2022年11月05日

2022年11月13日 主日礼拝説教「私たちを変えるもの」須賀工牧師

聖書:列王記下23章1節〜3節
説教:「私たちを変えるもの」須賀工牧師

 今朝、私達は、合同礼拝をささげています。子どもと大人が、共に、礼拝できることを、心から嬉しく感じています。皆様の上に、神様の祝福が、豊かにありますように、心からお祈り申し上げます。
 さて、今朝の御言葉もまた、旧約聖書のお話です。先週もお話をしましたが、かつて、イスラエルには、王様がいました。この王様は、神様が、選んだ人たちです。人が選んだものではありません。あくまでも、イスラエルを治めているのは、人ではなく、神様なのです。
 最初の王様は、サウル王です。次の王様は、ダビデ王です。そして、三番目に王様になったのが、ソロモン王でありました。
 しかし、ソロモン王の後、イスラエルの中で、喧嘩が起きてしまいます。誰が、王様になるのかで揉めてしまったのです。
 そして、悲しいことに、イスラエルは、二つに分かれてしまいます。一つは、南ユダ王国です。もう一つは、北イスラエル王国です。
 先週は、北イスラエル王国のお話をしました。北イスラエル王国は、どんどん、他の神様を拝んだり、神様ではなくて、人の力で、王様を選んだりするようになってしまいます。そして、早々と、国が滅んでしまいました。神様の御心から離れていく。その先には、悲しい滅びがある。そのことを、聖書は、そして、聖書の歴史は、教えています。
 さて、今朝は、南ユダ王国のお話です。南ユダ王国は、ダビデから始まり、その子どもたちが、順番に、王様になっていきました。
 しかし、南ユダ王国の歩みもまた、決して、完璧な歩みとは、言えるものではありませんでした。実は、神様の教えを忘れ、神様を拝むことをせず、外国の神々により頼んでしまう。そういう王様もいたようです。要するに、北イスラエル王国と同じ道を歩んでしまったこともあったのです。このままいけば、南ユダも滅んでしまいます。
 そのような悲惨な現実の中で、南ユダ王国を、大きく変える王様が、誕生しました。その人の名前は、「ヨシヤ」です。因みに、このヨシヤは、若干8歳で王様になったらしいです。私の娘が、今、8歳ですから、到底、考えられないことです。いや、私の娘は、ある意味で、家庭の王様ともいえるかもしれませんが。
 ある日、ヨシヤ王は、神様を礼拝する場所−神殿−を直すことを決めました。そして、作業に取り掛かったさなか、一つの書物を見つけます。そこに書かれていたのは、神様の御言葉でした。恐らく、旧約聖書の申命記だと思います。
 ヨシヤ王は、その神様の御言葉によって、このように感じたのではないでしょうか。「このままでは、この王国もダメになる。神様のもとに立ち帰らなければ」と。
 そこで、ヨシヤ王は、全ての国民を、神殿に集め、この御言葉を、全ての人に語り聞かせたのです。そして、最後に、このように言いました。「心を尽くし、魂を尽くして、主の戒めと掟を守ろう」と。北イスラエル王国のように、神様に背を向けて、滅ぶのではなく、神様と向き合い、神様の御言葉に従って、神様のもとに立ち帰っていこう。そのように、ヨシヤ王は、宣言したのです。
 そして、実際に、ヨシヤ王は、この言葉の通り、神様に立ち帰るために、外国の文化や宗教を取り除き、異教の神殿を取り壊し、何よりも、長い間、行っていなかった、過越の祭りを回復したりしたのです。この出来事を、「ヨシヤの宗教改革」と呼んでいます。そして、遂に、南ユダ王国もまた、持ち直すことができたのです。
 実は、先ほど、お伝えした、このヨシヤ王の言葉は、とても、有名な言葉です。モーセという人も、語っていますし、実は、イエス様も、この御言葉を語られました。イエス様は、この言葉を、このように表現しています。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と。
 つまり、神様に従って行くことは、神様を愛することなのだ、ということ。そのことを、イエス様は、語られたのです。
 神様が、望んでいることがあります。それは、「神様を愛すること」です。私達もまた、もしかすると、自分にとって都合の良いものを信じたり、愛したり、願ったりしていないでしょうか。心の中に、自分の理想的な像を作り上げていないでしょうか。その時、私達もまた、北イスラエル王国や、不信仰な時代の南ユダ王国になっているのかもしれない。神様を愛することを忘れてしまっているかもしれません。そして、その先には、決して、幸いとは、言えない結末が待っているのかもしれません。
しかし、ヨシヤ王が、そうであったように、私達は、立ち帰ることができるのです。御言葉によって、神様のもとに、戻ることができる。御言葉を通して、自分たちが、神様の子どもであること。そのことを思い出し、神様のもとに帰ることが許されているのです。
 神様は、私達に、神様を愛することを望んでおられます。しかし、実際には、神様が、いつでも、私達を、神様の愛の中へと導いてくださるのではないでしょうか。ヨシヤ王が、御言葉と、再び出会い、立ち帰る道が、開かれたように、私達もまた、常に、神様の御言葉によって、神様の愛の中に、神様によって、帰る道が開かれている・備えられているのではないかと思うのです。その意味で、神様が、まず、私達を、赦し、導き、愛して下さるのだ、大切にしてくださるのだ、ということ。そのことを覚え、その愛を返していく。そのような生き方を、主は望んでおられるのではないかと思うのです。
 さて、この南ユダ王国は、これから、どうなってしまうのでしょうか。ヨシヤ王は、エジプトとの戦争で命を落とします。因みに、その時のエジプトの王様の名前は、「ネコ」です。可愛い名前で、恐ろしい王であります。
 このヨシヤの死後、南ユダ王国は、再度、神様の御心と御言葉から離れてしまいます。そして、神様に頼るのではなく、人間の計画に頼ってしまいます。そして、北イスラエルと同様に、バビロンという大きな国によって、滅ぼされてしまうのです。
 果たして、イスラエルの人々は、このまま見捨てられてしまうのでしょうか。それは、違います。神様は、このイスラエルの国に、イエス様を与えて下さる。そして、イスラエルの人たちだけではなく、全ての人が、神様の民となるために、イエス様に、人間の罪を背負わせてくださった。
人間は、愚かです。弱さもあります。間違いを繰り返します。しかし、神様は、イエス様を通して、私達を罪と死から救い、永遠に神の民としてくださったのです。
ここに、神様の愛が貫かれています。その神様の下に立ち帰り、神様を愛するものとして、新たに生きる。それが、今、私達に求められた姿なのです。
 御子の命を惜しみなく死に渡されるほどに、神は、私達を愛し抜き、価値を生み出して下さる。その深い恵みに立ち帰り、その恵みに留まりつつ、神様を愛し、神様を礼拝する。そのような、私達でありたいと思うのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:28| 日記

