2022年12月11日

2022年12月25日 主日礼拝予告

〇教会学校 休会(1月8日より再開)
*12月24日(土)午前10時より、クリスマス礼拝を行います。対象は、子どもたちですが、どなたでも参加で 
きます(o^―^o)ニコ

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:マタイによる福音書1章18節〜25節
説教:「神は共におられる」須賀工牧師
礼拝後、フルートのミニコンサートが行われます。

感染予防対策をした上で、礼拝を捧げています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:15| 日記

2022年12月24日 クリスマス・イヴ礼拝

クリスマス・イヴ礼拝

日時:12月24日(土)午後7時〜8時
聖書:ルカによる福音書2章1節〜7節
説教:「あなたのための救い主」須賀工牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を捧げています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:12| 日記

2022年12月10日

2022年12月18日主日礼拝説教「主の導きに委ねて」須賀工牧師

聖書:使徒言行録20章13節〜27節、エレミヤ書1章4節〜10節
説教:「主の導きに委ねて」須賀工牧師

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録20章13節から27節の御言葉です。改めて13節から17節の御言葉をお読みします。「さて、わたしたちは先に船に乗り込み、アソスに向けて船出した。パウロをそこから乗船させる予定であった。これは、パウロ自身が徒歩で旅行するつもりで、そう指示しておいたからである。アソスでパウロと落ち合ったので、わたしたちは彼を船に乗せてミティレネに着いた。翌日、そこを船出し、キオス島の沖を過ぎ、その次の日サモス島に寄港し、更にその翌日にはミレトスに到着した。パウロは、アジア州で時を費やさないように、エフェソには寄らないで航海することに決めていたからである。できれば五旬祭にはエルサレムに着いていたかったので、旅を急いだのである。パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた」。
 使徒パウロは、今、第三伝道旅行を終えようとしています。聖書によると、トロアスから移動し、今、ミレトスという町に到着しました。そして、いよいよ、エルサレムに向かっていくようです。
 使徒パウロは、ここで、エフェソには、寄りませんでした。その代わりに、エフェソの長老たちを呼び寄せました。そして、最後の言葉を語ります。いわゆる、「遺言」というものです。
 「遺言」という言葉は、少し、大げさかもしれません。しかし、これは「遺言」と言っても、良い言葉であると思います。22節や23節、そして、25節を読みますと、使徒パウロとしては、もう二度と、エフェソの人々に会うことはない。そういう覚悟や決意をしていたようです。正に、今生の別れであり、遺言であります。あるいは、最後に、これだけは伝えておきたい。そういう訣別の説教のようなもの。そのように言えるかもしれません。
 さて、この使徒パウロの説教を聞いたのは、誰だったでしょうか。それが、エフェソの「長老」たちであります。この「長老」という言葉は、後に、教会制度である「長老制度」の元になった言葉です。
 但し、28節には、この長老に対して、「監督」という言葉も使われています。これも、後の教会制度の一つである「監督制度」の元になった言葉です。つまり、ここには、後の教会制度においては、全く違う意味を持つようになった、「長老」「監督」という言葉が、同じ人々を指す言葉として、用いられていることになるのです。
 当時の教会には、教会における、指導者体制が、確立していたわけではありません。それ故に、教会の指導的立場の人々を総称して、長老とか、監督と呼んだのだろうと思います。いずれにせよ、ここに集められたのは、教会の指導者たちであり、同時に、教会を形成するために奉仕する。そのようなクリスチャンたちであった、ということであります。
 そして、それ故に、この使徒パウロによる、訣別の説教は、「教会が何を大切にすべきか」ということ。あるいは、「教会とは、どういう共同体であるべきなのか」ということ。その部分を、特に、強調して、語られていることになるのであります。その意味で、この御言葉は、今を生きる、長老や役員に関わらず、全てのクリスチャンに関わる、大切な教えであると言えるのです。
 今朝、私達は、27節までの御言葉をお読みしました。この文脈は、大きく、二つに分けることができます。まずは、21節までの御言葉です。これが前半になります。ここでは、エフェソにおいて、使徒パウロが、どのように教会を指導してきたか。そのことを語っています。後半は、22節から27節の文脈です。そこでは、パウロが、現在、置かれている状況。そして、これからの見通し。そこにおける、ある意味では、決意。そのようなものが、ここで、語られています。
