2022年09月23日

2022年10月2日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:サムエル記上3章1節〜14節
説教:「サムエルへの主の呼びかけ」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:使徒言行録18章12節〜23節、箴言19章21節
説教:「神の御心ならば」須賀工牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を捧げています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 18:21| 日記

2022年9月25日 主日礼拝説教「ゆるされる」須賀舞副牧師

聖書:ヨハネによる福音書7章53節〜8章11節、エレミヤ書17章12節〜13節
説教:「ゆるされる」須賀舞副牧師

 本日与えられた御言葉はヨハネによる福音書7:53-8:11です。「姦通の女」というタイトルがつけられています。そのタイトル通り、姦通の罪を犯した女と主イエスの出会いの話です。主イエスがエルサレム神殿の境内で人々に教えを語っておられたところに、律法学者やファリサイ派の人たちが、ある女性を連れてやってきました。その女性は主イエスと民衆の輪の真ん中に突き出されます。彼女は姦通の現場で捕らえられたと聖書は伝えています。「姦通」とは、今風に言うならば、「浮気」や「不倫」のことです。現代においても、結婚や婚約関係にある男女が他の相手と関係を持つことは社会的に批判を受けることです。ただ、主イエスの時代においては、その罪の代償はもっと重いものでした。
 当時、「姦通」は、神を冒涜することや殺人と並ぶ死刑に値する重罪でした。例えば、十戒には「姦淫してはならない。」という戒めがあります。そして、レビ記20:10には「人の妻と姦淫する者は、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。」とあります。また、申命記22:22以下も姦淫の罪に関する規定があり、そこには「石で打ち殺さねばならない。」と記されているのです。
 律法学者やファリサイ派の人達は、主イエスの前にこの女の人を突き出してこう言いました。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています(8:4-5)。」もちろん彼らは十戒やレビ記、申命記の言葉に基づいてこのように言っているわけです。その上で、主イエスに「ところで、あなたはどうお考えになりますか。」と問います。まさにこの質問こそ、彼らが一番したかったことでした。
 ヨハネによる福音書はこれまでも主イエスを憎み、なんとかして消し去りたいと企てるユダヤ人たちの姿を伝えてきました。本日の箇所もそれをはっきりと描いているのです。律法学者とファリサイ派の人々は、主イエスを試して隙あらば訴える口実を作ろうとしていました。もし、主イエスが、この女性を赦したならば、それは律法違反としてユダヤの最高法院に訴えることができます。反対に、石打の刑にしなさいと言っても、ローマ帝国の総督の許可なしに死刑を命じたと、ローマ帝国に訴えることができるのです。
 けれども、主イエスは、彼らの問い掛けに答えることはありませんでした。ただかがみ込み、指で地面に何かを描き始められたのです。主イエスは一体、地面に何を書いておられたのでしょうか。6節と8節に二度、主イエスが地面に何かを書いておられた様子が伝えられています。複数の聖書学者や説教者が、これについて主が聖書の言葉を書いていたのではないかと言っています。そして、その聖書の言葉こそが、本日読まれた旧約聖書エレミヤ書17:12-13であるのです。もう一度エレミヤ書17:12-13を読みたいと思います。

 栄光の御座、いにしえよりの天
 我らの聖所、イスラエルの希望である主よ。
 あなたを捨て去る者は皆、辱めをうける。
 あなたを離れ去る者は
 地下に行く者として記される。
 生ける水の源である主を捨てたからだ。

