2022年07月15日

2022年7月17日 主日礼拝説教「別れから新たな出会い」須賀工牧師

聖書:使徒言行録15章36節〜16章5節、詩編130篇1節〜8節

 今朝、私達に、与えられた御言葉は、使徒言行録15章36節から16章5節の御言葉であります。改めて36節の御言葉をお読みします。「数日の後、パウロはバルナバに言った。『さあ、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見て来ようではないか』」。
 ここから、使徒パウロによる、第二回伝道旅行が、始まります。聖書箇所で、申し上げるならば、本日の使徒言行録15章36節から18章22節まで。それが、第二回伝道旅行となります。
 第二回伝道旅行は、第一回のものと比べると、明らかに、規模が大きいものとなります。第一回伝道旅行は、小アジアを巡るものでありました。それに対して、第二回伝道旅行は、今で言う所のヨーロッパにまで拡大することになります。
 そもそも、第二回伝道旅行の目的は、何でしょうか。聖書によると、「第一回伝道旅行で訪れた教会への再訪問」することであります。
 しかし、結果的に、第二回伝道旅行は、ヨーロッパにまで、拡大することになるわけです。聖書によると、使徒パウロたちは、聖霊の導きよって、ギリシアにまで、その足を伸ばしていくことになったようであります(正確には、小アジアで御言葉を語ることを聖霊によって禁じられた)。
 これは、何を意味しているのでしょうか。それは、この伝道旅行そのものが、初めから終わりに至るまで、人間の計画によるものではない、ということです。そうではなくて、この伝道旅行そのものが、人間の計画や思いを越えた、神様の御業である、ということであります。そのことが、ここで、まず、意識されているのであります。伝道の主体は、人間ではありません。神様が、そこで生きて働き、必要な時に、必要な人を、必要な場所に、備えてくださるのであります。そのことを、まず、ここで、共に覚えたいのであります。そして、そのことに思いを馳せつつ、続きの御言葉に耳を傾けていきたいと思います。
 さて、第二回伝道旅行は、どのような仕方で、始まったのでしょうか。37節から41節の御言葉をお読みします。「バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネも連れて行きたいと思った。しかしパウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、連れて行くべきでないと考えた。そこで、意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになって、バルナバはマルコを連れてキプロス島へ向かって船出したが、一方、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。そして、シリア州やキリキア州を回って教会を力づけた」。
 この伝道旅行は、その出発から、大きな問題・トラブルを抱えたようです。その結果、パウロは、バルナバと仲違いをし、別れてしまったのであります。つまり、この伝道旅行は、悲しい別れから始まったのです。
 そもそも、この仲違いは、何が、原因だったのでしょうか。聖書によると、「マルコと呼ばれるヨハネ」を、この伝道旅行に、連れて行くか否か。それが、このトラブルの原因となったのであります。ここで、バルナバは、マルコを連れて行く。そのように主張しました。それに対して、使徒パウロは、マルコを連れて行かない。そのように主張したのであります。
 なぜ、使徒パウロは、マルコを連れていかないのでしょうか。なぜ、そのように判断したのでしょうか。その理由については、今朝の御言葉の38節に記されています。「しかしパウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、連れて行くべきでないと考えた」。このように、聖書には記されています。
 そもそも、なぜ、マルコは、途中で、伝道旅行から離れたのでしょうか。実は、はっきりとしたことは分からないのです。元々、第一伝道旅行は、バルナバの故郷から始まりました。マルコは、バルナバの従兄であると言われていましたから、彼の親族として、故郷伝道を手伝っていた。その程度のモチベーションだったのかもしれません。
