聖書:使徒言行録14章19節〜28節、詩編37篇1節〜22節
説教:「信仰にかたく立つ」須賀 工牧師
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神様の祝福を心よりお祈り申し上げます(o^―^o)ニコ
2022年06月25日
2022年6月26日 主日礼拝説教音声「信仰にかたく立つ」須賀工牧師
posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:05| 日記
2022年7月3日 礼拝予告
〇教会学校 9時15分〜
聖書:創世記27章18節〜29節
説教:「ヤコブ祝福を奪う」
〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:使徒言行録15章1節〜21節、イザヤ書56章1節〜8節
説教:「恵みによって救われる」須賀 工牧師
感染予防対策をした上で、礼拝を捧げています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
聖書:創世記27章18節〜29節
説教:「ヤコブ祝福を奪う」
〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:使徒言行録15章1節〜21節、イザヤ書56章1節〜8節
説教:「恵みによって救われる」須賀 工牧師
感染予防対策をした上で、礼拝を捧げています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:07| 日記
2022年6月26日 主日礼拝説教「信仰にかたく立つ」須賀 工牧師
聖書:使徒言行録14章19節〜28節、詩編37篇1節〜22節
今朝、私達は、石山教会の創立記念礼拝を捧げています。教会創立74周年を迎えました。教会が、神様によって、今に至るまで、守られたこと。そのことに、深く感謝を申し上げると共に、新しい一年もまた、神様の祝福とお守りが、豊かにありますように、心よりお祈り申し上げたいと思います。
その深い恵みの中で、今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録14章19節から28節の御言葉であります。19節から21節の御言葉をお読みします。「ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。しかし、弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバと一緒にデルベへ向かった。二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、」。
今朝の御言葉によると、使徒パウロたちは、リストラで、激しい迫害に遭いました。そして、そのことを受けて、デルベという地域に移動します。そして、そのデルベで、福音を告げ知らせた後、もと来た道を戻りながら、出発地点のアンティオキアに帰っていったようであります。因みに、これで、使徒パウロによる、第一回目の伝道旅行が終わりとなります。
恐らく、使徒パウロ自身が、瀕死となるような、激しい迫害を受けたことで、自分たちが関わった教会もまた、迫害を受けるのではないか。そのことを、強く意識して、教会を励ますために、このような危険なルートを、あえて取ったのではないかと考えられます。
それでは、使徒パウロたちは、どのようにして、教会を励ましたのでしょうか。今朝は、そのことに注目をしたいと思います。22節から23節の御言葉をお読みします。「弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた」。
ここで、まず、パウロがしたことは何でしょうか。それは「弟子たちを力づけた」と言われています。ここで言われている「力づける」という言葉は、「固くする」「強くする」「堅固にする」という意味です。そして、この文章の中には、「心を」「魂を」という言葉も、含まれています。つまり、パウロは、ここで「弟子たちの心を(魂を)強く・堅固にすること」を、何よりもまず、大切にしたのであります。
それでは、「心を強くする」ためには、何が、必要なのでしょうか。今朝の御言葉に従って言うならば、「信仰に踏みとどまる」ことが、必要なのであります。
それでは、「信仰に踏みとどまる」とは、どういうことなのでしょうか。いかなる迫害が来ようとも、私達の信じる気持ちを保ち続けること、信じる気持ちを維持し続けること、ということでしょうか。もし、そうであるならば、私は、迫害に耐え抜くことはできない。そのように言える自信があります。
「信仰」とは、ただ、私達が「信じる」ということだけではありません。それは、「キリストと堅く結ばれる」ということでもあるのです。つまり、「信仰に踏みとどまる」ということは、「キリストの下に」、あるいは「福音の下に」、あるいは、「神様の救い」や「神様の恵み」の下に、ただ一心に留まり続けるということなのです。
あなたを罪から救うために、命を捨ててくださる御方がいる。あなたを死から救うために、復活して下さった方がいる。この世界を支配するために、あなたを神様の愛で支配するために、天に昇られた御方がいる。あなたが、神の民となるために、聖霊を与えてくださる御方がいる。あなたに、神の国を約束してくださる方がいる。その御方の下に留まる。その御方を土台として立ち続ける。その所で、私達は、私達の心と魂とを強くさせられていくのであります。
だからこそ、私達は、もう一つのことに気づくことができます。それは、この苦しみは、永遠ではない、ということです。私達は、キリストにあって、罪を赦されて、神の国を約束されているのだ、ということです。涙や痛みが取り去られる時が、必ずくるのだ、ということであります。
