2022年12月08日

2022年12月18日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:ルカによる福音書2章1節〜7節
説教:「主イエスのご降誕」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:使徒言行録20章13節〜27節、エレミヤ書1章4節〜10節
説教:「主の導きに委ねて」須賀工牧師

クリスマスの礼拝案内
2022年度石山教会クリスマスのご案内.pdf

感染予防対策をした上で、礼拝を捧げています。皆様のお越しを心よりお祈り申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 06:59| 日記

2022年12月07日

2022年12月11日 主日礼拝説教「御言葉による慰め」須賀工牧師

聖書:使徒言行録20章7節〜12節、詩編30篇1節〜13節
説教:「御言葉による慰め」須賀工牧師

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録20章7節から12節の御言葉です。初めに、7節から8節の御言葉を、お読みします。「週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。わたしたちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた」。
 使徒パウロは、エフェソでの伝道を終えて、マケドニア州、ギリシアに訪問し、今、トロアスに滞在しています。
いよいよ、使徒パウロは、エルサレムに向けて旅立つことになります。その前夜、使徒パウロは、トロアスのクリスチャンと共に、今で言う所の「礼拝」を捧げたようであります。
 聖書には、「週の初めの日」と記されています。「週の初めの日」とは、「日曜日」のことを指しています。そして、「パンを裂く」という言葉も使われています。この「パンを裂く」という言葉は、単なる「食事をする」という意味ではありません。
 例えば、コリントの信徒への手紙一11章23節には、次の様に記されています。「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き…云々」。
 このコリントの信徒への手紙の一文は、聖餐式で使われている一文です。恐らく、ここで言われている「パンを裂く」というのも、「聖餐式」のことではないか。そのように、言えるわけであります。要するに、使徒パウロは、トロアスのクリスチャンたちと共に、出発前日の日曜日に、聖餐の恵みに与ったのだということ。そのことが、ここから分かるのです。
 しかし、どうやら、それだけではなかったようです。聖書によると、使徒パウロは、大変、長い時間をかけて、お話をすることにも、力を尽くしたようであります。この「お話」は、双方による会話というよりも、むしろ、使徒パウロの一方的な語りかけであった。そのように考えられます。
 つまり、一言で言うならば、今で言うところの「説教」が、ここで、行われていたのではないか。そのように、考えることができるのであります。聖餐と説教は、共に御言葉です。聖餐は「目に見える御言葉」。説教は「目に見えない御言葉」であります。どちらも、キリストの救いに触れていくものです。要するに、ここで、使徒パウロは、日曜日に、このトロアスにて、多くのクリスチャンたちと、今で言う所の「礼拝」を捧げていた。そして、そこで、共に御言葉の糧やキリストの恵みを分かち合っていた。そのように言えるのであります。
 ここから、分かりますように、今朝の御言葉のテーマは、「礼拝」です。「礼拝」を通して、あるいは、そこで分かち合う御言葉−説教、聖餐―を通して、私達は、何を受けているのか。そのことに、注目をしつつ、今朝の御言葉に、共に、聴いて、参りたいと思います。
 今朝の御言葉にある9節から10節を、改めてお読みします。「エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱き抱えて言った。『騒ぐな。まだ生きている』」。
 「エウティコ」という青年が、ここで、登場します。彼は、礼拝中に、居眠りをしたことで、窓から転落し、死んでしまいました。
 私達には、ここから、何を示されているのでしょうか。「礼拝中の居眠りは危険である」ということでしょうか。「説教を短くしなさい」ということでしょうか。それは、違います。
 そもそも、なぜ、エウティコは、居眠りをしてしまったのでしょうか。それは、この礼拝が「夜」に行われていたからです。私達は、日曜日の朝に、礼拝を捧げていますが、当時、礼拝は「夜」に行われることが多かったようです。
 なぜでしょうか。それは、当時の人々は、日曜日にも仕事をしていたからです。日中、一生懸命に仕事をし、寝る間・休む間も惜しむことなく、礼拝に出席していたわけです。多少、大げさな言い方にはなりますが、それぐらい、彼らは、自分たちの時間や命を削って、正に、彼らの命を懸けて、礼拝を捧げていたのであります。それほどのモチベーションで、礼拝を捧げていたわけであるのです。その意味で、私達は、エウティコを笑うことはできません。むしろ、彼の前で、頭が上がらない気持ちの方が、強くあります。
 しかし、ここで、大切なことは、人間は、決して、完璧ではないということです。むしろ、弱さの方が多いわけです。日常生活に疲れ、眠ってしまうことがある。日常生活に埋まり、疲れ切ってしまうことがある。そして、それ故に、信仰の目が、閉じてしまう。そういうこともないとは言い切れないのです。この世にあって、礼拝する気持ちが薄れ、信仰が緩んでしまうこともあるわけです。その時、私達もまた、エウティコと共に、罪による死に向かっていくこともあると言えるのです。
