2022年06月21日

2022年6月19日 主日礼拝説教音声「本当の喜びを知る」須賀工牧師

聖書:使徒言行録14章11節〜18節、詩編90篇1節〜2節
説教:「本当の喜びを知る」須賀工牧師

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神様の祝福が豊かにありますように、心よりお祈り申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:59| 日記

2022年06月17日

2022年6月26日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:創世記22章6節〜14節
説教:「イサク奉献」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:使徒言行録14章19節〜28節、詩編37篇1節〜22節
説教:「信仰にかたく立つ」須賀 工牧師

感染予防対策をして、礼拝を捧げています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 13:37| 日記

2022年6月19日 主日礼拝説教「本当の喜びを知る」須賀 工牧師

聖書:使徒言行録14章11節〜18節、詩編90篇1節〜2節

 今朝、私達に、与えられた御言葉は、使徒言行録14章11節から18節の御言葉です。11節から13節の御言葉をお読みします。「群衆はパウロの行ったことを見て声を張り上げ、リカオニアの方言で、『神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった』と言った。そして、バルナバを『ゼウス』と呼び、またおもに話す者であることから、パウロを『ヘルメス』と呼んだ。町の外にあったゼウスの神殿の祭司が、家の門の所まで雄牛数頭と花輪を運んで来て、群衆と一緒になって二人にいけにえを献げようとした」。
 神様は、使徒パウロを通して、ある男の足を癒しました。それを見た、リストラの人々は、歓声を上げ、彼らを、まるで、神のように、祭り上げました。聖書によると、彼らは、バルナバを「ゼウス」と呼び、パウロを「ヘルメス」と呼びました。要するに、彼らを、「神々の名」で呼んで、彼らを崇拝したのであります。
 ここに出てくる「ゼウス」も「ヘルメス」も、ギリシャ神話に出てくる神々です。ギリシャ神話によると、ゼウスは「父」で、「ヘルメス」は、その息子であったと言われています。因みに、ゼウスは、ギリシャ神話の中でも「主神」と呼ばれ、「ヘルメス」は「雄弁の神」とも呼ばれたようです。年配の「バルナバ」が「父ゼウス」で、よくしゃべる「パウロ」が「息子ヘルメス」ということでしょうか。いずれにせよ、ギリシャ神話には、沢山の神々がでてきます。つまり、ギリシャの文明は、基本的に「多神教」で成り立っていたと言えるでしょう。
 さて、ギリシャ神話において、神々と人間の区別・境界線は、実に曖昧です。例えば、神々の間においても、人間と同様に、愛や妬みがあります。争いや口論、主権闘争もあります。あるいは、神が、人間の女性を愛することもありますし、人間の姿を取って、人間の生活の中へと訪れることもあるのです。
要するに、ギリシャの宗教観は、根本的に、神々と人間が、区別されない。そのような価値観で出来ていると言えるのです。そして、それ故に、不思議な業を行ったパウロとバルナバもまた、神々の一人として、同等に扱われたわけであります。
 さて、このギリシャ人の価値観を踏まえた上で、更に、踏み込んで、今朝の御言葉に耳を傾けたいと思います。即ち、なぜ、彼らは、パウロとバルナバを、数ある神々の中から、「ゼウス」と「ヘルメス」と呼んだのか。そして、なぜ、彼らは、この二人を、ここまで手厚く「もてなした」のか。まず、そこに注目したいと思うのであります。
 実は、このリストラ地方には、一つの伝説がありました。次のような神話です。
「その昔、この地方に、貧しい夫婦がいました。ある日、この二人のもとに、ゼウスとヘルメスが、人間の姿となって、現れました。この夫婦は、この二人が、ゼウスとヘルメスであることには、気づきませんでしたが、見知らぬ旅人を、貧しい中にあっても、精一杯、もてなしたわけであります。さて、ある日、この地方を洪水が襲いました。沢山の人が流されていく中、この夫婦だけは、ゼウスとヘルメスの加護を得ることができ、命が救われたのです」。
 これが、このリストラ地方の伝説です。この伝説を受け継いだリストラの人々は、いつかまた、ゼウスとヘルメスが訪れるかもしれない。そのように、信じたようであります。それ故に、正に、見知らぬ二人が、奇跡を行っているのを見て、すぐに、その伝説と結びつけて、物事を考えたのであります。
 正に、ここにこそ、彼らの心の中にある問題があります。彼らの心の中には、何があるのでしょうか。それは、「自分たちも災いから守られたい」という気持ち。「自分たちも苦しみから逃れたい」という気持ちであります。
 彼らは、なぜ、神々をもてなすのでしょうか。それは、正しく「もてなせば」、恵みを得られ、災いから守られるからです。逆に言うならば、正しく「もてなせなければ」、災いから守られないからであります。だから、この奇跡を行った、この見知らぬ二人の旅人を、丁寧にもてなしたわけです。祭り上げたわけであります。彼らにとって、神々というのは、正しく、お祭りをし、粗相のないようにしていれば、守ってくれる存在です。逆に、粗相に扱えば機嫌を損ねて、守ってくれない存在なのであります。
 このような心は、どこから、生まれてくるのでしょうか。それは「恐れ」です。「不安」です。「恐れ」を静めるために、「不安」を払拭するために、彼らは、神々を拝むのです。
しかし、どうでしょうか。本当に、これで、「恐れ」や「不安」を払拭できるのでしょうか。正しく「もてなさなければ」災いから守られないのです。何か良いことをしなければ、救いを味わえないのです。常に、自分の正しさを問わなければいけない。そういう信仰心は、本当に「恐れ」や「不安」を取り除けるのでしょうか。そうとは思えないのです。いや、そういう信仰心こそが、新たな「不安」や「恐れ」を生み出しているともいえる訳です。
