2022年06月05日

2022年6月5日 主日礼拝説教音声「喜びで心を満たす神」須賀 工牧師

聖書:使徒言行録14章8節〜10節、ヨエル書3章1節〜5節
説教:「喜びで心を満たす神」須賀 工牧師

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神様の祝福が豊かにありますように、心よりお祈り申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:33| 日記

2022年06月04日

2022年6月12日 礼拝予告

〇教会学校 主日礼拝に合同します(o^―^o)ニコ

〇主日礼拝 10時30分〜
説教:「神様の祝福」須賀 工牧師
聖書:創世記12章1節〜9節

感染予防対策をした上で、礼拝をささげています!皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます!
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:28| 日記

2022年6月5日 主日礼拝説教「喜びで心を満たす神」須賀 工牧師

聖書:使徒言行録14章8節〜10節、ヨエル書3章1節〜5節
説教:「喜びで心を満たす神」須賀 工牧師

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録14章8節から10節の御言葉であります。改めて、8節から10節の御言葉をお読みします。「リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、『自分の足でまっすぐに立ちなさい』と大声で言った。すると、その人は踊り上がって歩き出した」。
 「リストラ」に、「足の不自由な男」がいました。彼は、生まれてから一度も、歩いたことがありません。恐らく、これからも、彼の足が、治る見込みはないだろうと思います。要するに、今、彼の置かれた状況は、「人間の力」では、これ以上、良い方向に、向かうことがないという。そういう、悲惨な状況を示しているのであります。
 そして、その意味で言うならば、この人は、今、自分に与えられた人生に対して、虚しさや無意味さ、あるいは、失望や不安、もしくは、諦め。それに、近いような、感情を抱きつつ、毎日を暮らしていたのではないか。そのようにも、思えてくるのであります。
 しかし、この人は、使徒パウロと出会いました。そして、使徒パウロを通して「福音」、「救いの御言葉」に触れることが出来たわけであります。それは言い方を変えるならば、使徒パウロを通して、キリストと出会うことが出来た。そのようにも言えるかもしれません。
 いずれにせよ、聖書によると、この人は、「パウロの話すのを聞いていた」と記されています。それでは、使徒パウロが、語っていた「福音」とは、何でしょうか。それは、簡単に言えば、「主イエス・キリストによる十字架の死と復活の救い」です。キリストの十字架の死と復活によって、「信じる全ての人」は皆、罪が赦され、永遠の命を得ることができる。
 ここに、使徒パウロを通して語られた「福音」があります。病人の体が、癒されること。そのことが、ここでの「福音」ではないのです。キリストを信じる者が、罪から救われ、永遠の命を得ることが出来る。行いや生き方によってではなく、信仰によって、あなたは、義とされるのだ。神様に相応しいものとされるのだ。これが、使徒パウロの語る福音であり、何よりもまず、教会が語り続けている「福音」なのであります。
 この人は、この御言葉に聴きながら、何を思ったのでしょうか。自分の体を癒すことのできない、単なる言葉だけの救いや宗教には、意味がない。そのように、憤ったのでしょうか。もし、そうであるならば、なぜ、この人は、使徒パウロの下に、あるいは、語られた福音の下に、留まる必要があったのでしょう。早く、立ち去ればよかったわけです。
 恐らく、この人は、初めて「真の福音」に触れて、素直に、嬉しかったのではないでしょうか。「自分は、もう救われるチャンスはない」と思っていた。「自分は、もう、神様に見放されている」と思っていた。「自分には、何も出来ない。だから、自分は、救われる価値はない」と思っていた。「自分の体は不自由だから、神様に必要とされていない」と思っていた。
 しかし、本当は、違ったのです。使徒パウロを通して語られるキリストは、今、この私を「救いたい」と思っていてくださる。いや、こんな私を「救うのだ」と言って下さっている。何も出来ない、この世の価値観から言えば、何の価値も見いだせない、この自分を、それでも、愛し抜いて、救うのだと。そう言って下さっている。そんな、あなたと一つに繋がりたい。そう言ってくださる。それが、素直に、嬉しかったのではないかと、思うのです。
 だからこそ、この人は、使徒パウロから出る一つ一つの「福音の御言葉」に耳を傾け、その福音の下に留まり続けたのではないでしょうか。そして、自分は、心から、この福音を、信じたい。このキリストと繋がりたい。そのように思ったのでありましょう。彼は、そこで、体が癒される。それ以上の喜びがある。そのことを知ったのだと思います。そして、その喜びへと、今、自分が招かれている。その自分も知ったのではないかと思うのであります。
