〇教会学校 お休み
〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:使徒言行録16章6節〜15節、列王記下6章15節〜17節
説教:「心を開かれる主」須賀工牧師
感染予防対策をした上で、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
2022年07月30日
2022年8月7日 礼拝予告
posted by 日本基督教団 石山教会 at 14:48| 日記
2022年7月31日 主日礼拝説教「この人こそ活ける神なれ」須賀舞副牧師
聖書:ヨハネによる福音書7章40節〜52節、イザヤ書8章23節〜9章6節
説教:「この人こそ活ける神なれ」須賀舞副牧師
主イエス・キリストは、仮庵祭が最高潮の盛り上がりを見せる最中、群衆に向かって大きな声でこう語られました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる(7:37-38)。」これは、救いへの招きの言葉です。この主イエスの「わたしのところへ来なさい」という言葉を、私たちは、先週、喜びの内に聞いたのです。
けれども、この主イエスが語ったことによって、この時、仮庵祭に集まる人々の間には亀裂が生まれてしまったのです。本日の箇所は、仮庵祭に集う人々の様々な反応を伝えます。まず、40節には、主イエスの言葉を受けて、「この人は、本当にあの預言者だ」という人がいたことを伝えます。あの預言者とは、旧約聖書申命記18:15において、モーセが語った言葉を言っています。モーセは、イスラエルの民に、将来わたしのような預言者が現れると言いました。この預言者を主イエスだと考えたのです。
続く41節には「この人はメシアだ」という人もいたと書かれています。メシアとは、神様が遣わす救い主のことです。彼らは、主イエスの「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」という言葉を聞いて、主イエスが神から遣わされて救いのみ業を行う方ではないかと期待していたのです。このように、主イエスの言葉を好意的に受け止めた人々がいました。
一方で、同じ41節は、「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」と話す人がいたことも記します。おそらくこれを言った人は、主イエスがガリラヤ地方のナザレの村に住んでいたということだけを知っていたのでしょう。特に、ガリラヤは当時の人々にとっては、辺境の地でした。そんな所からメシア、救い主が出るはずはない。救い主はダビデの出身地であるベツレヘムから出るはずだ。また、彼らは、主イエスがガリラヤの大工であるヨセフの息子ということも知っていました。けれども聖書では、メシアはダビデの子孫であると言われているのでこの人がメシアであるはずはない、このようにも考えたのです。
けれども聖書をよく読むとそれが間違いであることが分かります。旧約聖書には、この人が言う通り、確かに、メシアはダビデの子孫であり、ベツレヘムに生まれる者であるということが記されています。例えば、サムエル記下7:12には、預言者ナタンがダビデ王に「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。」と預言の言葉を伝えたことが記されています。また、ミカ書5:1には「エフラタのベツレヘムよお前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治めるものが出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」という預言もあります。そして、マタイによる福音書は、この預言通り主イエスがダビデの子孫であると言うことを系図によって説明しているのです。また、マタイによる福音書とルカによる福音書は、主イエスがベツレヘムの馬小屋にお生まれになったということも記しています。つまり、主イエスは、メシアについての預言の通り、ベツレヘムに生まれたダビデの子孫なのです。
43節は、「こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた」と人々の様子を伝えています。祭りの群衆は、主イエスを好意的に受け入れた人々と、メシアではないと否定的に受け入れた人々に二分していました。