 しかし、ここで大事なことは、これが、礼拝である、ということです。礼拝に招かれた人とは、こういう人たちのことなのです。日常生活に疲れ、この世の生活に埋まり、信仰の目が、今にも閉じかけてしまう。そういう人々が、ここで、礼拝に招かれている。完璧な信仰者だけが、礼拝を捧げるのではないのです。欠けがあり、弱さがあり、汚れがあり、疲れや痛みの中にある。そういう私達が、この礼拝に招かれ、御言葉の恵みを、味わうものとされている。それが、私達の捧げている礼拝の恵みなのであります。
 但し、このお話は、ここでは、終わらないのです。パウロは、次の様に言います。「騒ぐな。まだ生きている」と。これは、決して、エウティコが、「瀕死」であった、という意味ではありません。エウティコは、完全に死んだのです。
 しかし、パウロは、ここで「生きている」と宣言したのであります。そして、エウティコを復活させたのであります。同じような事が、使徒ペトロにおいても、行われました。そして、使徒ペトロの場合においても、同じですが、このパウロの言葉は、「主イエス・キリスト」の御言葉と類似しています。
 特に、マルコによる福音書5章35節以下の御言葉に類似しているように思います。そこで、主イエス・キリストは、会堂長ヤイロという人物の娘を、復活させられました。その時、主イエス・キリストは、次の様に、仰せになりました。「なぜ、泣き騒ぐのか。子どもは死んだのではない。眠っているのだ」と。ここで、パウロも、主イエス・キリストも、死に対して「騒ぐことではない」と仰せになったわけです。
 これは、決して、使徒パウロと主イエス・キリストが同等である、ということではありません。使徒パウロは、あくまでも、キリストを証するために、伝道をしてきたわけです。ですから、この働きもまた、キリストご自身が生きていることを証しする。そのためのものであると言えるのです。
 つまり、ここで起きていることは、ただ一つなのです。復活の主が、生きておられる、ということ。その主イエス・キリストが、一人の青年を死から命へと導かれたのだ、ということなのです。
 そして、最も、大切なことは、これが、礼拝の中で起きている、ということなのです。先ほども、申し上げましたが、礼拝は、完璧な人間だけが、招かれるものではありません。欠けのある人、弱さを抱えた人、罪に埋もれた人、信仰の目が閉じた人。死に支配された人。そういう人間が、集められているのです。
そして、正に、その中心に、主イエス・キリストは生きておられるのであります。そして、その一人一人に触れてくださり、一人一人を罪と死から救い出し、永遠の命へと至らして下さる。礼拝で起きていることは、このような出来事なのであります。
 このことは、私達と無関係ではありません。私達の捧げる礼拝の中心には、復活の主がおられるのです。私達もまた、罪を抱え、弱さを抱え、死に支配されながら、それでもなお、今、復活の主の前へと招かれているのであります。そして、その一つ一つの礼拝を通して、主ご自身が、聖霊によって、一人一人の心に触れ、私達の心を癒し、その閉じかけた目を開けてくださり、神の国への道を、改めて、確かに、見させてくださるのであります。礼拝の恵みとは、正に、ここにあるのです。
 礼拝の中心は、説教と聖餐です。これらの御言葉を通して、私達は、主イエス・キリストの救いを知ります。私達のために、命を捨てて、十字架に架かられた主を知ることができます。私達に永遠の命をもたらす主を知ることがでるのです。
 しかし、それだけではありません。そこに、主ご自身が、力強く臨んでいて下さり、この救いが、この私の身となるために、主ご自身が、聖霊によって、生きて働いてくださるのであります。
 聖書によると、この出来事の後、説教と聖餐は、続けられたようです。礼拝の恵みは、常に続いていくのです。それは、夜の闇を超え、朝に至るまでであります。闇のような世が終わり、光にあふれた新しい世界が訪れる。その日まで、復活の主は、私達と共にいてくださり、礼拝の中心に強く臨み続けてくださり、御言葉をもって、私達を慰めの内に生かし、そして、押し出してくださるのであります。
 この深い恵みを覚えつつ、私達もまた、自らを捧げる礼拝を、これからも続けていくものでありたいと思うのです。キリストが、この私のために、この世に来られた。そのキリストが、この私のために、命を捨て、復活してくださった。その主イエス・キリストが、今も、世の終わりに至るまで、私達と共にいて下さった。その深い恵みを味わいつつ、この私自身の人生もまた、主のものとしていただき、真の慰めを抱きつつ、新たに生き続ける。そのような群れでありたいと思うのであります。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:28| 日記

2022年12月05日

2022年12月4日 主日礼拝説教音声「励ましの言葉」須賀工牧師

聖書:使徒言行録20章1節〜6節、詩編126篇1節〜6節
説教:「励ましの言葉」須賀工牧師

@Spotify
https://open.spotify.com/episode/07YNF8dODHfssKSkpYdx9P?si=052a510fb19644bc

AYouTube
https://youtu.be/QgznAfXxaTA

皆様の上に、神様の祝福が豊かにありますように、心よりお祈り申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:03| 日記