2022年07月09日

2022年7月10日 主日礼拝説教「励ましに満ちる」須賀 工牧師

聖書:使徒言行録15章22節〜35節、イザヤ書19章16節〜25節
説教:「励ましに満ちる」須賀 工牧師

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録15章22節から35節の御言葉であります。一言で申し上げるなら、今朝の御言葉は、話の流れ上、先週の続きとなっています。
 先週の御言葉は、使徒言行録15章1節から21節の御言葉です。新共同訳聖書の小見出しにもありますように、「エルサレム使徒会議」に関する御言葉です。簡単に、話の流れを振り返ってみたいと思います。
 そもそも、この問題は、アンティオキア教会から始まりました。このアンティオキア教会は、世界で初めて、ユダヤ人ではなくて、「異邦人」を中心とした教会であります。その主だった指導者は、パウロとバルナバです。
 さて、ある時、ユダヤ人クリスチャンたちが、このアンティオキア教会に、訪問をします。彼らは、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えたようです(使徒15章1節)。
 そもそも、「割礼」とは、「ユダヤ人」であることの「印」です。つまり、彼らは、「異邦人も『割礼』を受けて『ユダヤ人』にならなければ救われない」。このように、教えたわけであります。違う言い方をするならば、「割礼」こそが、救いの「条件」であると教えたのであります。
 アンティオキア教会の指導者であるパウロとバルナバは、神様の恵みによって、あるいは、与えられた信仰によって、異邦人は、異邦人のままで、無条件に救われる。このように教えてきました。つまり、一方では、神様の無条件の救いを教え、もう一方では、割礼を条件とした救いが教えられてしまったわけです。それ故に、このキリストの救いの理解を巡って、激しい対立が起きてしまったのであります。そして、この対立と論争が、後に「エルサレム使徒会議」へと発展していくことになったわけであります。
 この会議の結論は、どのようなものであったでしょうか。それは、異邦人は、異邦人のままで、割礼を受けることなく、ただ、イエスを救い主と信じる、信仰によって、無条件で、神様の救いに、生きることができる。これが、教会の出した結論となったわけです。この会議の結論なくして、私達の救いもなかった。そう思うならば、この決断が、この後の世界伝道に、大きな影響を与えるものであったことが分かるかもしれません。
 さて、今朝の御言葉は、その続きの御言葉であります。内容的に言うならば、この会議で出された結論を、アンティオキア教会を始め、異邦人を中心とする諸教会に、手紙にて、伝達した、という話です。
教会が、使者(ユダとシラス)に託した手紙には、何が書かれていたのでしょうか。28節と29節の御言葉をお読みします。「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります」。
 ここでは、まず、「あなたがたに重荷を負わせない」という言葉が記されています。これは要するに、主イエス・キリストの救いのために、「割礼」は強制されないのだ、ということです。言い方を変えて、申し上げるならば、ユダヤ人にならなくても、異邦人は、異邦人のままで、ただ、神様の恵みにより、信仰によって、私達は皆、分け隔てなく、救われていくのだ、ということであります。これが、教会の揺らぐことのない決定となったのであります。
 しかし、この手紙を読み進めていくと、書かれていたことは、それだけではなかったようです。この手紙の結論には、幾つかの「但し書き」が、加えて書かれているようです。数で言うならば、「四つの但し書き」があります。
 四つの但し書きとは、どういうものなのでしょうか。@「偶像に献げられたものを避ける」A「血と絞殺した動物の肉を避ける」B「血を避ける」B「みだらな行い避ける」ということです。
この四つの但し書きには、それぞれに共通していることがあります。それは、どれもが、「律法」によって、禁止されていることであるということ。そして、どれもが、異邦人の土地で、普通に行われていたことでもあるということです。
 つまり、「割礼」を受けなくても、恵みによって、神様の救いを受けることはできるのです。しかし、これから異邦人とユダヤ人が、一つの体として生きていく。共に生きていく。共に食卓を囲んで生きていく。その時、この四つのことだけは、避けて欲しい。そのことが、ここで、示されていることなのであります。
そもそも、律法によって生まれ、律法によって育てられたユダヤ人と、異邦人とでは、その生き方や生活様式は、全く違うのであります。その違う人間同士が、一つの神の家族となるのです。一つの体となるのです。それは、そんなに、簡単なことではなかったはずです。抵抗感や嫌悪感もあったことでありましょう。 人間は、決して、強いものではありません。直ぐに、変わることはできませんし、今までのこだわりを捨てきることは、容易ではないのです。
 しかし、それでも、何とかして、キリストの救いを中心に、一つの共同体、神の家族となってほしい。キリストの救いの光の中で、違いを越えて、一致してほしい。そのためには、どうしても、まず、ユダヤ人に対して、配慮をしてほしい。そのような苦心の結果、導き出された、この結論であったと言えるかもしれません。
 ここで重要なことは、この「四つの但し書き」は、決して、「救いの条件」ではない、ということです。この四つの但し書きを、守ることが救いに入る条件ではないのです。
大切なことは、ただ、主イエスの恵みによって救われる。そこに、ユダヤ人も異邦人も関係ないのです。分け隔てはないのです。全ての人が、神様の恵みによって、信仰によって救われるのです。それは、決して、変わることない真理なのです。
 その上で、当時の諸教会は、この「四つの禁止事項」を守らせたのです。それは、まだまだ、ユダヤ人と異邦人、この両者の区別が、人間の側において、乗り越えることが難しかった。その事実を、ここで表しているのです。生活習慣、伝統や文化、あるいは、自分が、今まで大切にしてきたもの、それらを、捨てることは、誰でも難しいものです。
