2022年10月19日

2022年10月16日 主日礼拝説教音声「あなたをてらす光」須賀舞副牧師

聖書:ヨハネによる福音書8章12節〜20節、詩編36篇8節〜10節
説教:「あなたをてらす光」須賀舞副牧師

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皆様の上に、神様の祝福が豊かにありますように、心よりお祈り申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:40| 日記

2022年10月15日

2022年10月23日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
説教:「ダビデの契約」
聖書:サムエル記下7章8節〜17節

〇主日礼拝 10時30分〜
説教:「聖霊の働き」須賀工牧師
聖書:使徒言行録18章24節〜19章10節、詩編51篇1節〜21節

感染予防対策をした上で、礼拝を捧げています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:00| 日記

2022年10月16日 主日礼拝説教「あなたをてらす光」須賀舞副牧師

聖書:ヨハネによる福音書8章12節〜20節
説教:「あなたをてらす光」須賀舞副牧師

 主イエス・キリストは「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ(8:12)」と言われました。お語りになったその相手はファリサイ派の人々でした。信仰的にとても熱心な人々でした。けれども、彼らの熱心さは、主イエスを食い尽くして死に追いやろうとするほどの熱心さでした。ヨハネによる福音書は、このファリサイ派の人々も主イエスを殺そうとしていたことを繰り返し伝えています。ヨハネによる福音書5:18には、「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自分を神と等しい者とされたからである」とあります。彼らは、目の前にいるこのイエスという男が、人となってこの世に現れた主なる神であるはずがない、神の子、救い主であるはずがないと、もしそうであるなら、主なる神を馬鹿にしている、「わたしのほかに神があってはならない。」十戒の掟を破っている、そう思っていたのです。
 本日の箇所で、主イエスが「わたしは世の光である(8:12)。」と言われたことは、御自分を神と等しい者だと言われたのと同じことです。冒頭に主イエスは「再び」言われたと記されています。これは繰り返し同じことを言ったという意味です。何を「再び」言われたのでしょうか。一番に思い浮かぶのは、7:37の主の言葉です。主イエスは、ユダヤの仮庵の祭りの最中に、そのお祭りが最も盛大に祝われるその賑わいの中で「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる(7:37-38)。」と言われました。
 けれども、尽きない命の水を与えてくださるお方、暗闇を照らす真の光であるお方、それは、ユダヤ人にとってはイスラエルの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主なる神様ただお一人でありました。本日読まれた旧約聖書、詩編36:9-10にも、このように記されています。
「あなたの家に滴る恵みに潤い あなたの甘美な流れに渇きを癒す。命の泉はあなたにあり あなたの光に、わたしたちは光を見る。」
詩編を書いた詩人が「あなた」と呼ぶのは、主なる神様のことです。この詩は、主なる神が、イスラエルの民の潤いの源であり、まことの光であると言うことをよろこびうたっているのです。主イエスは、その命の水の源、主なる神の光そのものが、今、この時、人の姿で目の前に現れている、あなたのところにやってきているのだ、と言われたのでした。
 主イエスの繰り返されるこの言動に、ファリサイ派の人々は、それならその証拠をだしなさいと迫ります。彼らは、「わたしは世の光である」という主イエスの言葉を全く信じませんでした。その理由について彼らは、主イエスが、自分について証しをしているからだ、と言います。要するに、「わたしは世の光である」と自称しているだけでは信用できないということです。この「証しする」とは、当時の裁判用語ですが、現代のわたしたちにとっても裁判で自称は通用しません。誰かそのことを証言してくれる人が他にいなければその言葉には信憑性がない、と言うのがファリサイ派の人々の言い分でした。
 これに対して主イエスはこうお答えになりました。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ(8:14)」。主イエスは、御自分がどこから来て、そしてどこへ行くのかを知っておられました。なぜこの世に生まれ、何のために言葉を語り、たくさんの奇跡を行い、そして、これから先どのような歩みをしてゆくのか、それを全て知っておられるということです。つまり、御自分は、神の独り子であり、そして人々の罪を背負って十字架にかかって死に、罪の赦しという救いをもたらす、この父なる神の目的のために、父なる神がこの世に遣わされたのだということです。主イエスの「わたしは世の光である」というお言葉は、この確信に基づく言葉なのです。  