 まず、18節から21節の御言葉をお読みします。「長老たちが集まって来たとき、パウロはこう話した。『アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです』」。
 これが前半部分です。使徒パウロは、ここで、彼自身が、どのようにして、エフェソの教会を指導してきたか。そのことについて語っています。
 それでは、使徒パウロが、エフェソでしてきた働き。それは、一体、どのようなものだったのでしょうか。それが、19節の御言葉に、集約されています。要するに、「主にお仕えしてきました」ということです。
 これこそが、パウロの働きの中心なのです。いや、全ての伝道者、そして、キリスト者の働きの中心なのであります。それでは、「主に仕える」とは、どういう事なのでしょうか。それは、一言で言えば、「自分を全く取るに足りない者と思う」ことなのです。この言葉は、口語訳聖書では、「謙遜の限りを尽くし」となっています。つまり、徹底的に、謙遜であること。それが、主に仕えることなのです。
 私達は、教会にあって、色々な奉仕をします。これが、「良い」と思ってするわけです。これこそが、「主に仕えること」だと思って、一つ一つをするわけであります。しかし、その思いの全てが、実は、「取るに足りない無価値なもの」だと知ること。実は、これが、謙遜なのです。少々、厳しい言い方になりましたことを、お許しください。
 「主に仕える」ということは、「私の思いに仕える」ことではありません。神様の御言葉に従っていくことです。自分自身の最善の働きすらも、実は、取るに足りないものでしかない。それを知る。それを知ることで、自分の思いではなく、神様の御言葉に、心を向けることができる。そのようにして、自分の思いではなく、主に仕えるものになるのです。
 「謙遜」にまで現れてくる人間の傲慢さは、すさまじい力を持っています。そのような誇りや傲慢さを、神様の前で、打ち砕いて頂く。そこで、自分の思い、自分が、良いと思う事、あるいは、考えたことが、実は、取るに足りない無価値なものでしかない。それを知る。そうであるなら、神様の御言葉に立ち帰り、神様が示すことに聴いて従おう。そういう思いの先に、謙遜さが生きるのであります。
 この「謙遜」は、同時に「涙」が伴います。使徒パウロは、真実な謙遜によって、主に仕えてきました。その歩みは、「涙を流しながら」の歩みなのです。それは、具体的に言えば、「ユダヤ人の数々の陰謀によって」生まれた涙です。妨害や迫害の苦しみによる涙であります。しかし、そのような苦しみを受け入れ、涙を流しながら、それに耐えていく。実は、そこにこそ、謙遜さに生き、主に仕える者の姿があるのです。
主に仕えることの中で、私達もまた、様々な涙を流します。信仰を理解してもらえない涙があります。一生懸命に奉仕をしているのに、誤解されたり、批判されたりすることで生まれる涙もあります。自分の奉仕が、正当に評価されない。そういう涙もあるでしょう。あるいは、中傷されたり、噂話、陰口を知ったりすることで生まれる涙もある。
 しかし、そこで、大事なことは、使徒パウロが、涙を流しつつ、それを、耐え忍んだ、ということなのです。怒りを爆発させたり、反抗したり、愚痴をこぼしたり、敵視したり、そのようにして、使徒パウロは、相手と事を構えることはなかったわけです。
 「自分を全く取るに足りない者と思う」という、そこから生まれる、真の謙遜さは、怒りを抑え、涙を流しながら、耐え抜く。そういう姿に現れるのです。
 ヤコブの手紙1章20節には、「人の怒りは、神の義を実現しない」とあります。怒りは、たとえ、どのような正当な理由があったとしても、「謙遜」とは、対立するのであります。怒りに任せて、言った言葉や行動は、決して、良い実りを得ることはできません。
 なぜでしょうか。それは、結局は、神様の御言葉ではなく、自分の思いに仕えているからです。涙を流しつつ、耐える謙遜。そこにこそ、主に仕える、キリスト者の姿があるのです。
 しかし、使徒パウロは、決して、人の言いなりになったわけではありません。謙遜の限りを尽くすことは、人の言いなりになる事ではないのです。20節から21節を改めてお読みします。「役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです」。
使徒パウロは、人の言いなりになることはありませんでした。いや、むしろ、大胆に、人々に語ることも、大切にしたのです。
 それでは、何を語ったのでしょうか。「役に立つこと」を語ったのです。口語訳聖書では、「益になること」を語ったとあります。教会の人にとって「役に立つこと」「益になること」とは、何でしょうか。それは、彼らの信仰が、益々、成長し、心から主に仕える者となっていくことであります。使徒パウロは、そういう言葉を、大胆に語ったのです。
 具体的には、「神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰」について、使徒パウロは、大胆に、語りました。
 使徒パウロは、まず、「悔い改め」を語りました。私達は、神様に対して、罪を犯している。神様に背いている。だからこそ、神様のもとに立ち帰り、赦しを求めなければいけない。そういう悔い改めを求めたのであります。それは、ある意味では、人々にとって、心地よい話ではないと思います。しかし、パウロは、それを、臆することなく、大胆に語ったわけです。