「イエスとは誰なのか」神様が遣わしたメシアなのか、そうではなく人々を惑わす者なのか。これは、当時主イエスを取り巻く人々の最大の疑問でした。ヨハネによる福音書は、繰り返しこの疑問に左右される人々の様子を伝えます。そして、これは、主イエスが生きた時代の人々が揺れていたと言うだけではありません。ヨハネによる福音書が記された時代、それから数十年後の初代教会の時代の人々が揺れていた問題でもあったのです。ヨハネによる福音書が記されたのは1世紀後半です。最初はユダヤ教の一派であったキリスト教が独自性を確立しユダヤ教から分離していった時代でありました。キリスト教として歩みを進めていく中で、初代の教会は様々な問題に揺れてきました。例えば、私たちが今読み進めている使徒言行録で伝えられていることがそうでしょう。そこでは、初代教会の人々、使徒と呼ばれた人達が、律法の行いによる義と信仰による義との間で、議論を重ねていたことが記されています。その中で「イエスとは誰なのか」という問いに対して、キリスト教会は、イエスこそ主(神)でありキリスト(救い主)であるという信仰を固くし、律法ではなく、「イエス・キリストへの信仰(ガラテヤ2:16)」によって義とされることを確認していったのでした。
このように、「イエスとは誰なのか」という問いは、どの時代の人々にとっても、繰り返し問われ続ける問題であります。そして、その時代時代にあって、人々はイエスがどのような存在であるかを考え揺れ続けるのです。それは、その時々で社会が、イエスを主とするかどうかで二分しているという意味ではありません。私たちの中で、イエスという存在をめぐって分裂が起こっているということなのです。
私たちの中には、主イエスこそ神が遣わして下さった独り子、救い主であると信じて、その救いにあずかり、感謝と喜びをもって信仰者として生きていこうとしている自分があります。この礼拝に集うみなさんもそのように主を慕い求め、賛美礼拝されていると思います。けれども、もう一方で、私たちは、主イエスから離れ、「イエスとはわたしにとって誰なのか」という問いすら蔑ろにする自分がいるのではないでしょうか。この世はイエスを主とも救い主とも告白しない、もっと言うならば主イエスに無関心な深い闇の世です。そこに私たちは生きています。生きている限り罪はどこまでも私たちを主から引き離そうとするのです。日本キリスト教団信仰告白には、「されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言ことばにして、信仰と生活との誤りなき規範なり。」という一文があります。私たちは、教会から一度外に出た時、普段の生活においてどれだけ聖書を規範に据えて過ごしているでしょうか。どれだけ、イエスを主であり、救い主であると証ししつつ歩んでいるでしょうか。
ヨハネによる福音書が繰り返し語る「イエスとは誰か」という問い。これは、私たちに問われることであります。そして、イエスが誰かということによって私たち自身の中に対立が生じてゆく。44節には、この対立が、この葛藤が、主イエスに対する敵意に繋がっていくと伝えられています。ショッキングかもしれません。けれども、私たちの中には、主を十字架へと向かわせる、主への敵意のかけらが存在するのだと、聖書は指摘しています。本日の箇所は、当時の人々がどんな思いから、どんな状況から主イエスを十字架にかけたのかを明確に語っていると言えるでしょう。
私たちは、それでも自分は、主イエスに対する「敵意」とは無関係だと思ってしまっているかもしれません。けれども、イエスをメシアであると言う一方で、このような人がメシアであろうかとも口にする、自分が知っていることだけで自分勝手にイエス様が誰であるかを判断する。これは決して他人事ではないのです。
私たちは救われた存在でありますが、そもそも誰もが罪人であります。そして、私たちの罪のために主イエスは十字架につけられました。主イエスが十字架の上で血を流され痛み苦しみの全てを耐えられるその姿を前にした時、私たちは一体何を思って十字架の主を見つめるのでしょうか。主イエスを十字架につけた当時の人々と私たちは決して無関係ではないのです。このことを思う時、聖書の言葉は、私たちを「審く言葉」でもあることに気付かされます。
45節からは、祭司長やファリサイ派の人達の反応が伝えられています。彼らも、主イエスの「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」と言う言葉を聞いた人達でした。群衆の間に、イエスは神から遣わされた救い主ではないか、という思いが広がり始めていることに、彼らは懸念を覚えました。イエスという男を何とかしなければと真剣に画策していました。そして、32節において、彼らは主イエスを捉えるために下役達を遣わしていたのです。45節以下では、その下役達が戻ってきたところが描かれています。下役達は、主イエスに対して何もすることなく帰ってきました。それに対して祭司長やファリサイ派の人達が「どうして、あの男を連れて来なかったのか。」と叱責します。実は、上司の命令を破るということは、当時の常識ではありえないことでした。それは、自分自身の命をもかけた行動であったのです。下役達は、主イエスを捉えなかった理由を次のように説明します。「今まで、あの人のように話した人はいません(7:46)。」主イエスの語る言葉には、神様の力が、権威が溢れていました。それに彼らは心打たれ、捕らえることなく帰ってきたのでした。