 いずれにせよ、このマルコを巡って、バルナバとパウロが、割れてしまったわけです。これは、決して、個人的な感情による分裂ではありません。ガラテヤの信徒への手紙2章13節を読みますと、バルナバは、どうやら、ペトロと同様に、ユダヤ主義的価値観を、完全に拭いきれていなかったようであります。それ故に、この分裂は、伝道の進め方だけではなく、福音理解、救済理解の相違によるものも絡んでいるのではないか。そのようにも思えるのであります。
 このように、第二回伝道旅行は、バルナバとの別れによる、深い痛み。そして、悲しみから始まったわけであります。聖書によると、使徒パウロの旅立ちは、多くの人々の祝福に溢れたものでありましたが、ただ使徒パウロにとって、この旅立ちは、非常に、後味の悪いものであったとも言えるかもしれません
 使徒パウロにとって、バルナバは、恩人です。そして、同労者であります。彼がいなければ、使徒パウロが、教会に加入することも出来なかったかもしれません。その彼と、激しい衝突をしてしまった。別れてしまった。理由は、どうであれ、人間の交わりにおける、限界、あるいは、大きなが挫折がある。そのように言えるのです。人間の弱さや、人間関係の難しさを思い知らされる。そのような出来事が、ここで起きたわけです。
 繰り返しになりますが、第二回伝道旅行は、このように、人間関係における挫折。そして、失敗から始まったのです。しかし、神様の伝道の御業は、その失敗を越えて、新しい歩みへと変えられていきます。いや、この失敗や挫折すらも、神様の御業によって、用いられ、新しい希望を生み出すことになるのであります。
16章1節から5節の御言葉をお読みします。「パウロは、デルベにもリストラにも行った。そこに、信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父親に持つ、テモテという弟子がいた。彼は、リストラとイコニオンの兄弟の間で評判の良い人であった。パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。彼らは方々の町を巡回して、エルサレムの使徒と長老たちが決めた規定を守るようにと、人々に伝えた。こうして、教会は信仰を強められ、日ごとに人数が増えていった」。
 使徒パウロは、ここで、テモテという人物と出会います。このテモテが、後に、パウロの同労者になるのです。つまり、伝道者になるのであります。
 聖書によると、テモテの母親は、クリスチャンでありました。因みに、テモテへの手紙2章5節を読むと、彼の祖母もクリスチャンであったようです。
 テモテの母と祖母が、クリスチャンになったのは、恐らく、第一回伝道旅行の時であります。ちなみに、第一回伝道旅行で、パウロは、リストラにて、激しい迫害を受け、瀕死になります。正に、希望のない、絶望に満ちた伝道でありました。
 しかし、この苦しみに満ちた伝道によって、それでも、そこで、キリストを受け入れ、キリストを信じ、救われる人がいた。いや、それだけではありません。迫害の中にあっても、その信仰を守り通し、その子に、信仰を継承する人たちがいたわけです。
 このことは、使徒パウロにとっても、大きな、深い慰めであったと思うのです。パウロは、バルナバとの「別れ」という挫折を経験したのです。第二回伝道旅行は、挫折や失敗から始まったのであります。
 しかし、今、歩み出した先に、テモテがいたのです。信仰が確かに受け継がれ、守られていたことを知ったのであります。激しい迫害の中にありながらも、散ることのない希望を、パウロは見たのであります。激しい迫害の中にさらされていても、神様は死んでいない。福音は死んでいない。いや、神は生きて働いている。その深い幸いと喜びを、パウロは、ここで味わったのではないかと思うのであります。
 聖書によると、使徒パウロは、ここでテモテに、割礼を授けました。この行為は、今までの使徒パウロの考え方に、反するものであるかもしれません。
 しかし、使徒パウロが、ここでテモテに、割礼を授けたのは、ユダヤ人の会堂で、テモテが、福音を語る。その機会を与えるためです。割礼を受けなければ会堂に入ることも、語ることもゆるされていないからです。
 使徒パウロは、何よりも、福音を伝道する。そのことを第一に考えていたようです。伝道するためには、何でもするのです。何にでもなるのです。そこに、福音に生きるものの自由な姿があります。もしかすると、その伝道に対する熱意が、バルナバとの分裂を生んだと言えます。
しかし、それは、自分のこと、人間のことを優先した結果ではなく、神様を一筋に優先した。その結果なのであります。そして、その先にあるのは、破滅ではなく、新たな出会いなのであります。