 さて、このような、リストラの人々に対して、パウロとバルナバは、次のように、語り始めました。14節から18節の御言葉をお読みします。「使徒たち、すなわちバルナバとパウロはこのことを聞くと、服を裂いて群衆の中へ飛び込んで行き、叫んで言った。『皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。』こう言って、二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができた」。
 パウロとバルナバは、ここで、何を語っているのでしょうか。まずは、「自分たちは神ではない」ということです。「同じ人間」であるということです。
 しかし、それだけではありません。彼らが、ここで、最も言いたかったことは、何でしょうか。それは、    「偶像を離れて、生ける神に立ち帰りなさい」ということであります。ここで言われている「偶像」という言葉は、「虚しいもの」という意味もあります。つまり、今まで拝んでいた「虚しいもの」を離れて、今も生きて、私達を満たす神の下に立ち帰りなさい。そのように、ここで教えられた、というか、伝道をしたわけなのです。
 さて、それでは、ここで言われている「偶像」と「生ける神」とは、どのような、違いがあるのでしょうか。ここに注目したいと思います。
 パウロとバルナバによると、「生ける神」とは、「天と地と海と、その中にあるすべてのものを造られた方」であります。つまり、「生ける神」とは、全て生けるものの創造主であるということです。逆に言えば、神様以外のものは、全て、「造られたもの」でしかない、ということです。それ故に、「人間」が「神」になることはありません。あるいは、人間が「作った」ものが、神になることもないわけです。全ての造り主は、誰によっても造ることは出来ないからです。
 それに対して、「偶像」は、どうでしょうか。それは、人間が作り上げた「神々」です。人間が作る神々は、当然、人間の思いや経験や知識の延長線上にあります。ギリシャ神話の神々が、人間と同じ姿になったり、人間と同じように、愛したり、怒ったり、争ったり、嫉妬するのは、そのためであります。あるいは、正しい「もてなし」がなければ、機嫌を損ねて、守ってくれない。これも、人間の持っている性質が、投影していると言えるわけです。
 しかし、パウロやバルナバが、伝えている、神様は、そもそも違うのです。それは、人間の思いや願いの投影ではありませんし、人間の知識や感情によって造られたものではありません。そもそも、人間は、この神様を、究め尽くすことはできませんし、人間の力で、神様を知ることはできないのです。偶像は、人間の空想の延長線上にありますが、真の生ける神は、私達によって、知られることのない仕方で、存在しているわけです。その意味で、偶像には、いつでも限界がありますが、生ける神には、限界はないわけであります。
 16節には、次のように書かれています。「神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました」。かつて神様は、人間が、思うままにしておかれました。その結果、人間は、偶像を作り出すことは出来ても、真の生ける神を、知ることは出来ませんでした。
 しかし、17節には、次のようにも記されています。「『しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです』」。
 つまり、私達は、かつて、神様を、正しく知ることは出来なかった。しかし、神様は、それでも、御自身を、明らかにし続けてくださったのだ、ということです。
 神様は、どのようにして、御自身を明らかにされたのでしょうか。「雨を降らせ、実りを与え、食物を施し、私達の心を喜びで満たす」。そのような仕方で、御自身を明らかにし続けてくださったのであります。
 最初にも申し上げましたが、「偶像の神々」は、最終的には、人間に「恐れ」と「不安」をもたらします。偶像崇拝は、「恐れ」を本質とした信仰を生み出すのです。
 しかし、パウロとバルナバの示す神は、どのような神なのでしょうか。それは、たとえ、私達が、無知であったとしても、たとえ、私達が、神様の目に、小さなものであったとしても、隠れた仕方で、私達を生かし、養い、育ててくださる。そして、私達の心を、不安や恐れではなく、喜びで満たして下さる。そういう神様なのであります。
 但し、ここで、大切な言葉があります。それは、「過ぎ去った時代」という言葉です。つまり、このように、神様を知らぬ時代は、過去なのです。今や、新しい時代が、始まっているのだ、ということであります。言い方を変えるならば。真の生ける神が、新しい仕方で、御自身を、明らかにし、その救いの御心を、私達が、知ることができるようになったのであります。
 新しい時代とは、どのような時代なのでしょうか。それが、キリストの時代、そして、聖霊の時代であります。教会を通して、復活の主出会い、そこで、神様の救いを知ることができるのであります。
 主イエス・キリストは、真の神でありながら、真の人となって、この世に来られました。それは、ゼウスやヘルメスのように、「仮の姿を取る」という意味ではありません。真の人となられたわけであります。
 何のために「人」となられたのでしょうか。ゼウスやヘルメスのように、人に仕えてもらうためでしょうか。それは違います。私達の罪を背負い、身代わりとなって、十字架に架けられるためであります。御自身が、人となられたのは、徹底的に、私達に仕えるためであります。そのために、主は、命すらも捨てられたのであります。
 私達は、このキリストを通して、罪が赦され、神様のものとして、永遠に生きることがゆるされているわけです。この救いは、正しく、主を「もてなす」ことで得られるようなものではありません。何の条件もなければ、対価もいらないのです。ただ、主によって与えられた賜物としての信仰によってのみ、私達は、この恵みを味わい知ることができるのです。
 私達の空想で作り上げた神は、あなたに、対価を求めていないでしょうか。もっと正しく、もっと美しく生きることを求めていないでしょうか。私達の真の主は、主御自身が、命を捨てるほどに、あなたに仕えられた主なのです。
 この深い恵みを心に留めて、日々、生ける真の神に立ち帰り、不安や恐れから解放された、本当の喜びを知る日々へと、再び、歩み出したいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 13:33| 日記