ここで象徴的な言葉は、祭司長たちがイエス様を「あの男」と言っているのに対して、下役達が「あの人」と言っていることです。ギリシア語にははっきりと語句の違いが表れています。この「人」と言う言葉は、一般的な「人間」を示す言葉です。神様が私たちと同じ「人」となって現れ、語っておられるのだ、という信仰告白がここにあるのです。
下役達が命令を果たさずに帰ってきた時、ファリサイ派の人々は、「お前たちまでも惑わされたのか。」と言いました。この「惑わされた」とは、誘惑に負けて本来の信仰から逸れてしまうということです。ファリサイ派のが、「律法を知らないこの群衆は、呪われている。」と言っていることから、下役達が律法に外れている行いをしたことを指摘していると分かるでしょう。ファリサイ派の人々は、ここで、下役達の代わりに、下役達と同じような思いを持っている群衆を「呪う」と言いました。
簡単に言うならば、ファリサイ派が問題としているのは、律法に定められた、神への冒涜の罪です。唯一の主なる神以外のものを神とする偶像崇拝への罪です。彼らは、前々から、主イエスが主なる神を「父」と呼び、ご自分を「神の子」であると言うことに怒りを覚えていました。主イエスを捕えて殺してやろうと思うほどに憤っていました。そして、主イエスを神が遣わすメシアかもしれない、と言い出す人々を呪ったのです。
そこにニコデモという人がやってきました。彼は、下役達を咎めた人々と同じファリサイ派に属する議員でした。以前、主イエスのもとに夜こっそりと訪ねてきて、主イエスに教えを請うた人物です(3:1以下)。そのニコデモがここで再び登場します。ニコデモは、自分の仲間達に意見しました。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか(7:51)。」なぜきっちり裁判もしないで、この人を罪人だと定めるのか、と言うのです。今も同じですが、人を裁くためには、証人が必要です。そして、正しい手順、手続きを経て審いてゆく。この当たり前のことを抜きにして、自分勝手なことを言ってはいけない、とニコデモは諭すのです。
けれども、ニコデモの言葉にはもう一つの意図がありました。実は、「本人から事情を聞き」と言う文章は意訳です。直訳では、「本人に聞き」となるのです。ここには、主イエスの言葉を聞きなさいという、ニコデモの思いがあったのではないでしょうか。以前、自分も主イエスの元を訪ね、主イエスの言葉を聞いた。下役達が聞いたのと同じ、力ある言葉を聞いた。主イエスがニコデモに語った言葉の中には、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(3:16)。」と言うあの有名な主の言葉もありました。
主の言葉を何一つ聞かないでいて、どうして「イエスは罪人である」と定めることができるのか。ニコデモは、自分が聞いた言葉を仲間達にも聞いて欲しいと願っていたのかもしれません。けれどもニコデモの言葉に対する仲間達の答えはこうでした。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる(7:52)。」主イエスを否定する言葉です。ガリラヤという辺境の地からはメシアはおろか預言者も出ないだろう、あなたもそこの出身なのか、とニコデモに対してさえも皮肉を込めて言うのです。それは41節で「メシアはガリラヤから出るだろうか。」と、群衆のある者たちが言っていた言葉でした。ファリサイ派の人々も同じように考えていたのです。それ故に、イエスがメシアであるはずはない、と決め付けているのです。しかし、これは、旧約聖書を正しく読んでいない者の発言です。なぜなら、本日の旧約聖書イザヤ書8:23には「異邦人のガリラヤは、栄光を受ける」とあるからです。また、それに続く9:5には、「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」という、主イエスの誕生の預言が語られているのです。ですから、ガリラヤからはメシアは出ない、という彼らの主張は聖書を知らない発言です。自分勝手に主イエスを否定する理由を並べているに過ぎないのです。
