2022年11月28日

2022年11月27日 主日礼拝説教音声「生ける神の言葉」須賀舞副牧師

聖書:ヨハネによる福音書8章21節〜30節、出エジプト記3章13節〜14節
説教:「生ける神の言葉」須賀舞副牧師

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皆様の上に、神様の祝福がありますように、心よりお祈り申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 14:29| 日記

2022年11月26日

2022年12月4日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:ルカによる福音書1章46節〜56節
説教:「マリアの賛歌」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:使徒言行録20章1節〜6節、詩編126篇1節〜6節
説教:「励ましの言葉」須賀工牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を捧げています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 20:45| 日記

2022年11月27日 主日礼拝説教「生ける神の言葉」須賀舞副牧師

聖書:ヨハネによる福音書8章21節〜30節、出エジプト記3章13節〜14節
説教:「生ける神の言葉」須賀舞副牧師

 わたしたちは今朝、待降節第一主日礼拝を守っています。クリスマスに向けてアドベントクランツに最初のほのおが灯りました。これから、わたしたちは、わたしたちの主イエス・キリストがこの世にお生まれになったクリスマスを、心待ちにして過ごす期間を過ごしていきます。
 実は、わたしたちが読み進めているヨハネによる福音書は、イエスさまの誕生の出来事を記していません。マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの4つの福音書のうち、イエスさまの誕生が記されているのは、マタイとルカだけです。マタイによる福音書は、冒頭イエス・キリストの系図から始まり、イエスさまが、約束されていたメシア、ダビデ王の血筋を継ぐ子孫としてこの世の王となられるためにお生まれになったことを強調します。それに対してルカによる福音書は、4つの福音書の中で一番詳細にクリスマスの出来事を記しています。ルカによる福音書の一番の主張は、神の子イエスさまが、人となってこの世に、この歴史の只中にお生まれになったということです。ですから、ルカは、イエスさまの誕生の前の出来事である洗礼者ヨハネの誕生から順を追って、母マリアの視点でイエスさまの誕生の出来事を伝えるのです。
 マルコによる福音書とヨハネによる福音書にクリスマスの物語はありません。それは、マルコとヨハネの伝えるイエスさまのお姿の強調点が誕生の物語とは別のところにあるからです。マタイがダビデの子孫として王となられるお方、ルカが人となられた神の子と、それぞれにイエスさまのお姿を記すのに対して、マルコによる福音書の伝えるイエスさまのお姿とは、人に仕えるために来られたお方というものでした。本来なら、全ての人が仕えるべきお方であるにも関わらず、イエスさまはこの世に降って来られ、わたしたち人間に徹底的に仕えてくださったのです。
 わたしたちがこの朝も読んでいるこのヨハネによる福音書にもクリスマスの話はありませんが、クリスマスに必ずと言っていいほど読まれる箇所があります。それは、ヨハネによる福音書の冒頭です。ヨハネは、第一声を「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」とはじめます。そして、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」と語ります。「言」とは言うまでもなく、イエスさまのことです。そして、1:14にはこうあります。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵と真理とに満ちていた。」神さまの言葉そのものであるイエスさまが、肉をとって人となってこの闇の世にやってきてくださった、闇であるわたしたちの中に住んでくださったと、このようにクリスマスの出来事を伝えているのです。
 先ほど、4つの福音書には、それぞれの視点があると申し上げました。ですから、福音書を読み比べたら一見するとバラバラのことを伝えているようにも感じるかもしれません。けれどもそれは単に強調点、視点の違いにすぎません。どの福音書もわたしたちの救い主、イエス・キリストというお方について証ししているのです。
 ヨハネによる福音書の強調点は、このイエスというお方が神と等しいお方であるというところにあります。ですから、クリスマスによく読まれる冒頭の箇所は、天地創造の「初め」からイエスさまが神さまと共におられた、と語ります。
