたから離れることのない、変わることのない真の救いです。
変わることを、変えられることを恐れる必要はありません。打ち砕かれることを恐れる必要はありません。今まで目の見えなかった人の目が開かれるように、今まで一度もあるいたことのない人が、踊り上がるように、神様によって変えられた人の人生は、新しい世界の始まりなのです。その世界は、永遠に向かった世界です。もう誰にも縛られず、何の束縛もない、永遠なる神との交わりに満ちた世界が切り開かれていくのです。
改めて、この深い恵みを、共に味わいたいと思います。そして、まだ、この恵みを知らずに生きる方々は、是非、この恵みを共に味わうために、今、あなたが招かれていることを、知っていただければと思います。
今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録14章1節〜7節の御言葉です。1節から2節の御言葉をお読みします。「イコニオンでも同じように、パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話をしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を煽動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた」。
「イコニオン」における、パウロとバルナバの伝道が、始まりました。聖書によると、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が、信仰に入ったようです。
しかしまた、一方で、ユダヤ人による妨害もありました。聖書によると、「異邦人を煽動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた」とあります。要するに、ユダヤ人たちは、パウロたちの悪口を言い広め、評判を落とそうとしたわけであります。
さて、ここに出てくるユダヤ人とは、恐らく「外国で育ったユダヤ人」のことです。その意味で、パウロやバルナバと同じありました。
外国で育ったユダヤ人には、ある種のコンプレックスがありました。それは、自分たちが「本国のユダヤ人」ではない、ということです。彼らは、「生粋のユダヤ人たち」よりも、自らを劣ったものであると考えていました。いや、実際には、本国のユダヤ人からは、そのように言われていたのです。それだけに、生粋のユダヤ人たちよりも、真剣に、あるいは、熱心に、ユダヤ人であろうとしたわけです。彼らは、他の誰よりも、「割礼」を重んじ、「律法」に忠実であろうとしたのです。他の誰よりも熱心であることで、自分たちのコンプレックスから、自らを守ろうと思ったのかもしれません。それは、かつての「パウロ」の姿を見れば、よく分かることかもしれません。
しかし、今、そのパウロが、「律法」によって、人は救われないと言い、ただキリストを信じる信仰によってのみ救われると語っているのです。言うならば、同じ旧約聖書を読みながら、ユダヤ人の常識や価値観とは、全く、逆のことを、ここで語っていることになるのであります。
「律法」に対して、誰よりも真剣に、誰よりも熱心でいたい彼らにとって、このパウロの言葉は、到底、許せることではなかったわけです。そして、この強い思い―彼らなりの強い信仰心―こそが、彼らを、このような行動へと、駆り立てていくことになったのであります。
「伝道」は、いつでも、このような、「妬みや憎しみ」の中に、置かれています。なぜでしょうか。それは、「福音」が、人の誇りを傷つけるからです。あるいは、「福音」は、「人を揺さぶり」、時には人を「打ち砕く」からです。「福音」ほど、あらゆる世界の人間にとって、「非常識」なものはなく、「愚かなもの」はありません。
だから、人間は、「福音」を理解できないのです。「非常識で愚かなもの」だからです。逆に言うならば、「福音」を知るためには、人の誇りや価値観や常識や知識は、必要なものではないのです。ただ、「信仰」だけが必要なのであります。
そもそも、ユダヤ人の救いに関する「常識や価値観」とは、何でしょうか。それは、簡単に言うならば「報い」です。「〇〇をすれば、〇が与えられる」というものです。「割礼を受けていれば神の民となれる」「律法を守れば、神の国に入れる」というものであります。少し言い方を変えて申し上げるならば、善い行いに対しては、良いものが与えられ、悪い行いに対して、悪いものが与えられる、という価値観です。つまり、神様の救いや裁きが、人間の行いに対して、左右されるものなのだ、という価値観なのです。それ故に、彼らは、良いと思うことには忠実であり、悪いと思うものに対しては、人であれ、物であれ、必ず排除する。そのような傾向が生まれてしまうのであります。
しかし、この価値観には、決定的な弱点があります。それは、神様の意志が、人間の行いによって、左右にコントロールされているということです。人間の行いが、神様の意志よりも、優先されてしまっているということです。それは、言い換えるならば、神様よりも、人間が中心になっているということであります。
そして、もう一つの大きな欠点があります。それは、この価値観によっては、人間が完全な平安を得ることが出来ない、ということであります。いつでも、どんな時でも、自分は良いことをしているか、忠実であるか、悪いことをしていないか、それが不安でたまらなくなるのです。常に、自分が、本当に救われているのか否か、不安な気持ちを抱えながら、生きなければいけないのです。