まとめに入っていきたいと思います。「イエスは誰なのか。」この問いに対する答えを本日の説教題としました。それは「この人こそ活ける神なれ」です。祭りの群衆のある人々は、主イエスを「良い人だ(7:12)。」と言ったり、モーセが将来来ると預言した「あの預言者だ(7:40)。」と言ったり、「メシアだ(7:41)。」と言いました。しかし、別の人々は、「群衆を惑わしている(7:12)。」と主イエスを否定しました。どの時代でも、人は、このような対立を抱き、葛藤し、私にとって一体「イエスとは誰なのか」ということを問い続けています。そして、結局、わたしたちは、神でないものを神とする生き方に沈んでしまうのです。まず、私たちは、己の罪がそこまで深く重いものであるということを自覚する必要があるでしょう。
けれども、思い出してください。その罪の只中に、入ってきてくださるお方がいたことを。罪の淵にまで沈み、自分でもどうしようもなくもがいている私たちの内にやってきてくださったお方がいることを。そのお方こそ、私たちを救ってくださるお方、私たちの主イエス・キリストであります。主イエス・キリストは、祭りの人々に、代々の教会に、そして、今ここに集う私たちにこのように呼びかけられました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる(7:37-38)。」ファリサイ派が遣わした下役は、この主の言葉を聞きました。そして、「今まで、あの人のように話した人はいません(7:46)。」と証言しました。それは、これまで出逢った人、知っている偉人などの中にも、あの人のように語る人はいなかったということです。
では、イエス様以外に、そのように語る人とは誰なのでしょうか。どのような存在なのでしょうか。それは、聖書が旧約・新約に一貫して伝える神様です。主イエス・キリストは、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる(7:37-38)。」と、神様の言葉をお語りになったのです。神様が肉をとって人となってくださったイエスというお方、このお方の教え、このお方の業、そして十字架の死、復活、昇天にこそ、神様の存在が示されているのです。
「この人こそ活ける神なれ」この信仰の内にこの一週間歩んで参りたいと願います。そして、神様以外のものを神とすることから解放され、神様と一つとされる祝福のうちに歩んで参りましょう。
説教:「この人こそ活ける神なれ」須賀舞副牧師
主イエス・キリストは、仮庵祭が最高潮の盛り上がりを見せる最中、群衆に向かって大きな声でこう語られました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる(7:37-38)。」これは、救いへの招きの言葉です。この主イエスの「わたしのところへ来なさい」という言葉を、私たちは、先週、喜びの内に聞いたのです。
けれども、この主イエスが語ったことによって、この時、仮庵祭に集まる人々の間には亀裂が生まれてしまったのです。本日の箇所は、仮庵祭に集う人々の様々な反応を伝えます。まず、40節には、主イエスの言葉を受けて、「この人は、本当にあの預言者だ」という人がいたことを伝えます。あの預言者とは、旧約聖書申命記18:15において、モーセが語った言葉を言っています。モーセは、イスラエルの民に、将来わたしのような預言者が現れると言いました。この預言者を主イエスだと考えたのです。
続く41節には「この人はメシアだ」という人もいたと書かれています。メシアとは、神様が遣わす救い主のことです。彼らは、主イエスの「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」という言葉を聞いて、主イエスが神から遣わされて救いのみ業を行う方ではないかと期待していたのです。このように、主イエスの言葉を好意的に受け止めた人々がいました。
一方で、同じ41節は、「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」と話す人がいたことも記します。おそらくこれを言った人は、主イエスがガリラヤ地方のナザレの村に住んでいたということだけを知っていたのでしょう。特に、ガリラヤは当時の人々にとっては、辺境の地でした。そんな所からメシア、救い主が出るはずはない。救い主はダビデの出身地であるベツレヘムから出るはずだ。また、彼らは、主イエスがガリラヤの大工であるヨセフの息子ということも知っていました。けれども聖書では、メシアはダビデの子孫であると言われているのでこの人がメシアであるはずはない、このようにも考えたのです。
