2022年07月24日

2022年7月31日 礼拝予告

〇教会学校 休会 *8月末まで休会です。

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:ヨハネによる福音書7章40節〜52節、イザヤ書8章23節〜9章6節
説教;「この人こそ活ける神なれ」須賀舞副牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を捧げています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:22| 日記

2022年7月24日 主日礼拝説教「救いの泉への招き」須賀舞副牧師

聖書:ヨハネによる福音書7章37節〜39節、イザヤ書12章1節〜6節
説教:「救いの泉への招き」須賀舞副牧師

 本日与えられた御言葉はヨハネによる福音書7:37-39です。 わたしたちを本当の意味で生かすものとは何でしょうか。わたしたちは今、ここに生きています。辛い時も、悲しい時も、嬉しい時も、笑顔の時も、生きています。何気ない日常に感謝して生きる。人生の節目節目を通ってゆく。その一瞬一瞬、私たちを生かすものは一体何なのでしょう。食糧でしょうか?水でしょうか?お金でしょうか?やりがいややる気といった気の持ちようでしょうか?友人、家族などの存在でしょうか?周りからの評価でしょうか?自信をつけたり自己肯定感を高めることでしょうか?私たちは一体何によって生かされているのか、今日は、まず初めにこのことをご一緒に考えてみたいと思います。
 例えば、ご飯。ご飯は生きるために必要不可欠です。皆さんは今朝何を食べましたか?わたしはお米と味噌汁を食べました。お米や味噌や味噌汁の具が体内に入り、私たちの血となり肉となる。食べ物から栄養をとることは確かに私たちを生かすことです。しかし、聖書は私たちを本当の意味で生かすものが、別にあると言うのです。
 それは主イエス・キリストです。主イエスは、お米や味噌汁みたいに、私たちを生かすために私たちの体内に入って来てくださるのです。そして私たちと一つとなるのです。どういうことでしょう。私たちは、今この時、御言葉を読み、聞いています。その御言葉は私たちの心に入り私たちを霊的に養い生かします。また、私たちは月に一度、聖餐式でパンとぶどう酒に与ります。それは主イエスが十字架で裂かれた肉、流された血を意味しています。主イエスの肉と血を私たちは食し、それが私たちの肉と血になってゆくのです。この通り、私たちは主イエスによって養われ生きているのです。私たちは御言葉を取り入れること、主イエスの肉と血を食すること以外に生きる道はないということです。逆を言うならば、御言葉や聖餐、もっというならば礼拝をすることから私たちが離れてしまう時、私たちは死んだも同然の存在となってしまうということなのです。私たちはこの神様から離れてしまうことの恐ろしさをどれほど深く理解しているでしょうか。 
 主イエスは、本日の箇所において、祭りの祝いの時、人々に「渇いてる人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」と言われました。渇いている人が主イエスの元へと来て、求めると、その人の内から生きた水が川となって流れ出る。流れ出つつけると言った方がいいかもしれません。その生きた水の流れる川は決して枯れることがないのです。
 ところで、ヨハネによる福音書では今日の箇所と似ている、主イエスの言葉を何度か伝えてきました。4章に伝えられている主イエスとサマリアの女の話がそうです。ここで主イエスはこのように言われました。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る(4:14)。」また、主イエスは別の箇所では「わたしが命のパンである。わたしのもとに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない(6:35)。」とも言われました。これらは、本日の箇所と非常に似ている言葉です。どの言葉にも共通することが二つあります。一つ目は、主イエスを信じる者には、その人を本当に生かすための糧が与えられるということ。もう一つは、主イエスを信じる者は永遠に限りなく飢えることがなく、渇くこともないということです。私たちは主イエスの元へと招かれ集まってきた一人一人です。主イエス・キリストを信じて告白する群れです。今朝、この御言葉を通して、私たちは先ほどの2つのことを私たちの喜びとして、もう一度確認したと思います。一つは、私たちが、主イエスから活きた水を飲ませていただいているということ。もう一つは、活きた水を飲む私たちは、尽きることのない永遠の中に入れられているということです。皆さんの中にも主イエス・キリストが命の水を持って、この私のところまでやってきてくださっているのです。
 さて、今日の説教は喜びにみたされた今、ここで終わってしまっても良いのかもしれません。けれども、もう少しお付き合いいただいて、この御言葉に込められた深い恵みをご一緒に味わっていきたいと思うのです。
 まず、主イエスがお語りになったその状況をみていきたいと思います。37節には、「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に」と記されています。この祭りとは、少し前の7:2などを読むと、ユダヤの祭りである仮庵祭(かりいおさい)であることが分かります。仮庵祭とはどんなお祭りでしょうか。仮庵とは仮設の小屋のことを意味します。古代のイスラエルにおいてそれは天幕と呼ばれるテントのようなものでした。イスラエルの民がかつてモーセの時代にエジプトを脱出して40年間荒野を旅した時、彼らは旅の先々で天幕を立て、仮小屋生活をしていました。そしてこの主なる神様によるエジプトからの救いを恵みを覚える祭として祝われていったのが仮庵祭なのです。この仮庵祭は今でもイスラエルの祭りとして祝われています。9月〜10月頃にイスラエルの人たちはレビ記23章にある仮庵祭の規定に従って、7日間庭などにテントをはって生活を送るのです。