今、この瞬間は、苦しみが多いかもしれない。しかし、その苦しみは、神の国に至る道の一場面でしかない。その道の一瞬でしかない。決して、苦しみに耐えなければ、神の国に入れない、ということではありません。約束された神の国に至る。その前の一瞬でしかないのだ、ということなのです。
大事なことは、このキリストの下に留まり、神様の恵みに留まることを通して、自分が既に救われている。そのことを確かとし、その深い恵みの中で、目の前の様々な困難と向き合っていくことなのであります。
さて、聖書によると、パウロは、諸教会に長老を置きました。何のためでしょうか。教会に生きる一人一人が、神様の恵みに留まり、その恵みの下に生き続けるためです。そのために、信仰の指導をする。そのような体制を整えたであります。
彼らに託された使命とは何でしょうか。それは、教会の人々が、主イエスにおける神の恵みに踏みとどまる。その信仰をしっかりと持ち、そこから迷い出ないように、そして、苦しみをも、神の国への道として、しっかりと受けとめさせていく。そのように、教会の群れを守り導くことなのです。
但し、パウロは、ただ、長老を置いただけではありません。最後の最後に、パウロは、このようにしています。「彼らをその信ずる主に任せた」と。要するに、教会の中心に、人の働きを置かなかった、ということです。人の働きで終わらすのではないのです。教会の群れを、そこに生きる人々を、主に委ねるのです。人間の体制を中心とするのではない。神が、そこに生き、群れを守るということ。常に、神様が、恵みを持って、群れを養い、慰め続けてくださる。そのことを、パウロは、大切に考えたのです。
さて、このようにして、パウロの伝道旅行一回目が、締めくくられていきました。それを総括して、聖書には、次にように、記されています。「それから、二人はピシディア州を通り、パンフィリア州に至り、ペルゲで御言葉を語った後、アタリアに下り、そこからアンティオキアへ向かって船出した。そこは、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所である。到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。そして、しばらくの間、弟子たちと共に過ごした」。
パウロの伝道旅行は、一言で言うならば、どのように、総括できるのでしょうか。簡単に言うならば、「恵みで始まり、喜びで終わった伝道旅行」です。
外から見れば、迫害を受け、苦しい日々もありました。しかし、信仰的に言うならば、全ては、恵みで始まり、神様の救いの豊かさを知る、その喜びで終わっていった。いかなる困難が、教会を襲おうとも、恵みや喜びを数えることができる。ここに、伝道する教会の喜びがあります。
それは、常に、彼らが、神様の恵みの下に、生き続けたからでありましょう。失敗や挫折だけを数えるのではなく、ただひたすらに、キリストの救いのもとに留まり続ける。その信仰を通して、喜びと恵みを数えていくことができる。そのところに、伝道する教会の幸いなる姿があるのです。
石山教会は、今日から、新しい一年を歩み出します。その歩みの中において、様々な困難があるかもしれません。試練もあるでしょう。しかし、いかなる困難が来ようとも、私達から神の愛を奪い取るものはありません。私達が手を放そうになっても、神様は、私達の手を握り、神様の恵みのもとへと引き戻して下さるでありましょう。どうか、この一年間、そして、これからも、神様の恵みの下に、キリストのもとに、福音のもとに、ただひたすらにとどまり続け、いかなる困難の中にも、恵みと喜びを見いだせる。そのような教会であってほしい。そのように思うのであります。
今朝、私達は、石山教会の創立記念礼拝を捧げています。教会創立74周年を迎えました。教会が、神様によって、今に至るまで、守られたこと。そのことに、深く感謝を申し上げると共に、新しい一年もまた、神様の祝福とお守りが、豊かにありますように、心よりお祈り申し上げたいと思います。
その深い恵みの中で、今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録14章19節から28節の御言葉であります。19節から21節の御言葉をお読みします。「ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。しかし、弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバと一緒にデルベへ向かった。二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、」。
今朝の御言葉によると、使徒パウロたちは、リストラで、激しい迫害に遭いました。そして、そのことを受けて、デルベという地域に移動します。そして、そのデルベで、福音を告げ知らせた後、もと来た道を戻りながら、出発地点のアンティオキアに帰っていったようであります。因みに、これで、使徒パウロによる、第一回目の伝道旅行が終わりとなります。
恐らく、使徒パウロ自身が、瀕死となるような、激しい迫害を受けたことで、自分たちが関わった教会もまた、迫害を受けるのではないか。そのことを、強く意識して、教会を励ますために、このような危険なルートを、あえて取ったのではないかと考えられます。
それでは、使徒パウロたちは、どのようにして、教会を励ましたのでしょうか。今朝は、そのことに注目をしたいと思います。22節から23節の御言葉をお読みします。「弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた」。