けれども聖書をよく読むとそれが間違いであることが分かります。旧約聖書には、この人が言う通り、確かに、メシアはダビデの子孫であり、ベツレヘムに生まれる者であるということが記されています。例えば、サムエル記下7:12には、預言者ナタンがダビデ王に「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。」と預言の言葉を伝えたことが記されています。また、ミカ書5:1には「エフラタのベツレヘムよお前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治めるものが出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」という預言もあります。そして、マタイによる福音書は、この預言通り主イエスがダビデの子孫であると言うことを系図によって説明しているのです。また、マタイによる福音書とルカによる福音書は、主イエスがベツレヘムの馬小屋にお生まれになったということも記しています。つまり、主イエスは、メシアについての預言の通り、ベツレヘムに生まれたダビデの子孫なのです。
43節は、「こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた」と人々の様子を伝えています。祭りの群衆は、主イエスを好意的に受け入れた人々と、メシアではないと否定的に受け入れた人々に二分していました。
「イエスとは誰なのか」神様が遣わしたメシアなのか、そうではなく人々を惑わす者なのか。これは、当時主イエスを取り巻く人々の最大の疑問でした。ヨハネによる福音書は、繰り返しこの疑問に左右される人々の様子を伝えます。そして、これは、主イエスが生きた時代の人々が揺れていたと言うだけではありません。ヨハネによる福音書が記された時代、それから数十年後の初代教会の時代の人々が揺れていた問題でもあったのです。ヨハネによる福音書が記されたのは1世紀後半です。最初はユダヤ教の一派であったキリスト教が独自性を確立しユダヤ教から分離していった時代でありました。キリスト教として歩みを進めていく中で、初代の教会は様々な問題に揺れてきました。例えば、私たちが今読み進めている使徒言行録で伝えられていることがそうでしょう。そこでは、初代教会の人々、使徒と呼ばれた人達が、律法の行いによる義と信仰による義との間で、議論を重ねていたことが記されています。その中で「イエスとは誰なのか」という問いに対して、キリスト教会は、イエスこそ主(神)でありキリスト(救い主)であるという信仰を固くし、律法ではなく、「イエス・キリストへの信仰(ガラテヤ2:16)」によって義とされることを確認していったのでした。
このように、「イエスとは誰なのか」という問いは、どの時代の人々にとっても、繰り返し問われ続ける問題であります。そして、その時代時代にあって、人々はイエスがどのような存在であるかを考え揺れ続けるのです。それは、その時々で社会が、イエスを主とするかどうかで二分しているという意味ではありません。私たちの中で、イエスという存在をめぐって分裂が起こっているということなのです。
私たちの中には、主イエスこそ神が遣わして下さった独り子、救い主であると信じて、その救いにあずかり、感謝と喜びをもって信仰者として生きていこうとしている自分があります。この礼拝に集うみなさんもそのように主を慕い求め、賛美礼拝されていると思います。けれども、もう一方で、私たちは、主イエスから離れ、「イエスとはわたしにとって誰なのか」という問いすら蔑ろにする自分がいるのではないでしょうか。この世はイエスを主とも救い主とも告白しない、もっと言うならば主イエスに無関心な深い闇の世です。そこに私たちは生きています。生きている限り罪はどこまでも私たちを主から引き離そうとするのです。日本キリスト教団信仰告白には、「されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言ことばにして、信仰と生活との誤りなき規範なり。」という一文があります。私たちは、教会から一度外に出た時、普段の生活においてどれだけ聖書を規範に据えて過ごしているでしょうか。どれだけ、イエスを主であり、救い主であると証ししつつ歩んでいるでしょうか。
ヨハネによる福音書が繰り返し語る「イエスとは誰か」という問い。これは、私たちに問われることであります。そして、イエスが誰かということによって私たち自身の中に対立が生じてゆく。44節には、この対立が、この葛藤が、主イエスに対する敵意に繋がっていくと伝えられています。ショッキングかもしれません。けれども、私たちの中には、主を十字架へと向かわせる、主への敵意のかけらが存在するのだと、聖書は指摘しています。本日の箇所は、当時の人々がどんな思いから、どんな状況から主イエスを十字架にかけたのかを明確に語っていると言えるでしょう。
私たちは、それでも自分は、主イエスに対する「敵意」とは無関係だと思ってしまっているかもしれません。けれども、イエスをメシアであると言う一方で、このような人がメシアであろうかとも口にする、自分が知っていることだけで自分勝手にイエス様が誰であるかを判断する。これは決して他人事ではないのです。