 しかし、それだけではありません。使徒パウロは、同時に、「主イエスに対する信仰」を語りました。確かに、私達は罪を犯した。しかし、主イエス・キリストが、この私のために十字架に架かり、死んで、復活してくださった。今や、主イエスを救い主と信じる。その信仰によって、私達の罪は赦され、永遠の命を得ることができる。だからこそ、この恵みに、立ち帰ってほしい。使徒パウロは、この福音もまた、大胆に、語ったのであります。
 何よりも、使徒パウロ自身が、この信仰に生きています。そして、この信仰に生きることこそが、彼を、真の謙遜さへと導いているのです。
 本当の謙遜は、生まれつき、備わっているものではありません。使徒パウロも又、主イエスと出会うまでは、謙遜さのかけらもありませんでした。自分が正しいと思うことが、神様に仕えること。そのように思って、クリスチャンを迫害していたわけです。
 しかし、その罪の中で、復活の主と出会った。そして、この迫害する自分のためにも、キリストは、命を捨ててくださった。罪を赦してくださった。キリストが、この私の為に、ここまでしてくださった。その深い恵みに触れた時、自分のしていること。自分の功績や思い。それが、如何に、取るに足りない無価値なものであるか。そのことを知ることができた。このキリストにある福音に立ち帰る時、人は、真の謙遜さに生きる。その道を見つめることが出来るのではないかと思うのであります。
 使徒パウロは、教会の形成の鍵となるものとして「謙遜」を伝えました。全てのものが、自分の思いを捨て、主に仕えること。そして、そのために、忍耐をすること。そして、それをなすために、常に、キリストの福音を知ること。これが、教会を立てていくために、必要なものであることを、示したのであります。私達も又、このことを、深く、心に刻み付けるものでありたいと思うのです。
 さて、続いて、後半部分を、少し、お話します。22節から27節の御言葉です。「そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。わたしは、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです。だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです」。
 使徒パウロは、これからのことを、ここで、語り始めています。今、彼は、エルサレムに向かっています。これから、どのようなことが起るのか。自分も分からない。但し、投獄と苦難があることは分かる。そして、それで「良い」。そのように、使徒パウロは、語るわけです。
 使徒パウロは、「命すら決して惜しいとは思いません」と言います。これは、正に、「自分のこだわり」からの解放であります。彼が、このように、思えたのは、彼自身の決意によるものではありません。今までのこだわりを捨てたことで、「別のもの」に、捕らわれたからです。
 それが、「聖霊」であります。22節にある「促されて」という言葉は、「縛られて」という意味なのです。使徒パウロは、今、聖霊−神様の霊、キリストの霊−に縛られ、捕らえられて、エルサレムに行くのです。自分の意志ではなく、思いではなく、こだわりでもない。自分は、取るに足りないものだ。そうであるならば、その自分を捨てて、神様の導きに身を委ねたら良い。そういう大胆な歩みも又、謙遜さから生まれてくるものなのかもしれません。
 26節、27節を読むと、その大胆さが、よく表れていると思います。語るべきことは語った。あとは、私の責任ではない。そういう意味です。ある意味では、無責任かもしれません。しかし、もう、あなたがたは、神様に委ねられているのだ、ということ。自分が、エフェソ教会に固執するのではなく、教会を、神様に委ねること。ここに、謙遜さがあると言えるのです。
 このように、使徒パウロの伝道活動は、「謙遜」がテーマでもありました。そして、教会を教会として立てていくのは「謙遜」であることも教えられました。
 しかし、それは、人の謙遜さや謙譲の美徳のようなものではありません。この謙遜さとは、人を立てずに、神を立てること。神様を中心とすること。つねに、神様の御言葉や導きに聴き従うこと。そこにある謙遜さであります。そのためには、時には大胆に語り、活動する。それもまた、大切なことなのです。
私達もまた、様々な思いで奉仕をしています。そして、それは、全て、主のためであると考えているでしょう。但し、大事なことは、時には、立ち止まり、主の御言葉に耳を傾け、自分へのこだわりから解放してもらい、福音の恵みに触れながら、もう一度、自分のなすべきことをする。そういう生き方ではないかと思うのです。キリストが、正に、この私のために苦しまれたこと。あのキリストが、この私のために、新しい命をくださったこと。その深い憐れみを覚えつつ、主の栄光のため、私達もまた、新たに立ち上げるものでありたいと思うのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:46| 日記