2022年11月02日

2022年11月13日 礼拝予告

〇教会学校 合同礼拝のため休会

〇主日礼拝 10時30分 *教会学校と合同です。
聖書:列王記下23章1節〜3節
説教:「私たちを変えるもの」須賀工牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を捧げています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 07:38| 日記

2022年11月6日 主日礼拝説教「魔術からの解放」須賀工牧師

聖書:使徒言行録19章11節〜20節、申命記18章9節〜14節
説教:「魔術からの解放」須賀工牧師

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録19章11節から20節の御言葉です。改めて、11節から12節の御言葉をお読みします。「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった」。
 使徒パウロによる、第三伝道旅行、エフェソ伝道が、まだまだ続きます。19章8節によると、使徒パウロは、「神の国について大胆に語った」と言われています。
 ここで言われている「神の国」とは、「神様の支配」を意味しています。人間は、今まで、罪と死の支配に置かれていました。
 しかし、神の御子イエス・キリストは、私達の罪を背負い、身代わりとなって、十字架で死にました。そして、三日目に、よみがえられました。それによって、罪と死は滅び、神様の救いが、勝利します。
神様の支配とは、正に、この救いの支配です。恵みの支配ともいえるかもしれません。今まで、罪と死によって、支配された人間が、今や、キリストを通して、救いと恵みの支配に生きることができる。使徒パウロが、ここで、語ったこともまた、この恵みの支配についてなのです。
さて、今朝の御言葉は、そのパウロを通して、神様が、様々な奇跡を行われた。そのようなエピソードが、記されています。
 但し、これらの奇跡は、病を癒すこと、悪霊を追い出すことが、主な目的ではありません。神様の救いの御支配が、確かに、ここに、あるのだ、ということ。その救いの出来事は、確かに、実現しているのだ、ということ。そのことの証しなのです。
 その証として、神様によって、与えられた奇跡なのです。つまり、使徒パウロが、語り続けてきた、あの恵みの支配。その恵みの支配を、目に見える形で、神様が、指し示して下さったのだ、ということなのです。正に、伝道は、神様を主体とするものなのです。
 私達は、今、このような驚くべき奇跡を、目の当たりにすることはできません。しかし、私達は、聖書を通して、それが、事実であることを、知ることができます。神様は、今や、神様の救いの支配が、既に実現し、今、私達が、その御支配の中に、生かされている。そのことを、聖書の御言葉をもって証し続けているのであります。
 つまり、今、人々を、そして、私達を、支配しているものは、病や死、悪霊の力ではないのです。今、私達を支配しているのは、神様の救いであり、神様の恵みそのものなのです。私達人間を縛り付け、滅びへ陥れるものはなく、神様の恵みによって、私達は、真の自由に生きられるのであります。そのことを、当時は、目に見える形で、今は、聖書を通して、私達は、知るものとされているのであります。
 そのような深い恵みの中で、続きの御言葉に耳を傾けたいと思います。13節から16節の御言葉をお読みします。「ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言う者があった。ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた。悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した」。
 ここには、「ユダヤ人の祈祷師たち」が、出て参ります。口語訳聖書では、「まじない師」と訳されていました。恐らく、占いや魔術を行うものであったと考えられます。
 そもそも、ユダヤ教では、「占い」や「魔術」は、律法で、禁じられていました。それは、まず一つは、異教の文化であるという理由です。もう一つは、神様の力を、自分のために、利用してしまうからであります。その時、何が起こるのでしょうか。その時、神様とその人の関係は、逆転してしまうのです。自分が、神様の主人になってしまうのであります。
 その意味で、この人たちは、単なる律法違反者というだけではなく、神様を我が主とせず、神様の御支配に対して、服することのない人たちなのであります。あるいは、神様の救いの支配には、決して、入ろうとしない人。むしろ、自分が、支配者であろうとする人。そのような人たちだったのです。
 自分が、支配者であろうとするところに、真の全ての支配者である神が、働くはずはありません。いや、神を神とせず、自分が、神のようになろうとする。そのところでは、むしろ、悪霊が、その力を発揮するのです。彼らは、結局、悪霊の力によって支配され、そして、傷つけられ、去って行くしかなかったわけであります。