 このように、伝道は、時に、挫折を生むことがあります。人と人が分かれていくこともあります。神様の御業の為に、分裂することもあるわけです。しかし、大事なことは、人間の思いに立つのではなく、神が望んでおられること。そこに立つことであります。その先に、主は、その挫折や分裂すらも、用いて、新しい世界を見せてくださるのであります。人間の計画や思惑を超えて、神様の御計画の内に、伝道が推進されていく。その幸いを見せて下さるのです。神様が、今も生きて働いている。その事実を見せてくださるのであります。
 さて、使徒パウロとバルナバの関係は、ここで、途絶えてしまうのでしょうか。聖書によると、この後、使徒パウロと共に、バルナバはでてきません。但し、実は、マルコは、出てくるのです。Uテモテへの手紙4章11節で、使徒パウロは、マルコの名前を挙げています。
 そして、それによると、マルコは、パウロの同労者であった。よき助け手になっていたようです。一説によれば、このマルコが、マルコによる福音書の著者となったとも言われています。いずれにせよ、最後の最後には、関係が回復しているのです。その意味で、恐らく、バルナバとも関係を回復したのではないかと思うわけです。
 この二人の決裂は、伝道の進め方、あるいは、福音の見方の違いによるものでした。しかし、どちらも、最低限、同じ福音に立って、同じ使命に立っていたわけです。一人のキリストによる、ただ一つの救いを共有はしていたわけであります。エルサレム使徒会議は、それを確かとする意味もありました。
でありますから、この二つの決裂を収束したのは、人間の価値観ではありません。正に、福音そのものであると言えるのです。同じ福音に立ち、同じ使命を持つ。それこそが、お互いの決裂に、終止符を打つのです。
 私たちもまた、分裂することがあるのです。教派、教団、教会にて、分裂が生じるのです。その分裂による溝を埋めるものがあるとするならば、それは、私達の情ではありません。同じ福音にたつこと。十字架の死と復活の救い主のもとにたつ、ということ。それ以外にないのです。その深い恵みの下に、共に立ち帰りつつ、一つの体として、再び、新たに歩み出すものでありたいと思うのであります。
 伝道は、人間の計画によるものではありません。神様の御計画によるものであります。人間の計画は、ことごとく、打ち砕かれます。神様の働きによるものです。私達は、その神様の御業に参与させていただいているのであります。そして、何よりも、伝道が神様の御業であるとするならば、今、あなたが、ここで御言葉に聴き、今、あなたがキリスト者とされていること。そのこともまた、神様の御計画であり、御心そのものなのであります。その救いの恵みは、いかなる迫害が来ようとも、それを乗り越えて、あなたを生かす恵みです。その深い幸いにも、心を留めつつ、共に、主に与えられた務めに仕えたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:57| 日記

2022年07月11日

2022年7月10日 主日礼拝説教音声「励ましに満ちる」須賀工牧師

聖書:使徒言行録15章22節〜35節、イザヤ書19章16節〜25節
説教:「励ましに満ちる」須賀工牧師

@Spotify
https://open.spotify.com/episode/1c6nvEv67M5dKxexAJBJe8?si=4cefbda4fedc417b

AYouTube
https://youtu.be/A12jJfzz__0

皆様の上に、神様の祝福が豊かにありますように、心よりお祈り申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:08| 日記

2022年07月09日

2022年7月17日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:創世記37章23節〜36節
説教:「売られるヨセフ」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:使徒言行録15章36節〜16章5節、詩編130篇1節〜8節
説教:「別れから新たな出会いへ」須賀工牧師

感染予防対策をした上で、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:17| 日記