 この御言葉が挙げられる理由は、最後の「生ける水の源」という言葉でありましょう。主イエスは、この直前の箇所7:37以下に伝えられているように、仮庵祭が最も盛大に祝われているところで「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」と叫ばれました。つまり、ご自分こそ人々を潤す「生ける水の源」であると言われたのです。ここで預言者エレミヤが言う「生ける水の源である主」とは「主なる神」のことです。エレミヤは、主を捨てる者、つまり、主なる神から離れて自分勝手に生きる者たちが行き着く先は、天とは真逆の地下であり、そのような者たちの名前は主によって記されるのだと言います。
 律法学者やファリサイ派の人達もきっと、祭りの最中、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」という招きの声を聞いていたはずです。彼らは主イエスの元にやってきました。けれどもそれは、生ける水を求めるのではなく、主を死に追いやるための口実をなんとか探してやろうとやってきたのでした。主イエスは、律法学者やファリサイ派の人々の思惑を全てを知った上で、何も答えずに静かに地面に書き続けておられました。心を痛めながら地面に書き連ねられた一人一人の名前を見つめておられたのかもしれません。けれども、この時、周囲の者たちは、誰一人として、主イエスにその罪を知られ、名前を記されているということの重大性を認識していませんでした。それどころか彼らは主に対して、なぜ黙っているのか、なぜ何も答えないのか、一体何を地面に書いているのだと、しつこく問いただすのです。
 彼らの罪とは一体何でしょうか。それは、エレミヤの言葉通り、主を捨てるという罪でありました。彼らがしようとした、姦通の女を審くということは、律法に則った正当な行いだったかもしれません。しかし、彼らは、主の名においてこの女性を審くと言いながら、自分達の正義を振りかざすのです。彼らは、姦通の女を道具にしました。見せ物にしました。そして、姦通の女を主イエス・キリストの御前に立たせ、主を試みるのです。主イエスに、さあ、この女をどうするんだ、やれるものならやってみろと迫るのです。
 この場には、律法学者やファリサイ派の人達の他に、この時まで主イエスの教えを聞いていた民衆もいました。彼らは姦通の女をどうするのかと主イエスが問われた時、きっと、このお方なら何かすごいことを仰るかもしれない、と期待していたと思います。けれども、その期待を裏切るかのように、主は何もおっしゃらなかった。かがみ込んで、ただじっと沈黙を続けたのです。
 どれほどの時間だったのでしょうか。主イエスは、ここに集まってきた人たちの誰よりもその体を、その目線を低くされて、じっとかがみ込んでいました。主を捨てた罪人たちを、すぐにでも地下に追いやることがおできなるほどのお方が、そうはなさらずに、むしろ彼らの罪を一身に背追い込むようにして、じっとかがみ込んでおられたのです。けれども周りの人たちは黙り続ける主イエスにだんだんと苛立っていきました。何で黙っているんだと罵声を浴びせていたかもしれません。早くこの女に石を投げろと叫んでいたかもしれません。
 しつこく問いただされ、ついに、主イエスは身を起こされました。そして、たった一言だけ、まるで苦しみの中からやっと絞り出すかのようにお語りになったのです。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」そしてそれだけを言うと、主は、またかがみ込んでしまいました。
 けれども、主イエスが放った一言によって、人々は一気に沈黙し、己の罪と向き合うことを迫られました。さっきまでいきりたって罵声を口にしていた人々は、誰一人として、「では、わたしが最初に石を投げよう」とは言いませんでした。いや、誰もそうは言えなかったのです。
 人々は沈黙のうちに、一人また一人とその場から静かに立ち去って行きました。聖書は、年長の者から順に去っていったと伝えています。「年長者から始まって」という描写には深い意味があります。年長者ほど、ああ、わたしは女に石を投げられるような立派な者ではないと思った、諦めるのが早かったということです。年長者ほど、生きてきた年数が長い分、犯してきた罪の多さ、自分の罪の重さを悟ったのかもしれません。
 誰もいなくなったエルサレム神殿の境内に、主イエスと姦通の女だけが残りました。物語の最も印象的な場面です。この物語の結末は、わたしたちに二つの大切なことを教えてくれます。一つは、人を審くお方は、主イエス・キリストただお一人だということであり、もう一つは、人を赦すお方、それも、主イエス・キリストただお一人であるということです。