実は、この宗教的価値観は、日本人やギリシア人の宗教観と似ている部分があります。そのことについては、次回、お話をさせていただきます。
さて、パウロは、このユダヤ人の持つ宗教的価値観や常識を、福音によって打ち砕きました。そのことを踏まえて、3節の御言葉をお読みします。「それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みにして勇敢に語った。主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである」。
ここでは、パウロとバルナバが、妨害を受けながらも、神様を信じ、御言葉と御業で、福音伝道を続けたことが、記されています。ここで特徴的なことは、二つあります。一つは、「パウロ」ではなく、「神御自身」が働いている、ということ。そして、もう一つは、神様が「その恵みの言葉を証しされた」ということです。
神様が、ここでしていることは、パウロを通して語られた「恵みの言葉」を証明することなのです。つまり、パウロの福音伝道の中心は、「恵みを語ること」に他ならないのです。私達は、私達人間の行いによって救われるのではなく、ただひたすらに、「神様の恵み」によってのみ救われるのです。ここに福音の内容があるのです。
神様は、決して、人間の行いによって、その御意志を変える御方ではありません。神様は、断固として、恵みによって、私達を救う。そのただ一つの意志を貫かれる御方なのだ、ということなのです。そのために、神様は、御子に、私達の罪を背負わせることもいとわず、その御子の命を惜しみなく、死に渡されるのです。それほどまでに、断固とした御意志で、私達の救いを、恵みによって成し遂げてくださる御方なのであります。そこに、人の行いが入る余地はないのです。
人間の行いは、人間の誇りを生みます。あるいは、逆に、人間を不安へと駆り立てていくものです。しかし、福音は、神様の恵みによる救いを語ることで、その人間の誇りを打ち砕き、真の平安へと導くのです。
私達は、その救いの前では、全くの無力であることを、知ることになります。しかし、それでも良いのです。美しい、正しい行いはいりません。それでも不安にならなくても良いのです。なぜなら、神様は、恵みによってのみ、あなたを選び、信仰を与え、キリストの救いを受けるものとしてくださったのからであります。そして、それを、御自身の御意志としてくださる御方なのです。
大切なことは、この福音が、この救いが、この恵みが、今、あなたへの恵みであることを、受け止めていくことなのであります。
4節から7節をお読みします。「町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた。異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとしたとき、二人はこれに気づいて、リカオニア州の町であるリストラとデルベ、またその近くの地方に難を避けた。そして、そこでも福音を告げ知らせていた」。
御言葉によると、パウロとバルナバの伝道活動によって、町に分裂が起こります。そして、迫害が、ますます強くなったようです。二人は、迫害から身を守るために、新しい町へと避難することになります。
しかし、この迫害からの避難が、更に、福音を告げ知らせるためのチャンスに変えられていったようです。迫害の中に置かれても、主の御業は止まることはありません。折を得ても得なくても、福音は、確かに告げ知らされているのです。
福音は、私達の誇りを打ち砕きます。福音は、人間の価値観からすれば非常識です。福音は、人間の価値観からすれば「愚かなもの」です。
しかし、後に、パウロは、このように語りました。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」。
福音こそが、私達を救う神の力なのです。私達には、私達自身を救う力はないかもしれない。しかし、神様は、教会を通して、御言葉を通して、私達の内に福音を届け、信仰の目を開く力があるのです。どのような状況にあっても、神様は、私達の内に、あなたの内に、あなたを救う力に満ちた福音を届けてくださるのです。
自分の常識にとらわれていませんか。自分の価値観に縛られていませんか。あなたの持っている真理が、本当に、あなたに平安をもたらしているでしょうか。あなたから生まれてくるものは、あなたの枠のなかだけのものでしかありません。あなたが滅びれば、共に滅びていくだけのものです。神様の救いは、あなたが、滅びても、あなたから離れることのない、変わることのない真の救いです。
変わることを、変えられることを恐れる必要はありません。打ち砕かれることを恐れる必要はありません。今まで目の見えなかった人の目が開かれるように、今まで一度もあるいたことのない人が、踊り上がるように、神様によって変えられた人の人生は、新しい世界の始まりなのです。その世界は、永遠に向かった世界です。もう誰にも縛られず、何の束縛もない、永遠なる神との交わりに満ちた世界が切り開かれていくのです。
改めて、この深い恵みを、共に味わいたいと思います。そして、まだ、この恵みを知らずに生きる方々は、是非、この恵みを共に味わうために、今、あなたが招かれていることを、知っていただければと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 03:32| 日記