2022年10月26日

2022年10月23日 主日礼拝説教音声「聖霊の働き」須賀工牧師

聖書:使徒言行録18章24節〜19章10節、詩編51篇1節〜21節
説教:「聖霊の働き」須賀工牧師

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神様の祝福が豊かにありますように(⌒∇⌒)
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:06| 日記

2022年10月21日

2022年10月30日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:列王記上8章27節〜34節
説教:ソロモンと神殿

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:コリントの信徒への手紙二5章1節〜5節、詩編112篇1節〜10節
説教:「永遠の住みか」須賀工牧師

感染予防対策をした上で、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 07:37| 日記

2022年10月23日 主日礼拝説教「聖霊の働き」須賀工牧師

聖書:使徒言行録18章24節〜19章10節、詩編51篇1節〜21節
説教:「聖霊の働き」須賀工牧師

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録18章24節から19章10節の御言葉です。今朝の御言葉において、注目したい言葉があります。一つは、「ヨハネの洗礼」です。二つ目は、「イエスの名による洗礼」です。そして、三つ目は、「聖霊」です。今朝は、この三つの言葉に、フォーカスを当てながら、共に、御言葉に聴いて参りたいと思います。
 使徒パウロは、エフェソ教会の人々に対して、次のような、問いかけをしています。「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と。それに対して、エフェソ教会の一部(12名)は、このように、答えました。「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と。
 このやり取りから、少しわかることがあります。即ち、「信仰」には、二つのパターンがあるのです。一つは、「聖霊を受けた信仰」です。もう一つは、「聖霊を受けていない信仰」です。それでは、この違いは、どうして、起きてしまうのでしょうか。
 パウロは、続いて、次のように、問いかけています。「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と。それに対して、彼らは「ヨハネの洗礼です」と応えています。つまり、「聖霊を受けた信仰」と「聖霊を受けていない信仰」の違いは、「どんな洗礼を受けたか」によって、生じてしまったのです。
 因みに、このパウロの問いかけは、口語訳聖書では、次のように、記されています。「誰の名によってバプテスマを受けたのか」と。実は、こちらの方が、より原文のニュアンスに近いです。つまり、「聖霊を受けた信仰」と「聖霊を受けていない信仰」の違いは、「誰の名によって洗礼を受けたか」によって、かかっているのです。
 そして、彼らは、「ヨハネの洗礼」しか受けていない。そのように、応えました。ここから分かることがあります。つまり、「聖霊を受けていない信仰」とは、「『ヨハネの洗礼』しか知らない・受けていない信仰」です。逆に、「聖霊を受けている信仰」とは、19章5節によると「『主イエス』の名による洗礼を受けた信仰」なのであります。
 ここで、「誰の名によって洗礼を受けたのか」ということについて、もう少し、掘り下げてみたいと思います。「どんな洗礼を受けたのですか」という言葉を、もう少し、正確に、訳してみると、次のような、言葉になります。「誰の名の中へ洗礼されたか」という言葉です。ここで言われている「洗礼」とは、「深く沈むこと」あるいは、「どっぷりと浸ること」を意味しています。つまり、言い換えるならば、「誰の名の中へ、どっぷりと浸されていますか」という。そういう問いかけになるのです。
 更に、ここで言われている「名」というのは、「その人の存在全体」や「その人の教えや功績」も意味しています。つまり、「ヨハネの名による洗礼」は、「ヨハネの教えや功績にどっぷりと浸る」ことを意味しています。逆に、主イエスの名による洗礼は、「主イエスの教えや功績にどっぷりと浸っている」ことを意味していることになるのです。
 洗礼者ヨハネの名の中に、どっぷりと浸されているならば、勿論、洗礼者ヨハネによって示し、教えられた事柄に、基づく生き方。その生き方に生きているはずです。