 たくさんの人々が、姦通の女を、そして、主イエスを審こうとしていました。わたしたちは、この物語を読む時、私たちは律法学者やファリサイ派の人たちに、自分自身を重ねて読むことができるでしょう。わたしたちは、人生において、隣人をさばき、神を捨てる経験をたくさん重ねてきました。年を重ねれば重ねるほど、その罪が私たちに重くのしかかってくる。罪から逃れられないジレンマがわたしたちを苦しめるのです。けれども、わたしたちは主イエスの語られた「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」という言葉を聞くこと無しに、自分自身の罪を悟ることはありませんでした。心の内で、折に触れて自分は罪人かもしれないと思ってきたとしても、それが公に他の人に知れ渡ることはなかった。けれども、律法学者もファリサイ派の人達は、主と大勢の前で「わたしには罪がある」ということを認めて立ち去ったのです。罪があるわたしには、他の人の罪を審く資格などない。もし、罪ある者が、他の人の罪を審くならばそれは偽善にすぎない、罪が全くない、正真正銘の義なるお方にしか罪は審けない、と認めざるを得なかったのです。人々は、主イエス・キリストに降伏しました。罪を認め、完全に降伏したのです。そして、偽りの審き人たちが去り、残ったのは、真の審き主である主イエス・キリストだけであったのです。
 8:10以下は主と姦通の女の間に交わされた言葉を伝えます。「イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも。」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
 もし、この女性がこの時、こう考えていたらどうでしょう。「このイエスという人の言葉でみんな逃げていった、この人だけがわたしに味方してくれた、ああ助かった。」もし、彼女がそう思っていたならば、彼女自身も主のもとから逃げていったのではないでしょうか。けれども、彼女は主の元に留まりました。一人、主の御前に残ったのです。この姦通の女の人は、イエス様に向かって「主よ」と言いました。姦通の女は、これまでのことを見て、また、イエス様の言葉を聞いて、このお方こそ、自分自身が犯してきた罪を本当に審くお方だと深く悟ったのです。
 この女性がどんな状況で姦通の罪を働いていたのかは分かりません。けれども、どうしようもない、自分ではどうすることもできない、罪だと言われてもこの生き方を変えられなかった、もうどうでいいと諦めていたのかもしれない、そうこうしているうちにその罪は見つかって、みんなの前に突き出されてしまった。罵られ、お前など石で打たれて死んでしまえと言われた。命はもうないと震えていた。けれどもそれは当然のことだ。目の前におられる、このイエスというお方の言葉で、自分の罪というものが、よく、よく分かった。わたしは、神を捨て、姦通という罪を犯し、自分の欲望だけに生きていたのだ。そうして、溢れ出てきたのがこのイエス様に対する「主よ」という言葉であったのです。
 人が主の御前にたった一人立たされる時、ここから主イエスによる本当の意味での審きが始まるのです。その時、一体どんなことが起きたのでしょうか。この女性は律法に定められた通り死刑となってしまったのでしょうか。この物語の結末は驚くべきものでした。なぜなら、主イエス・キリストは、この女性を審くのではなく、赦されたからです。この女性の「主よ」という言葉を聞いて、主イエスは「わたしもあなたを罪に定めない。」と言われたのです。
 この女性は自分の罪の裁きをこのお方に委ねようと覚悟を決めていたかもしれません。主イエスはついさっき、「罪を犯したことのない者が、まず、石を投げなさい。」とおしゃっていた、だから、みんながいなくなった今、きっとお方がわたしに石を投げられるのだろう、そう思っていたかもしれません。けれども、主イエス・キリストは石を投げることもなく、罵ることもなく、「あなたを赦そう」と言ってくださったのです。
 そして、主イエスは最後、「行きなさい。」とこの女性を解放してくださいました。そして、「これからは、もう罪を犯してはならない。」と言うのです。「これからは、もう罪を犯してはならない。」罪の深さを知り、赦された喜びを知る時、人はもう罪を犯すことはできなくなるということです。赦しとは、罪からの完全な解放を意味するのです。もう罪を犯すことは無くなったこの女性は、その後どうなったのでしょうか。それは聖書には書かれていないので推測するしかありません。けれども、この後、この女性はきっと、自分が「主よ」と呼んだお方が十字架にかけられ殺されたことを知ったでしょう。そして、三日目に復活なされたことを知ったに違いありません。そうして、やっぱりあのお方は、わたしを救われた救い主、イエス・キリストであったと確信したのです。そのようなところから、この姦通の女の物語は、教会で語られていったのでありましょう。
 このヨハネによる福音書の3:16には、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と記されています。そして、3:17-18に「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じるものは裁かれない。」とあります。真実にわたしたち審くお方は、真実にわたしたちを赦すお方でありました。わたしたちのこの深く重い罪が、主イエス・キリストの十字架によって完全に赦された、この救いの喜びのうちにこの一週間、歩んで参りたいと願います。

posted by 日本基督教団 石山教会 at 18:18| 日記