 さらに主イエスは8:15で「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしは誰も裁かない。」と言います。わたしたちはこの主の言葉を聞いて、直前の箇所である「姦通の女」の話を思い出すでしょう。主イエスは、姦通の罪を犯した女に「わたしもあなたを罪に定めない(8:11)。」と言われました。その後に、主はファリサイ派の人々と対話されました。それが本日の話です。少しファリサイ派の人々がどのような人々であったかを説明をしますと、まず、ファリサイ派とは、ユダヤ教のいくつかの派の中の一つでありました。ファリサイ派という名前は「分離する者たち」という意味で、律法を守る自分たちと、守らない者たちとを分けるということに由来します。つまり、律法を忠実に行う生き方をとても大切にしていた人々であったのです。8:15において、主イエスは、そのような彼らの生き方を「肉に従って裁く」生き方であると批判します。聖書で「肉」という言葉が出た時、それは「人間的」という意味で使われます。もっというならば「肉」とは「罪」とほぼ等しい意味を持ちます。つまり主イエスは、ファリサイ派の人々は、律法をたてにして主の名によって人を裁くが、それは人間的な思いから裁いているにすぎないのだと指摘しているのです。人が人を裁く時、そこに正しさはありません。正しく人間を裁かれるお方は、唯一の義なるお方、主お一人なのです。
 8:16において、主イエスは「しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしは一人ではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。」と言われます。姦通の女の物語の最後、主イエスは、本当は裁かれるに値する罪ある女を、裁くことはせずに赦されました。この物語が指し示しているのは、主イエスは罪を裁くためではなく赦すお方であるということです。それが一番に示されたのが主イエスの十字架の出来事です。父なる神様の御心とは、愛する御子ただお一人に、わたしたちにくだすはずの裁きを負わせ、わたしたちの罪を償わせるということでした。その意味においても主イエス・キリストは、罪のゆえに暗闇に覆われてしまっているわたしたちに、救いの光をもたらすために父なる神が遣わした世の光そのものなのです。
 主イエスは続けて、主イエスこそ世の光であるということが、ファリサイ派も大事にしている聖書(旧約聖書)を通しても正しく確かだということを示します。主はここで「あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある(8:17)」と言われました。これは旧約聖書申命記17:6の「死刑に処せられるには、二人ないし三人の証言を必要とする。」という言葉や、申命記19:15の「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証される。」という言葉のことです。
 そして、主イエスはこの申命記の、二人の証しが必要だという言葉を示して、「わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる(8:18)。」と言われます。つまり、主イエスが世の光であることは、父なる神もそのことを証ししておられる、だからこのことは主イエスと父なる神の二人の証しによって示されている真実なのだ、と主イエスは言っておられるのです。
 けれどもファリサイ派の人々はこれに「あなたの父はいったいどこにいるのか(8:19)」と反論します。けれども、主イエスはそれに対して、「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ(8:19)」と言って、ファリサイ派の無理解を指摘されたのでした。
 主イエスとファリサイ派の人々の対話からわたしたちが学ぶべきことは、二つあります。一つは、主イエス・キリストこそこの世の暗闇を照らすまことの光として来られた独り子なる神であられること、それは、主イエスと父なる神が証しする確かな真実であるということです。そして、もう一つは、残念ながら、わたしたち人間は、それをなかなか知ることができない、主イエスこそ世の光、わたしの光であると、簡単に信じることはできないということです。
 「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった(ヨハネ1:4-5)。」
 これは、わたしたちが読み進めている、このヨハネによる福音書の冒頭に出てくる御言葉です。ヨハネによる福音書は、その初めから「光」と「闇」と言う言葉を使って、主イエスとわたしたちを説明しています。主イエス・キリストは、世の光である、そして、わたしたちは闇である、このように聖書は言います。そして、「暗闇は光を理解しなかった。」と言います。イエス様こそ、わたしたちを必ず助けてくださるお方、救い主であると証しされていて、わたしたちはそのことを知っています。なのにそれを理解しないとも聖書は言うのです。その言葉の通り、わたしたちは、教会から一歩離れると、あるいは、聖書を読み終えたと閉じると、たちまち、忘れてしまうのです。
 そのようなわたしたちの性質を、聖書は「罪」と呼びます。聖書は、人は誰もが例外なく罪人であるといいます。神様よりも自分を大事にしてしまう、そのような性質です。自分の人生は、自分の命は一体誰ものでしょう?自分のものですか?それとも神様のものでしょうか?