私たちは救われた存在でありますが、そもそも誰もが罪人であります。そして、私たちの罪のために主イエスは十字架につけられました。主イエスが十字架の上で血を流され痛み苦しみの全てを耐えられるその姿を前にした時、私たちは一体何を思って十字架の主を見つめるのでしょうか。主イエスを十字架につけた当時の人々と私たちは決して無関係ではないのです。このことを思う時、聖書の言葉は、私たちを「審く言葉」でもあることに気付かされます。
45節からは、祭司長やファリサイ派の人達の反応が伝えられています。彼らも、主イエスの「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」と言う言葉を聞いた人達でした。群衆の間に、イエスは神から遣わされた救い主ではないか、という思いが広がり始めていることに、彼らは懸念を覚えました。イエスという男を何とかしなければと真剣に画策していました。そして、32節において、彼らは主イエスを捉えるために下役達を遣わしていたのです。45節以下では、その下役達が戻ってきたところが描かれています。下役達は、主イエスに対して何もすることなく帰ってきました。それに対して祭司長やファリサイ派の人達が「どうして、あの男を連れて来なかったのか。」と叱責します。実は、上司の命令を破るということは、当時の常識ではありえないことでした。それは、自分自身の命をもかけた行動であったのです。下役達は、主イエスを捉えなかった理由を次のように説明します。「今まで、あの人のように話した人はいません(7:46)。」主イエスの語る言葉には、神様の力が、権威が溢れていました。それに彼らは心打たれ、捕らえることなく帰ってきたのでした。
ここで象徴的な言葉は、祭司長たちがイエス様を「あの男」と言っているのに対して、下役達が「あの人」と言っていることです。ギリシア語にははっきりと語句の違いが表れています。この「人」と言う言葉は、一般的な「人間」を示す言葉です。神様が私たちと同じ「人」となって現れ、語っておられるのだ、という信仰告白がここにあるのです。
下役達が命令を果たさずに帰ってきた時、ファリサイ派の人々は、「お前たちまでも惑わされたのか。」と言いました。この「惑わされた」とは、誘惑に負けて本来の信仰から逸れてしまうということです。ファリサイ派のが、「律法を知らないこの群衆は、呪われている。」と言っていることから、下役達が律法に外れている行いをしたことを指摘していると分かるでしょう。ファリサイ派の人々は、ここで、下役達の代わりに、下役達と同じような思いを持っている群衆を「呪う」と言いました。
簡単に言うならば、ファリサイ派が問題としているのは、律法に定められた、神への冒涜の罪です。唯一の主なる神以外のものを神とする偶像崇拝への罪です。彼らは、前々から、主イエスが主なる神を「父」と呼び、ご自分を「神の子」であると言うことに怒りを覚えていました。主イエスを捕えて殺してやろうと思うほどに憤っていました。そして、主イエスを神が遣わすメシアかもしれない、と言い出す人々を呪ったのです。
そこにニコデモという人がやってきました。彼は、下役達を咎めた人々と同じファリサイ派に属する議員でした。以前、主イエスのもとに夜こっそりと訪ねてきて、主イエスに教えを請うた人物です(3:1以下)。そのニコデモがここで再び登場します。ニコデモは、自分の仲間達に意見しました。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか(7:51)。」なぜきっちり裁判もしないで、この人を罪人だと定めるのか、と言うのです。今も同じですが、人を裁くためには、証人が必要です。そして、正しい手順、手続きを経て審いてゆく。この当たり前のことを抜きにして、自分勝手なことを言ってはいけない、とニコデモは諭すのです。
けれども、ニコデモの言葉にはもう一つの意図がありました。実は、「本人から事情を聞き」と言う文章は意訳です。直訳では、「本人に聞き」となるのです。ここには、主イエスの言葉を聞きなさいという、ニコデモの思いがあったのではないでしょうか。以前、自分も主イエスの元を訪ね、主イエスの言葉を聞いた。下役達が聞いたのと同じ、力ある言葉を聞いた。主イエスがニコデモに語った言葉の中には、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(3:16)。」と言うあの有名な主の言葉もありました。