 イエスさまは、神と等しいお方であり、イエスさまが語る言葉は、神さまのお言葉、イエスさまのなさる御業は神さまのなさる御業である、このことは、わたしたちが今まで読んできた中で繰り返し、イエスさまご自身が語ってこられたことです。そして、この朝与えられた御言葉、8:21-30においても、また、イエスさまは、ご自分が神さまと等しい存在であることを教えられています。
 本日の聖書箇所の最初、8:21でイエスさまは、「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」と言われました。これと同じことを、イエスさまは7:33-34 でも「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」と語っています。7章も今日の8章も、語る相手はファリサイ派のユダヤ人たちでした。イエスさまに敵対していた人たちです。
 イエスさまは、この闇の世に来られ、人々に教え、共に食事をし、病を癒し、多くの人々に神さまの国を証ししました。まさに、闇ある人々の間に宿られたのです。しかし、本日の箇所において、イエスさまは、わたしはもうしばらくしたら去って行くのだと言われます。これは即ち、イエスさまがこれから逮捕され、十字架につけられて殺され、そして3日目に復活し、天に上り父なる神のもとにお帰りになるということです。
 また、加えてイエスさまがこの世を去って父のもとに行かれる時、ファリサイ派の人達はイエスさまを捜しても見つけることができないだろうとも言われました。イエスさまを信じない者たちは、天の父のみもとには来ることができないからです。
 7章の時もこの8章でも、イエスさまの言葉を、ユダヤ人たちは全く理解することができませんでした。7章では、ユダヤ人たちが、イエスさまはこれから、当時あちこちに離散して暮らしていたユダヤ人の同胞を頼りに、世界のあちこちへ行って、ギリシア人にも教えを宣べ伝えようというのだろうかと互いに言い合いました。本日の箇所でもファリサイ派のユダヤ人たちは、イエスさまはこれから自殺でもしようとしているのだろうか、と言っています。
 自殺をするのか、という言葉は、ファリサイ派の人々のイエスさまに対する批判です。彼らは、自分たちは神に従う正しい者たちだから救われて神のもとに行き、その自分たちとは違う所に行くと言っているイエスさまは、赦されない罪である自殺をして、地獄に落ちるつもりかもしれない、と皮肉たっぷりに言っているのです。
 このようにファリサイ派の人たちは、イエスさまの言葉が全く理解できていませんでした。イエスさまの言葉が全く通じていないのでズレた返答しかできないのです。なぜ、ヨハネ福音書は、繰り返し何度もこのような様子を記し、わたしたちに伝えているのでしょうか。そこには、大きく三つの目的があります。
 一つ目は、イエスさまが、わたしたち人間と同じ人間でありながら、ある一点において、決定的にわたしたちと異なる存在であることを示すためです。それは、イエスさまが人間でありながら、神と等しいお方であるということです。イエスさまは8:23で「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない」とおっしゃいました。イエスさまとファリサイ派の人たちの会話が成立しないのは、お互いが属している世界が違うからです。ファリサイ派の人たちは下のもの、つまりこの世に属しており、イエスさまは、この世ではない上のものに属しているからです。
 イエスさまが属している上のものとはどこのことでしょうか。それは天であり、神の世界です。だからイエスさまの言葉は、そもそもこの世に属している人間に通じない神の言葉なのです。ここに、ヨハネによる福音書がイエスさまとファリサイ派の人たちの相容れない様子を何度も語るもう二つ目の目的があります。それは、そもそも、神と人は、決定的に異なる存在であることを示すためです。そのはじまりにおいて神が人を創造された時から、創造主と被造物として神と人は全く異なる異質の存在でした。その上、神と人との間には人間の罪によって引き裂かれた大きな隔たりがあるのです。これが、イエスさまとファリサイ派の人たちの通じない会話の大きな原因です。
 そして、ヨハネによる福音書がこのことを繰り返し伝える三番目の目的は、人はどんなに頑張っても、どんなに努力しても、自分の力では神の言葉を理解することができないということを示すことです。神と人との間には人間の罪という決定的な壁があり、それが意思の疎通を困難にしているのです。そして、わたしたちの側からこの状態を解決し、神と人との関係を回復させることはできません。これがヨハネによる福音書が語っている普遍的な神と人との関係です。
 しかし、ここに、大きな関係の変化が起こりました。神と人との関係が回復するという出来事が起こったのです。それが、クリスマスの出来事です。神の独り子主イエス・キリストは、人間となってこの世に来られました。それは、神と人との間の言葉をよどみなく通じるようにするためです。上のものである天つまり神の世界と、下のものであるこの世との間の隔たりをなくして関係を回復させるためです。
 神さまは、独り子イエスさまを、わたしたちと同じ言葉を話される一人の人間として遣わされました。それは、神さまの御心を、わたしたちに何とかして伝えるため、通じさせるため、という神さまの強い思いによることなのです。