 私達もまた、この時代にあって、沢山のものに囲まれています。その中には、私達を、神様の御支配から切り離そうとするものもあるかもしれない。その時、私達もまた、悪霊に問われることがあります。「お前は誰なのか」と。自分は誰なのか。どこに繋がっているのか。誰の支配の中にいるのか。それが、問われていくことがあるのです。
 自分が、支配者であろうとした人たち、即ち、まじない師は、これに応えられなかったのです。そもそも、イエスの名を「利用していた」だけです。イエス様のことを、知るはずはありませんし、イエス様を信じていたわけでもありません。それゆえに、「イエスの名を使っている、あなたは、何者なのか。」「イエスと、どういう関係の人なのか」。その問いかけには、答えられないのです。
 私達は、答えられるのでしょうか。「わたしは主イエス・キリストのもの」であると。「わたしはキリストの僕」であると。「わたしはキリストの囚人」であると。私達が、今、神様の恵みの支配にある時、私達は、喜びをもって、自らが、キリストの僕であり、キリストと一つであること。そのことを、告白できるはずなのです。そして、それこそが、悪霊と対峙するとき、様々なものと対峙する時に、大切な私達の姿なのであります。
 最後に、17節から20節の御言葉をお読みします。「このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった。信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった。このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった」。
 この出来事をみた、多くの人々が、神様の恵みの支配のもとへと帰ってきます。面白いことに、聖書によると、「信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきりと告白した」と言われています。ここで言われている「悪行」とは、具体的にいえば、その後に書かれている「魔術」のことではないかと思います。
つまり、主イエスをキリストと信じ、神様の恵みの支配に入れられていながらも、「魔術」「占い」「まじない」に、心惹かれていた人は、少なくなかったようです。しかし、これは他人事ではないと思うのです。
キリストによって与えられた神様の救い、その恵みの中に生かされていながらも、どこかで、満足が出来ない。不足を感じたり、不確かさを感じたり、あるいは、不安になってしまう。そういうことは、私達の心の中にもあるのです。
 全生活を、キリストに明け渡すことができない。そういう心の隙間は、私達の内にも起り得るのです。そして、その隙間を埋めるために、他の何かを埋めようとする。そういうことは、私達の内にも起り得ることなのです。
 しかし、正に、そこで私達は、魔術や占い、人間的なものに心が奪われてしまう。そのような隙を作ってしまうことになるのです。そして、悪霊は、そこを利用してくるのです。
 エフェソの人々にとって、魔術の本は、彼らの不確かな信仰や不満足感を埋めてくれる、心の支えのようなものだったのかもしれません。
 しかし、今、使徒パウロを通して語られた、神の国は、神様の救いの御支配は、確かに、実現している。そのことを知った時、全てを、神様の御支配のもとに、明け渡していく。そのような心が、再び、与えられたのではないかと思うのです。
 私達は、今、目で見える形で、奇跡はみえません。しかし、聖書は、神様の救いの支配が、キリストによってもたらされている。その事実を、証しています。この御言葉に留まり続ける、聖書に立ち続けること。それが、今、私達にとっても、大切なことなのです。
 そして、そこで、神様の救いや恵みを、いつも味わい、そこに留まり続け、私を支配しているのは、ただ一人の主、イエス・キリストしかいない。この御方の救いで、全ては十分なのだ。私は、その恵みのもとにあって、キリストと一つなのだと、自ら告白し続けていく。そこに、様々なもの、悪霊的、サタン的、悪魔的、あるいは人間的な諸力から解放され、勝利する、私達の姿があるのではないでしょうか。
 魔術は、確かに、一時の平安を与えるものかもしれません。他のものもそうでありましょう。しかし、また、悪いことが起きれば、他の魔術に頼ることになります。改名したり、家の方角を気にしたり、印鑑の形を気にしたり、最後は、壺でも買うのでしょうか。キリがないのです。そして、それが、進めば進むほど、キリストから離れていくのです。
 しかし、キリストの救いの支配は、永遠なるものであります。それで、完全なものであります。それで、全ての救いは充実化しているのであります。この深い恵みの下に、共にとどまり続ける。そのような、私達でありたいと思うのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 07:34| 日記