 使徒パウロもまた、ローマの信徒への手紙の中で、次のように記しています。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と。信仰は、人間の行いから始まるものではないのです。語られるキリストの御言葉に聴くところから始まるのです。
 確かに、この人は、無力であるかもしれません。何も出来ないかもしれない。この世の^価値観から言うならば、確かに価値はなかったのかもしれない。信仰を得るには、その相応しさはないと言えるかもしれない。
 しかし、キリストは、今、生きて、この目の前の一人に、語り始めるのです。「そのあなたのために、私は命を捨てたのだ。あなたと一つとなるために、私は命を捨てたのだ」と。
 誰も味方をしてくれない虚しさ、自分自身も信じられない悲しさの中で、その自分を大切にしてくれる人がいた。それが嬉しかった。この方を信じたいと思った。そこから信仰は、生み出されていくのであります。
 知識や知恵が、信仰を生み出すわけではありません。キリストの御言葉そのものが、福音そのものが。私達の内に、信仰を生み出していくのです。私達は、それを、素直に、喜んだら良いのです。キリストが、この私にしてくださったこと。そのことを、喜んだら良いのです。そこから、信仰が生まれ、救いの実現に至るのであります。
 聖書には、次のように示されています。「パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、『自分の足でまっすぐに立ちなさい』と大声で言った。すると、その人は踊り上がって歩き出した」。
 ここで重要なことは、キリストは生きている、ということです。この人に語り、この人に信仰を与え、この人を救いへと導くキリスト。このキリストは、今も、ここで、生きているのだ、ということです。偽りの主ではなく、ここに今も生きる主として、あなたの救いの為に働いてくださる。その「しるし」が、ここで言われている「癒し」の目的なのであります。癒すことが目的ではなく、信仰によって、この人を救う主が、今、ここに生きているのだ、ということを示す。その手段として「癒し」が、置かれているのであります。
 私達の救いは、主イエス・キリストの十字架の死と復活を通して、与えられる罪の赦しと永遠の命です。この救いは、教会の御言葉によって、与えられるものです。
しかし、この救いは、教会の救いではなく、今、教会に生きるキリストの救いであり、このキリストによって、語られ、信仰へと導かれ、この身に実現する。そのような救いなのであります。
私達は、この救いに対して、相応しいものではないかもしれません。この人と同じように、神様の目には、無力なものであります。
 しかし、主が、あなたを選び、あなたを見つめ、あなたに御言葉を与え、あなたの信仰を開き、あなたを新たに生かしてくださるのであります。その深い恵みを、私達は、礼拝を通して、味わうことができるのであります。キリストとの出会いの中で、得ることができる。そして、日々、この救いの恵みを味わいながら、新たに喜び、新たに生きるものへと導かれていくのであります。
 信仰者にある新しい人生とは、今まで、歩いたことがない人が、踊り上がるほどの喜びをもたらすものです。歩いたことのない人が、どうして歩けるのでしょうか。歩いたことのない人が、どうして踊り上がることができるのでしょうか。正直よくわかりません。
 しかし、同じように、このように言えるかもしれません。即ち、まだ、救いについて、一度も聞いていないのに、なぜ、救いはないと思うのでしょうか。聞いてみなければわかりません。耳を傾けなければわからないのです。そして、その先に、あなたを、本当に喜ばせるほどの、新しい世界が開かれているのであります。
 キリストは、今、あなたを招いています。どうか、この招きに応えて頂ければと思います。そして、その福音が、今、私に与えられた福音であることを覚え、喜びをもって、その福音に留まり続けてくだされば幸いです。その先にこそ、私達の想像をはるかに超えていくほどの、新しい世界が広がっているのであります。
 さて、今日は、ペンテコステの礼拝です。ペンテコステは、別名、聖霊降臨日です。この日は、教会の誕生日とも呼ばれています。世界で初めて教会が出来た日です。教会は、決して、建物が建てられたことで始まったわけではありません。あるいは、人間の思想や感情を持ち寄って、教会ができたわけでもありません。
「聖霊」が降りました。そして、弟子たちが、様々な言語で、福音を語り始めました。それが、教会の始まりです。この教会の誕生があり、この世界に、福音が届けられました。
そして、今、時代を越えて、私達の内にも、変わることのない福音が届けられ、そして、委ねられています。救いを見いだしにくい世です。救いを諦めてしまう人の多い世です。
しかし、そのような世に、私達は遣わされています。そして、そのような現実の中でこそ、私達は、神様を信頼し、ただ一つの福音を語る使命がある。
 そして、「あなたは見放されていない。」「あなたを救いたい御方がいるのだ」ということ。そのことを力強くのべつたえていく。そのような私達でありたいと思うのです。そして、その為に、何よりまず、私達自身が、主の福音の力によって、御言葉の力によって、日々、信仰者として新たにされ、救われているということ。そのことに立ち帰り、私達もまた、この人と同様に、喜び、躍り上がりながら、主を賛美し、主の御業をほめたたえていくものでありたいと思うのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:21| 日記