ここで、まず、パウロがしたことは何でしょうか。それは「弟子たちを力づけた」と言われています。ここで言われている「力づける」という言葉は、「固くする」「強くする」「堅固にする」という意味です。そして、この文章の中には、「心を」「魂を」という言葉も、含まれています。つまり、パウロは、ここで「弟子たちの心を(魂を)強く・堅固にすること」を、何よりもまず、大切にしたのであります。
それでは、「心を強くする」ためには、何が、必要なのでしょうか。今朝の御言葉に従って言うならば、「信仰に踏みとどまる」ことが、必要なのであります。
それでは、「信仰に踏みとどまる」とは、どういうことなのでしょうか。いかなる迫害が来ようとも、私達の信じる気持ちを保ち続けること、信じる気持ちを維持し続けること、ということでしょうか。もし、そうであるならば、私は、迫害に耐え抜くことはできない。そのように言える自信があります。
「信仰」とは、ただ、私達が「信じる」ということだけではありません。それは、「キリストと堅く結ばれる」ということでもあるのです。つまり、「信仰に踏みとどまる」ということは、「キリストの下に」、あるいは「福音の下に」、あるいは、「神様の救い」や「神様の恵み」の下に、ただ一心に留まり続けるということなのです。
あなたを罪から救うために、命を捨ててくださる御方がいる。あなたを死から救うために、復活して下さった方がいる。この世界を支配するために、あなたを神様の愛で支配するために、天に昇られた御方がいる。あなたが、神の民となるために、聖霊を与えてくださる御方がいる。あなたに、神の国を約束してくださる方がいる。その御方の下に留まる。その御方を土台として立ち続ける。その所で、私達は、私達の心と魂とを強くさせられていくのであります。
だからこそ、私達は、もう一つのことに気づくことができます。それは、この苦しみは、永遠ではない、ということです。私達は、キリストにあって、罪を赦されて、神の国を約束されているのだ、ということです。涙や痛みが取り去られる時が、必ずくるのだ、ということであります。
今、この瞬間は、苦しみが多いかもしれない。しかし、その苦しみは、神の国に至る道の一場面でしかない。その道の一瞬でしかない。決して、苦しみに耐えなければ、神の国に入れない、ということではありません。約束された神の国に至る。その前の一瞬でしかないのだ、ということなのです。
大事なことは、このキリストの下に留まり、神様の恵みに留まることを通して、自分が既に救われている。そのことを確かとし、その深い恵みの中で、目の前の様々な困難と向き合っていくことなのであります。
さて、聖書によると、パウロは、諸教会に長老を置きました。何のためでしょうか。教会に生きる一人一人が、神様の恵みに留まり、その恵みの下に生き続けるためです。そのために、信仰の指導をする。そのような体制を整えたであります。
彼らに託された使命とは何でしょうか。それは、教会の人々が、主イエスにおける神の恵みに踏みとどまる。その信仰をしっかりと持ち、そこから迷い出ないように、そして、苦しみをも、神の国への道として、しっかりと受けとめさせていく。そのように、教会の群れを守り導くことなのです。
但し、パウロは、ただ、長老を置いただけではありません。最後の最後に、パウロは、このようにしています。「彼らをその信ずる主に任せた」と。要するに、教会の中心に、人の働きを置かなかった、ということです。人の働きで終わらすのではないのです。教会の群れを、そこに生きる人々を、主に委ねるのです。人間の体制を中心とするのではない。神が、そこに生き、群れを守るということ。常に、神様が、恵みを持って、群れを養い、慰め続けてくださる。そのことを、パウロは、大切に考えたのです。
さて、このようにして、パウロの伝道旅行一回目が、締めくくられていきました。それを総括して、聖書には、次にように、記されています。「それから、二人はピシディア州を通り、パンフィリア州に至り、ペルゲで御言葉を語った後、アタリアに下り、そこからアンティオキアへ向かって船出した。そこは、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所である。到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。そして、しばらくの間、弟子たちと共に過ごした」。
パウロの伝道旅行は、一言で言うならば、どのように、総括できるのでしょうか。簡単に言うならば、「恵みで始まり、喜びで終わった伝道旅行」です。
外から見れば、迫害を受け、苦しい日々もありました。しかし、信仰的に言うならば、全ては、恵みで始まり、神様の救いの豊かさを知る、その喜びで終わっていった。いかなる困難が、教会を襲おうとも、恵みや喜びを数えることができる。ここに、伝道する教会の喜びがあります。
それは、常に、彼らが、神様の恵みの下に、生き続けたからでありましょう。失敗や挫折だけを数えるのではなく、ただひたすらに、キリストの救いのもとに留まり続ける。その信仰を通して、喜びと恵みを数えていくことができる。そのところに、伝道する教会の幸いなる姿があるのです。
石山教会は、今日から、新しい一年を歩み出します。その歩みの中において、様々な困難があるかもしれません。試練もあるでしょう。しかし、いかなる困難が来ようとも、私達から神の愛を奪い取るものはありません。私達が手を放そうになっても、神様は、私達の手を握り、神様の恵みのもとへと引き戻して下さるでありましょう。どうか、この一年間、そして、これからも、神様の恵みの下に、キリストのもとに、福音のもとに、ただひたすらにとどまり続け、いかなる困難の中にも、恵みと喜びを見いだせる。そのような教会であってほしい。そのように思うのであります。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:03| 日記