 主イエス・キリストの救いは、誰もかれも、人を区別することはない。そう知っていても、自分の弱さのために、あるいは、兄弟姉妹の弱さのために、つまずいてしまったり、躓かせてしまったりする。それが、人間なのであります。大事なことは、そういう私達がいる、ということを、常に、心に留めているということであります。
 この箇所は、聖書学者の中でも、特に、解釈や議論が分かれる箇所であると言われています。例えば、ガラテヤの信徒への手紙2章には、使徒パウロが、このエルサレム会議の結論について言及している。そのような箇所があります。しかし、不思議なことに、使徒パウロは、この「四つの但し書き」については、一切触れていないのです。その意味で、この「但し書き」そのものは、使徒パウロが、いないところでなされた、別の話し合いの結果が反映しているのではないか。そのような推測や解釈もあるのです。
いずれにせよ、もし、使徒パウロが、この手紙の全内容を知っていたとするならば、彼は、恐らく、その結論に対しては、容易に賛成することはなかったと思います。なぜなら、彼は、徹底的に、神様の恵みと信仰義認を、強調し続けた人物であったからであります。
 しかし、その使徒パウロもまた、ある個所では、次のように、述べています。Tコリントの信徒への手紙9章19節〜23節の御言葉です。「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです‥‥」。
 私達は、キリストによって、律法からも、全ての支配からも、自由なものです。しかし、その自由は、神様のために、隣人のための自由であることを、私達は、忘れてはいけないのであります。
福音によって生かされた者にとって、ユダヤ人の食事規程は、正直、全く、意味がありません。それは、私達が、恵みによって、生かされ、罪と死から解放されているからです。
しかし、キリストを信じつつも、偶像に供えられた肉に対して、まだ嫌悪感や抵抗感を抱く人も、この当時はまだ、存在していたわけです。そういう人を目の前にして、「救われたのだから関係ない」と言って、その肉を食べることは、むしろ、その人の躓きになるわけです。
 キリストの救いを信じていても、自分のこだわりから解放されない人もいます。かつての習慣から逃れられない人もいるわけです。そのように迷っている人、弱さを抱えた人を、裁いたり、咎めたりするのではなく、配慮をしつつ、つまずかせないように、そして、一人一人が、福音から離れて行かないように行動する。それもまた、キリスト者として、大切なことなのであります。
 勿論、福音の外で、神様の御言葉の外で、自由にするものに対しては、時には、厳しく、正しい道へと導く。そのような言葉が必要であります。福音に逸れた自由すらも、許しても良い、ということではありません。いや、福音から逸れた自由は、真の自由ではなく、罪に支配された自由でありましょう。
 私達は、キリストによって、自由にされた人間です。しかし、真に、自由であることは、自分の好き勝手に生きること、好き勝手なこと言うことではありません。与えられている自由を、神様のために、隣人のために、福音を伝えるために、豊かさをもって、用いることが大事なのです。
 それ故に、時には、隣人のために、自分の行動を制限することもあるでしょう。偶像に供えられた肉を食べても良い。そう考えるかもしれません。しかし、兄弟姉妹が、それによって、福音から離れてしまう。そうであるならば、食べないことも、選択すること出来る。そういう所に、真の自由があると言えるわけです。その意味で、真の自由は、神様のためならば、隣人のためならば、喜んで、自分自身の不自由を受け入れることができることなのかもしれません。
 教会には、様々な違いをもった人々が、集められています。価値観が違います。育った環境が違います。賜物も違うわけです。
 しかし、私達は、その違いを越えて、ただ一人の救い主による救いの恵みを、共に分かち合える、一つの体でもあるのです。その意味で、キリストの十字架の死と復活は、私達自身を自由にすると共に、私達の関係性においても自由を実現しているのです。お互いに自由に生き、お互いの自由を尊重することができる。その深い恵みの中にあってこそ、私達は、お互いに、励まし、成長していく群れとなるのです。
 大切なことは、この一つの救い、神様の恵みに、共に立つこと。それを離れては、真の自由はない。そのことを、心に留めて、共に、主の十字架と復活の恵みを見つめつつ、共に、歩み出したいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 07:42| 日記

2022年07月03日

2022年7月3日 主日礼拝説教音声「恵みによって救われる」須賀 工牧師

聖書:使徒言行録15章1節〜21節、イザヤ書56章1節〜8節
説教:「恵みによって救われる」須賀工牧師

@Spotify
https://open.spotify.com/episode/756ywk86rIGe4k9yLotXGs?si=12c9c9a88d604429

AYouTube
https://youtu.be/Bibb2hznZbo

皆様のうえに、神様の祝福が豊かにありますように、心よりお祈り申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:39| 日記

2022年07月02日

2022年7月10日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:創世記32章23節〜31節
説教:「ヤボクの渡し」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:使徒言行録15章22節〜35節、イザヤ書19章16節〜25節
説教:「励ましに満ちる」須賀 工牧師

感染予防対策をした上で、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 18:48| 日記