2022年10月09日

2022年10月9日 主日礼拝説教音声「あなたを招く主」須賀工牧師

聖書:マタイによる福音書9章9節〜13節、ホセア書6章1節〜6節
説教:「あなたを招く主」須賀工牧師

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皆様の上に、神様の祝福が豊かにありますように、心よりお祈り申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:25| 日記

2022年10月06日

2022年10月16日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:サムエル記上16章4節〜13節
説教:「ダビデの選び」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:ヨハネによる福音書8章12節〜20節、詩編36篇8節〜10節
説教:「あなたをてらす光」須賀舞副牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を捧げています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:16| 日記

2022年10月9日 主日礼拝説教「あなたを招く主」須賀工牧師

聖書:マタイによる福音書9章9節〜13節、ホセア書6章1節〜6節
説教:「あなたを招く主」須賀工牧師

 今朝の礼拝のテーマは、ずばり「招き」です。クリスチャンとは、主イエス・キリストによって、「招かれた人たち」のことです。そして、クリスチャンとは、そのキリストの招きに応え、自分もキリストを、自分のうちに「迎え入れた人たち」でもあります。
 私達は、一生懸命に、神様を探し求める必要はありません。救い主を探し求める必要はないのです。救い主御自身が、あなたのために、立ち上がり、あなたを見いだし、あなたを受け止め、あなたを招いてくださる。私達は、その招きに、自らの身を、委ねたら良いのであります。
 それでは、キリストによって「招かれた人」とは、どういう人なのでしょうか。あるいは、今、キリストによって招かれている、「私達」とは、どういう人なのでしょうか。
 今朝の御言葉には、「マタイ」という人物が、出て参ります。聖書によると、彼は「取税所の人」であると記されています。
 聖書の世界において、「取税人」−あるいは「徴税人」とも呼ばれる人―は、常に「嫌われ者」や「罪人」の代名詞でもありました。彼らは、ローマ帝国に仕え、ローマ帝国の権威を笠に着て、同胞ユダヤ人から、税金や財産を搾取していました。時には、必要以上の税金をかすめ取り、私腹を肥やす者もいたようです。
それ故に、彼らは、ユダヤの国では、「嫌われ者」と呼ばれ、「罪人」と揶揄され、「神様に見捨てられた無価値な者」とまで言われていたようです。
更に、彼らには、ローマの市民権も与えられませんでした。つまり、ローマのために税金を集めていたとしても、ただの小間使い程度にしか、扱われていなかったようです。
 要するに、取税人・徴税人は、完全に、この世において、孤立した存在であり、神と人から見放された存在、あるいは、人から利用されるだけの存在であったのです。言い方を変えるならば、彼らは、誰からも相手にしてもらえない。そのような存在であり、誰の目にも止まらない。そのような存在でもあったのです。
それでは、取税人・徴税人たちは、この状況を、どのように、受け止めていたのでしょうか。聖書によると、「マタイ」という人物は、「取税所」に「座っていた」と書かれています。ここで言われている、「座る」という言葉には、「安住する」「あぐらをかく」という意味もあります。
 つまり、彼らは、彼らなりに、この状況に、満足をしていたようです。いや、むしろ、諦めていた、とも言えるかもしれません。彼らは、「お金があれば、それで良い」。そのように思っていたかもしれません。「お金や仕事があれば、神様と人に嫌われても良い」。そのように考えていたかもしれません。「どうせ、自分は、誰からも愛されていない。だから、もう独りぼっちでも良い」。そのように、割り切って、諦めた人もいたかもしれません。
 私達もまた、そういう気持ちに、捕らわれてしまうことがあります。必要なお金もある。生きていて、何も不自由はない。だから、神様もいらない。仲間もいらない。独りぼっちの何が悪いの?
 しかし、それは、本当に「幸せ」なことなのでしょうか。強がっていないでしょうか。無理をして笑っていないでしょうか。本当は、「一人が辛い」。一生懸命に、自分の弱さを隠していないでしょうか。本当は、私のことに、もっと関心を持ってほしい。私の声を聴いてほしい。そのような心が、どこかにないでしょうか。
 聖書によると、主イエス・キリストは、「マタイ」が「取税所に座っているのを見かけた」と記されています。この「見かけた」という言葉は、「見て知った」という意味なのであります。ただ、「見る」のではなくて、「見て、知ってくださった」という事なのであります。
 つまり、主イエス・キリストは、このマタイの全てを、知っていてくださったのです。彼の心の奥にある、「痛み」「苦しみ」「悲しみ」「嘆き」そして、神様により頼もうとしない、その薄汚れた心。主イエス・キリストは、全てを知っていてくださる。