 けれども、ここでイエスさまはファリサイ派の人たちの様子を嘆きつつ「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」とおっしゃいます。これが、本日の箇所で三度繰り返されています。8:21と、8:24に二回です。それほど、罪ある者の末路が「死」であり「滅び」であることが強調されているのです。神と人との間で言葉が通じないままでは、人は自分の罪の内に死ぬことになるのだと、聖書は厳しくも、はっきりと示しているのです。
 では、イエスさまと、話が全く通じない相手として描かれるファリサイ派の人たちが、イエスさまを理解する時は、やってくるのでしょうか。どのようにしたら、罪がもたらす「死」から免れることができるのでしょうか。イエスさまは、8:24で「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と言われました。イエスさまを信じることで、命を得ることができるということです。
 イエスさまは、イエスさまを信じるということが「わたしはある」ということを信じることだと言われました。「わたしはある」という言葉は、本日お読みした旧約聖書出エジプト記3:14に出てくる「わたしはある。わたしはあるという者だ」という主なる神が預言者モーセに語った言葉から引用されています。これは、単に神さまがご自分の名前を「わたしはある」というものだ、わたしをそう呼びなさい、などとお示しになった訳ではありません。「わたしはある」というのは、神さまの存在そのものを指し示す言葉です。神ご自身が今、この時、ここに生きておられる方として確かにおられ、今この時も、御心によって語り、御業を行っておられるということが示されているのです。
 イエスさまがこのように、かつて主なる神がモーセに語った仕方でご自分を言い表されるということは、イエスさまが、天地の初めから、かつておられ、今もおられ、そしてこれからもおられる神であるということを意味しています。そのようなお方であられるイエスさまを信じることが、永遠の命に至る道であるのです。
 イエスさまは、8:28で「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。」と言われます。「人の子」とはイエスさまのことです。そして、「上げたとき」とは、イエスさまが十字架に上げられるときのことです。イエスさまは、人の子を十字架に上げるのは「あなたたち」だと指摘します。イエスさまを受け入れず、敵対しているファリサイ派の人々が主イエスを十字架につけて殺そうとしているのです。それによってイエスさまは「去って行く」のです。けれども、その時に初めてファリサイ派の人たちも「わたしはある」ということが分かるようになるのです。
 主イエス・キリストは、2000年前、十字架の上において、生きた人間として血を流し、痛み苦しみを味わい死んでゆかれました。それは、どこまでも、父なる神の御心に従順であったからです。この世に来られたことも、語ったことばも、なされた業も全て自分勝手にされたことではなく、神さまの御心であったことが、イエスさまが十字架の死に従順であったことで証明されるのです。御子の命を捧げてまで、ご自分に敵対する人と和解すること、それが神さまの究極の御心でした。
 そして、主イエス・キリストは、かつてファリサイ派の人たちに言われたのと同じように、今この時も生きて働かれ、ご自分をまだ受け入れずに神と敵対する全ての人々のために、救いの言葉を語っておられます。イエスさまの十字架を見上げて、その全てが、このわたしのためであったと知り信じる時、わたしたちは初めて神さまとの関係を回復していくことができるのです。
 この救いを実現するために、人の子は上げられる必要がありました。主イエス・キリストは、上げられるために、即ち十字架にかかり死ぬためにこの世に生まれてくださったのです。クリスマスは、神がその独り子を、十字架の上にあげるためにこの世に、わたしたちに遣わしてくださったことを記念し祝う時です。イエスさま、わたしたちのために、死ぬために生まれてきてくださってありがとう。このように、心から感謝してこのアドヴェントの時を、喜びのうちに過ごしたいと願います。

祈り
 天の父なる神様。新しい御言葉に感謝します。今朝、御言葉からクリスマスの本当の意味を改めて示されました。かつてのファリサイ派の人達がそうであったように、わたしたちは、ともすると神さまを忘れ、イエスさまを信じず、自分の楽しみに耽る生き方に沈んでしまいます。しかし、神さまは、このようなわたしたちのために、一方的に、何の見返りもなく、その独り子をこの世に送り、わたしたちと同じ人となって来てくださいました。そして、その命を惜しみなく捧げ尽くし、和解の捧げ物としてくださったことを本当に感謝いたします。この大きなあなたの御心の内に、わたしも入れられているというこの上ない恵みを喜んでこのアドベントの時を過ごすことができますように。
 そして、まだ、この救いをわたしの救いであると信じることができない一人一人を、あなたが豊かに導き、信じる心をどうかお与えください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 20:35| 日記