主の言葉を何一つ聞かないでいて、どうして「イエスは罪人である」と定めることができるのか。ニコデモは、自分が聞いた言葉を仲間達にも聞いて欲しいと願っていたのかもしれません。けれどもニコデモの言葉に対する仲間達の答えはこうでした。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる(7:52)。」主イエスを否定する言葉です。ガリラヤという辺境の地からはメシアはおろか預言者も出ないだろう、あなたもそこの出身なのか、とニコデモに対してさえも皮肉を込めて言うのです。それは41節で「メシアはガリラヤから出るだろうか。」と、群衆のある者たちが言っていた言葉でした。ファリサイ派の人々も同じように考えていたのです。それ故に、イエスがメシアであるはずはない、と決め付けているのです。しかし、これは、旧約聖書を正しく読んでいない者の発言です。なぜなら、本日の旧約聖書イザヤ書8:23には「異邦人のガリラヤは、栄光を受ける」とあるからです。また、それに続く9:5には、「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」という、主イエスの誕生の預言が語られているのです。ですから、ガリラヤからはメシアは出ない、という彼らの主張は聖書を知らない発言です。自分勝手に主イエスを否定する理由を並べているに過ぎないのです。
まとめに入っていきたいと思います。「イエスは誰なのか。」この問いに対する答えを本日の説教題としました。それは「この人こそ活ける神なれ」です。祭りの群衆のある人々は、主イエスを「良い人だ(7:12)。」と言ったり、モーセが将来来ると預言した「あの預言者だ(7:40)。」と言ったり、「メシアだ(7:41)。」と言いました。しかし、別の人々は、「群衆を惑わしている(7:12)。」と主イエスを否定しました。どの時代でも、人は、このような対立を抱き、葛藤し、私にとって一体「イエスとは誰なのか」ということを問い続けています。そして、結局、わたしたちは、神でないものを神とする生き方に沈んでしまうのです。まず、私たちは、己の罪がそこまで深く重いものであるということを自覚する必要があるでしょう。
けれども、思い出してください。その罪の只中に、入ってきてくださるお方がいたことを。罪の淵にまで沈み、自分でもどうしようもなくもがいている私たちの内にやってきてくださったお方がいることを。そのお方こそ、私たちを救ってくださるお方、私たちの主イエス・キリストであります。主イエス・キリストは、祭りの人々に、代々の教会に、そして、今ここに集う私たちにこのように呼びかけられました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる(7:37-38)。」ファリサイ派が遣わした下役は、この主の言葉を聞きました。そして、「今まで、あの人のように話した人はいません(7:46)。」と証言しました。それは、これまで出逢った人、知っている偉人などの中にも、あの人のように語る人はいなかったということです。
では、イエス様以外に、そのように語る人とは誰なのでしょうか。どのような存在なのでしょうか。それは、聖書が旧約・新約に一貫して伝える神様です。主イエス・キリストは、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる(7:37-38)。」と、神様の言葉をお語りになったのです。神様が肉をとって人となってくださったイエスというお方、このお方の教え、このお方の業、そして十字架の死、復活、昇天にこそ、神様の存在が示されているのです。
「この人こそ活ける神なれ」この信仰の内にこの一週間歩んで参りたいと願います。そして、神様以外のものを神とすることから解放され、神様と一つとされる祝福のうちに歩んで参りましょう。
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2022年07月25日
2022年7月24日 主日礼拝説教音声「救いの泉への招き」須賀舞副牧師
聖書:ヨハネによる福音書7章37節〜39節、イザヤ書12章1節〜6節
説教:「救いの泉への招き」須賀舞副牧師
@Spotify
https://open.spotify.com/episode/5GtjyPFXKPAnJ7pshbw9yL?si=30b66744c54d41cc
AYouTube
https://youtu.be/JiR4D6E3Ams
皆様の上に、神様の祝福がありますように、心より、お祈り申し上げます。
説教:「救いの泉への招き」須賀舞副牧師
@Spotify
https://open.spotify.com/episode/5GtjyPFXKPAnJ7pshbw9yL?si=30b66744c54d41cc
AYouTube
https://youtu.be/JiR4D6E3Ams
皆様の上に、神様の祝福がありますように、心より、お祈り申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:56| 日記