 「知る」ということは、「関心を持つ」ということです。そして、「関心を持つ」ということは、「愛する」ということでもあります。主イエス・キリストは、ここで、マタイを知って下さることで、社会が作り上げ、自らも作り上げてしまった、隔ての壁を打ち砕き、愛の眼差しを、向けてくださったのではないでしょうか。
 そして、その上で、主イエス・キリストは、「わたしに従いなさい」と言って下さいます。全てを知った上で、彼を招き、受け止め、必要とし、愛してくださったのです。
 マタイは、このイエス様の招きに、直ぐに従いました。やはり、彼は、求めていたのではないでしょうか。誰かが、自分を招いてくれることを。誰かが、自分を受け入れ、必要とし、そして、愛してくださる、ということを。
 キリスト教における「愛」とは、「価値を生み出す」というニュアンスも含んでいます。自分には「愛される価値はない」と思っていた。周りの人からも「無価値な者」と言われていた。しかし、主イエス・キリストだけは、違った。私達の全てを知った上で、それでも、「あなたには価値がある」「あなたは無価値ではない」。だから「従いなさい」。「わたしと共に生きなさい」。そのように、主イエス・キリストは、マタイと同様に、私達をも、今、招き続けて下さっているのです。
 聖書によると、「マタイは、立ち上がってイエスに従った」とあります。ここで使われている「立ち上がる」という言葉は、「復活する」という意味です。
 主イエスの招きに応え、従う者は、「復活する」のです。「新たに生きる」のです。その人生を「新たに生きる」ことができるのです。その人生は、孤立した人生ではありません。キリストと共に、神様と共に生きられる人生です。その人生は、自分の価値を知る人生です。その人生は、罪が赦されていることを知る人生であります。そして、その人生は、共に救われた、沢山の人々と、一つの家族のように、新たに交わりを持てる。そういう人生でもあるのです。
 皆様も、是非、この恵みを、御自身の恵みとして、素直に受け取っていただければと思います。そして、是非、自分もまた、この招きの声の中に、今、置かれている。その幸いを、知っていただければと願うものであります。
 さて、マタイは、主イエス・キリストの招きに応えました。ここで、大切なことは、マタイが、無条件で救われた、ということです。彼に、特別な力があるわけではありません。尊い働きをしたわけでもありません。課題をクリアーしたわけでもないのです。ただ、一方的に、無条件で、正に、キリストの憐れみによってのみ、彼は、招かれ、そして、救いを知るものとされたのであります。
 今朝の御言葉には、「ファリサイ派」という人たちが、出てきます。「ファリサイ派」という人たちは、別名「分離する人」と呼ばれていました。彼らは、何を分離させるのでしょうか。「良いもの」と「悪いもの」を分離させるのです。そして、悪い者を徹底的に排除し、良いものだけを集めます。そのようにして、神様に喜ばれることを、彼らは望んでいたわけであります。そうでありますから、彼らの規準に達しなければ、救われない、という価値観が生まれてしまうわけです。要するに、彼らの中には、救いの条件がある、ということなのです。
 それに対して、イエス様は、このように仰せになります。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」。神様が求めているのは、課題をクリアーするために、自分をささげたり、いけにえを捧げたりすることではないのです。イエス様との出会いを通して、自分の弱さを知り、素直に、憐れみを受けることなのであります。
 私達の信じている救い主は、私達に、何か功績や課題のクリアーを求めているのではありません。ただ、一方的に与えられた憐れみを受けて欲しい。憐れみに委ねて欲しい。それが、救い主が、今も、あなたに望んでおられることなのであります。
 そのために大切なことは、何でしょうか。自分には、憐れみが必要であるということ。それを知ることです。憐れみがなければ、生きられない。そのような悲惨な状態である。そのような自分を知ることです。自分が病人であることを認め、受け入れていくことがなければ、治療は始まりません。それと同じように、キリストと出会うことを通して、自分自身の悲惨さ、弱さ無力さに気づかされていく。その所から、憐れみを受けて生きられる、真の幸いに溢れた人生が始まるのであります。
 主イエス・キリストは、本当に、憐れみ深い御方です。この御方は、私達の弱さや罪、汚れを背負い、身代わりとなって、死んでいくほどに、憐れみに満ちた御方であります。私達の病を、自分自身で代わり負って下さる御方であります。そして、その病や死に勝利してくださる御方であります。
その御方は、今も生きておられます。そして、あなたの痛みや苦しみ、あなたの汚れや罪を知ってくださいます。
 その上で、あなたを招き、あなたを受け入れたいと、主御自身から招き続けてくださいます。あなたの全てを、担わせてほしい。そう願っておられるのです。どうか、一人で抱え込まないでください。あなたから遠くではなく、あなたの近くで、主は、あなたを招く主として、生きておられるのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:12| 日記