 わたしたちは、このヨハネによる福音書を続けて読む中で、このような人間の罪が、主イエス・キリストを十字架にかけたのだということも聞きました。神中心の生き方の反対は、自分中心の生き方です。その時、わたしたちは主なる神を無視します。無視するということは、無いものとするということです。存在を殺すということです。このように主イエス・キリストを十字架にかけた人々、今日の聖書箇所でいうならば、主イエスを全く信じなかったファリサイ派の人々とわたしたちは決して無関係ではないです。
 わたしたちが歩んでいる闇の世とはどんな世なのでしょうか?確かに、この世の中を見渡すと、暗いニュースをたくさん耳にします。また、わたしたちの人生も決して明るいことばかりとは言えません。生きていると、辛いことや苦しいことにもぶつかります。自分のこと、家族のこと、仕事のこと、お金のこと、悩みはつきないものです。自分の力だけでは、どうしようもないことだってあります。そう考えると、確かに、わたしたち人間の歩みとは、聖書がいう通り、闇の中を歩んでいくようなものであります。
 皆さんは、自分が闇の中にいると感じる時、辛い時、悲しい時、苦しい時、一体誰に助けを求めますか?もうだめかもしれません、わたしは、辛いんです、ひとりぼっちなんですと、その心の内を一体どこに打ち明けますか?
 今朝の御言葉は、わたしたちが苦しい時、悲しい時、そんな時は、イエス様に助けを求めたら良いのだと教えています。主イエス・キリストは、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ(8:12)。」と言われました。イエス様に従って歩む歩みは、光の中を歩む歩みである、もうそこに闇はないということです。イエス様は、苦しい歩みにおける私たちの道しるべなのです。
 どうやったら、わたしたちは、主イエスこそまことの光であると、分かるようになるのでしょうか。本日の御言葉の最後は「イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。」と伝えます。この宝物殿と言う言葉は、古い訳では「賽銭箱」と訳されていました。当時のエルサレム神殿には、十二の賽銭箱が並べられており、宮詣に来た人々がお金を入れて行ったそうです。それは箱というよりは、ラッパの形をしていて、お金を入れるたびにその音が大きく響いたそうです。それは当時の人々の信仰がいかに空しいものであったかを象徴しているようにも思います。人々は救いの確証を得るために、律法を守ることに一生懸命でした。お金の大きく鳴り響く音を聞いて、神様に祈り満足していたかもしれません。けれどもそんなことをしていてもいつまでたっても、闇の世は続くのです。
 そのような信仰は、主イエスが教えてくださる、本当の信仰と全く違うものです。けれども、主は、その人々の空しい信仰の象徴である賽銭箱のところに立って、語られました。ジャランジャランとお金を投げ入れる音が鳴り響く中で「わたしは世の光である。」世の光のもとへ来なさいと言っておられるのです。
 主イエスは、「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ(8:12)」と言われました。これは、主イエスからファリサイ派の人々に対して、そして、ここにいるわたしたちに対しての招きの言葉でもあります。暗闇に支配され行く道がわからずもがくわたしたち、罪の支配から抜け出せず神様に背いてしまうわたしたちに、主イエスは、「わたしを信じなさい、わたしに従いなさい。」と呼びかけておられるのです。わたしたちは、既に主が招いて語られるその言葉を聞き、主に従うことが大切なのです。
 わたしたちは今朝、主イエスこそわたしたちをてらすまことの光であることを知りました。そして、わたしたちが光にてらされて歩む道へと招かれているということも知りました。主イエスを信じるということによって、わたしたちは将来への希望を持つことができます。今は、辛いかもしれない、苦しいかもしれない、けれども主はわたしたちの痛み苦しみを全て知っていてくださり、やがてその闇があけて光が来るというところに望みを持つことです。ヘブライ人への手紙11:1は「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」と教えます。
 けれどもそれも確かに大事なことではありますが、反面、希望とは目に見えないものであり、わたしたちはそのことをすぐに忘れ目先の不安に囚われてしまうのです。そんな時、今朝の御言葉がわたしたちに語ってくれるもう一つの大切な教えは、わたしたち信仰者はもうすでに光の子であるのだ、ということです。辛い時、苦しい時であっても、その只中に光はてらされているのです。苦しさの極みに立たされた時、どうか、わたしにはイエス様がいるのだ、光が既に与えられているのだというところに立ち帰りましょう。苦しみが、喜びに変えられていくはずです。
 皆さんは、光の子です。どんな時でも、どんなところでも、わたしはあなたと共にいる、わたしはあなたを決して見捨てない、わたしたちの主イエス・キリストはそのように言ってくださっています。この大きな恵み、慰め、希望に生かされてこの一週間も歩んで参りたいと願います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:58| 日記