 イエス様の時代、当時のユダヤには大きな三つの祭りがありました。過越祭、仮庵祭、五旬節です。イスラエルの人々は祭りのために全土からエルサレムに巡礼し、祝ったのです。その中でも最大の祭りがこの仮庵祭でした。祭りは7日間ありました。その間、祭司は毎朝エルサレム神殿の丘を下りシロアムの池に行って湧き出る水を黄金の桶でくみ、神殿では笛の音が奏でられ、預言者の言葉が歌われました。それが本日お読みした旧約聖書イザヤ書12:3の御言葉です。「あなたたちは喜びのうちに救いの泉から水を汲む。」祭司は「水の門」と呼ばれる門を通って神殿に戻り、祭壇にこの汲んだ水を注ぐのです。この儀式には意味がありました。この儀式は、かつてイスラエルの民が荒野の旅をしている間に岩からほとばしり出る水をもって養われたことを記念し、また、イザヤの預言「わたしは乾いている地に水を注ぎ、乾いた土地に流れを与える(イザヤ44:3)」という主なる神様のご計画が、いつの日か成就することを指し示す儀式でもあるのです。
 仮庵祭は、かつての神様の恵みと、いつか来る「かの日」即ち終わりの日の神様の希望を覚えて喜びのうちに祝う祭りです。祭りの7日間、エルサレムに集う人々の歓声の声は絶えることがなかったそうです。それは、祖先が受けた恵みが、いつの日か成就することを待ち望む喜びの叫びでありました。その最中に、主イエス・キリストはおられたのです。そして、「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日」人々の喜びが最高潮に達しているそのところで、主イエス・キリストは立ち上がって大声で語られました。叫んだと言ってもいいかもしれません。
 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい(7:37)。」これは、人々に対する「招きの言葉」です。わたしのところに来なさい。わたしのところで飲みなさい。主イエスは人々を呼んでおられるのです。
 「渇いている人はだれでも」と主イエスは言われます。けれども、祭りに集まってきた人々は喜びの最高潮にありました。いわば興奮状態です。言い換えるなら、ある種、満たされた状態であったとも言えるでしょう。「渇いている」状態とはもしかしたら真逆の状態であったかもしれません。この祭りの一体どこに「渇いている人」がいたのでしょうか。主イエスは誰に向かって、わたしのところに来なさいと言われたのでしょうか。
 ここに集っておられる皆さんはどうでしょう。皆さんは、自分の「渇き」にどれほど日頃敏感になっているでしょうか。私は、渇いているのか、そうでないのか、考えてみたことはあるでしょうか。主イエスは、祭りに集まる全ての者を呼ばれました。ここに集う者が皆、渇ききっている存在だと言うことをよく知っておられたのです。私たち人間は、私たちだけでは、枯れた川なのです。水分がなくて死にかけた、いや死んでいると言ってもよい存在なのです。そのことをわたしたちはどれだけ自覚しているでしょうか。
 主イエスが、祭りの楽しみ悦びに満たされた人々の歓声の中で、大きな声で叫ばれたことを思う時、主イエスが、どれほどこの人々のために必死になってくださったのかを思わされます。「渇き」とは象徴的な言葉で、人が「罪」の内にある状態を言い表しています。私たちが肉的な喜び、罪の支配の内で喜んでいるそのところに主イエスは入って来てくださるのです。そして、私たちを罪から引き離すほどの大きな声をもって、御元まで引き寄せてくださる。わたしのところに本当の喜びがある、本当の命がある、だからわたしのところに来なさいと招いてくださっているのです。
 ここで一番大切なことは、私たちがまず、自分が飢え乾き切った者なのだ、という自覚を持つことです。そして、主イエスが渇いているものはだれでも来なさいと言って下さっていると言うことです。私たちに必要なことは、主イエス・キリストの招きに答えることだけです。何か功績を積むようなことは必要ありません。祭司が祭りで水を汲むような金の桶もいりません。シロアムの池もいらない。主イエスは仮庵祭に込められた人々の願い、救いの完成が御自身において完成すると言うことをおっしゃっているのです。人は、主イエス・キリストをただ信じるだけで良いのです。
 主イエスは続けてこのように言われます。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる(7:38)。」ここで問題となってくるのが、「その人」とは誰かということです。「わたしを信じる者は」と最初にあることから、「その人」とは「信じる者たち」と読むことができるでしょう。「信じる者たちの内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と。