 それでは、洗礼者ヨハネの洗礼は、私達に、何を教えているのでしょうか。それは、「悔い改め」です。恐らく、ここに出てくるアポロも、そして、12名の弟子たちも、その教えに基づいて、「悔い改めること」。そのことを大事にしたのだろうと思います。神様の裁きを恐れ、悔い改めることで、神様に喜ばれる生活をしていこう。そのように、熱心に努力する。真面目な人たちだったと思います。
 それに対して、「主イエスの名による洗礼」は、私達に、何を与えるのでしょうか。そもそも、主イエス・キリストが、私達にして下さったことは、何でしょうか。それは、「十字架」において、私達の為に命を捨て、「復活」において、私達に新しい命を与えてくださった。要するに、神様の赦しや救い。それらの恵みを成し遂げてくださったわけです。
 つまり、「主イエスの名による洗礼」とは、「主イエスの救いや恵みの中に、どっぷりと浸される」ことなのです。それによって、私達は、主イエス・キリストによる、神様の恵みを体験し、理解し、その恵みの中を歩むものとされるのであります。
 主イエス・キリストの名による洗礼を受けた人々は、どうなったでしょうか。聖書によると、彼らは「聖霊」を受け、異言を話したり、預言を話したりしたようです。
 「異言」とは、聖霊による賜物です。但し、人が理解できない言葉で、主に祈りを捧げたり、賛美したりします。これも大切な、聖霊による賜物です。それに対して、「預言」とは、人の理解できる言葉で、神様の救いを証することです。これも大切な、聖霊による賜物です。
 この二つの賜物が、並列で置かれているのは、どちらも、キリストによる、神様の救いの御業を褒めたたえ、感謝し、喜び、また、それを証するための賜物だからです。
 つまり、主イエス・キリストの名による洗礼を受けた人、いや、主イエスの救いと恵みに、どっぷりと浸された人は、聖霊を受け、賛美と感謝と喜びの証の言葉を知る生活へと、新たに導かれていくのです。決して、特別な神秘体験・霊的体験をしたわけではありません。彼らは、主イエス・キリストの恵みに浸されたことで、キリストとの親しき交わりに生き、その恵みを感謝し、賛美し、証しするものとされたのです。
 しかし、聖霊を受けていない信仰は、この恵みに浸されていない信仰なのです。よって、感謝も、賛美も、証しもない信仰です。そこには、罪の悔い改めはあっても、赦されていることの恵みに感謝することはありません。
 あるいは、罪を悔いて、自分の心や生活を、何とか、自分で頑張って、正しいものにしていこうとする。そういう努力や気負いに生きなければいけません。それは言うならば、漕ぎ続けなければ、倒れてしまう。そういう自転車に乗るようなものです。
 さらにまた、そのような歩みにおいて、私達は、自分の、または、人の持つ、弱さや罪を受け止めることが出来なくなります。赦しの喜びを知らないからです。自分が頑張っている。それを拠り所として、人のことを、あるいは、自分のことも、裁くようになります。そこから生まれるのは、感謝や賛美や喜びの証ではありません。不平不満、文句、批判です。
 私達は、キリストの名によって、洗礼を受けました。聖霊は、私達を、主イエスとの交わりに生かしてくださいます。そして、十字架の死と復活の恵みの中に、私達を浸してくださいます。そして、私達を、その恵みの中に歩ませ、感謝と賛美と喜びの証を与えてくださいます。神様によって、赦されている。恵みによって赦されている。そのことを、全身で感じながら、生きられるのです。そして、そういう生活の中でこそ、本当の悔い改めが、生まれてくるのではないでしょうか。赦されている喜びを知っているからこそ、方向転換できるのです。罪を悔い、神様の赦しにすがって生きる。これこそが、本当の悔い改めなのです。
 私達は、こぎ続けなければ、倒れてしまう。そういう自転車に、乗っていないでしょうか。一生懸命にこぎ続ける自分を拠り所として、そのことで、自分を裁き、他人を裁いていないでしょうか。信仰生活に、感謝や賛美や喜びの証が溢れているでしょうか。
大切なことは、アポロやエフェソ教会の人々が、そうであったように、謙虚に、古い自転車を捨てることであります。
 そして、「一緒に神の国を目指していこう」と呼びかける。そのイエス様の後ろに載せて頂くことなのではないでしょうか。いずれにせよ、自転車の二人乗りは、条例で禁じられていますので、良い譬えではないかもしれません。
 私達は、キリストの名による洗礼を受けています。私達を今、浸しているもの。満たし続けているもの。それは、キリストによって実現した、恵みによる救いです。その深い恵みに留まり続け、その恵みの中で、真の悔い改めをし、赦されていることの真の喜びと賛美の声をもって、共に、信仰生活を歩むものでありたと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 07:29| 日記