 しかし、もう一つの読み方は「その人」を「主イエスご自身」と読む読み方です。ここで鍵となるのは、「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」という一節が、「聖書に書いてある」ことだと言うことです。その聖書箇所とは一体どこのことなのでしょうか。当時の人が「聖書」という時は、今で言う旧約聖書のことを言います。そして、実はこの聖書に書いてある」とは一箇所だけを言っているわけでないのです。「その人」が誰かを理解するためには、たくさんの旧約聖書の箇所を読み解いていく必要があります。引照付きの聖書をお持ちの方は、この一節が指し示してる旧約聖書に、エゼキエル書47:1、ゼカリヤ書14:8が参考箇所として挙げられていることに気付くでしょう。代表的な二つの箇所です。それを読んでみたいと思います。
 まず、エゼキエル書の言葉は、エゼキエルが見た幻についてです。
 「彼はわたしを神殿の入口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。…その人は、手に測り縄を持って東の方に出て行き、一千アンマを測り、わたしに水の中を渡らせると、水はくるぶしまであった。更に一千アンマを測って、わたしに水を渡らせると、水は腰に達した。更に彼が一千アンマを測ると、もはや渡ることのできない川になり、水は増えて、泳がなければ渡ることのできない川になった。」
 救いの日にはどんどん水が増えていくという幻です。そして、その水の源は「神殿」でした。これに合わせて、もう一つゼカリヤ書の言葉も読んでみたいと思います。
 「その日、エルサレムから命の水が湧き出で/半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい/夏も冬も流れ続ける。」
 これも「その日」救いが実現する時には、神殿のある都、エルサレムから水が湧き出るという預言です。これらに共通するのは、神殿が水源であるということです。このような言葉を主イエスは引用して語られたのです。ここから、主イエスがおっしゃる「その人の内から」とは第一に「主イエスご自身の内から」と考えることができるでしょう。
 しかし、同時に私たちは、「その人」と言う曖昧な言葉が主イエス・キリストを指しているだけでなく、このわたしのことでもあると読むことができるのです。使徒パウロはガラテヤの信徒への手紙4:19で、信じる者たちの内にキリストが形づくられるのだと主張します。それは私たち信じる者と、主イエス・キリストが結ばれ一致すると言うことです。これを神学用語で「聖化」と言います。元々は罪ある者に過ぎない私たちの内側にキリストが飛び込んできてくださる、それだけではなく私たちの内に住んでくださるのです。枯れた川に水源が形づくられる。そのような意味で、38節の「その人」という言葉はキリストであり、また、キリストと一つとされた私たちでもあると読むことができるのです。
 続く39節には、主イエスのこの言葉に対する但し書きが記されています。主イエスの言葉を説明する言葉です。そこにはこうあります。「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている “霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられたなかったので、 “霊”がまだ降っていなかったからである。」この但し書きは非常に大切です。ここでは2つのことが言われています。一つは、主イエスの言われる活きた水とは信じる者が受ける「霊」のことであると言うこと。もう一つは、信じる者たちが「霊」を受けるのは、この仮庵祭の時ではなく、主イエスが栄光を受けた後のことだと言うことです。
 主イエスが栄光を受ける時とは、十字架の死と復活の後のことを指し示します。主イエス・キリストはこれから仮庵祭の終わった後、十字架への道を進んでゆかれます。十字架にかけられ死なれ、陰府にくだり、三日目に死人の中から甦り、そして天に昇ってゆかれる。これらの主の業が全て終わった時、即ち救いが完成した時に、主イエス・キリストから流れ出る命の水、「霊」が私たちの内に住んでくださるようになるのです。その恵を先立って、この時、主イエスは人々に教えられたのでした。
 そしてもう一つ大切なことがあります。それは、キリストが昇天した後、天から霊が降って「教会」が誕生したと言うことです。ペンテコステの出来事です。この石山教会もキリストの招きに応え集められた者たちの群れです。キリストを頭とするキリストの体なる教会です。ここにいる私たちは、キリストと結ばれ、キリストが心の内に形づくられている一人一人です。だから、安心してこの一週間も世の旅路を歩んでゆきましょう。辛くなっても、私たちには帰ってくる場所があります。寂しくなっても、私たちには共に歩んでくださるお方がいるのです。
 今日の説教題を「救いの泉への招き」としました。イエス様は、あなたを招いておられます。私のところに来なさい、私のところで飲みなさいと呼んでおられます。誰にでも聞こえるくらいの大きな声であなたに語ってくださっているのです。生きているといろんなことがあります。つらいことがあります。もうダメかもしれないと思うこともあります。そんな時、その心の内を牧師に話してもいいかもしれません。親しい人に相談してもいいでしょう。けれども、わたしはつらいんです。わたしはひとりぼっちなんです。もうダメかもしれません。とイエス様の名を呼んでください。イエス様にその思いを打ち明けてください。主イエス・キリストは、あなたを救ってくださるお方です。いつどんな時もわたしのところに来なさいと言って、あなたと共にいてくださるお方です。そして、命を捨ててまであなたを愛してくださるお方なのです。そのお方の愛にしっかりと結ばれてこの一週間も歩んで参りたいと願います。
 
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:19| 日記