2022年12月31日

2023年1月1日主日礼拝説教「御言葉を思い起こす」須賀工牧師

聖書:使徒言行録20章28節〜32節、イザヤ書52章1節〜12節
説教:「御言葉を思い起こす」須賀工牧師

 今朝、私達は、新年の第一主日礼拝を、捧げています。この一年間、神様によって、一つ一つの礼拝が、守られたことを、感謝します。そして、新しい年もまた、神様の導きがありますように、祈りつつ、共に、礼拝の恵みに、与りたいと思います。
 今朝、新年の礼拝に当たり、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録20章28節から32節の御言葉です。使徒言行録20章18節以下には、使徒パウロが、エフェソ教会の長老たちを招いて、最後の別れを告げています。そして、ここには、これからの教会の様々な事柄を、彼らに、託すようにして、力強く語られた「説教」が記されています。
 この説教は、直接的には、長老たち、即ち、教会の指導者たちに向けて、語られました。しかし、内容的には、「教会とは何か」「教会は何を大切にすべきか」という事柄に触れています。それ故に、この「説教」は、ただ単に、「指導者向けの説教」ということではありません。教会に連なる一人一人に向けた、大切な「御言葉」なのであります。
 今朝、私達もまた、この新年に当たり、改めて、「教会とは何か」「教会には何があるのか」。それらのことに、思いを馳せつつ、共に、御言葉に聴いて参りたいと思います。
 改めて、28節の御言葉をお読みします。「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」。
 「教会」とは、何でしょうか。それは、何よりも、まず、「群れ」です。教会は、「建物」ではありません。教会は、人が生きている「群れ」であります。
 しかし、この「群れ」は、単なる、「人の集まり」ではありません。この「群れ」は、「神が御子の血によって御自分のものとなさった群れ」であります。つまり、「教会」とは、神様が、御子イエス・キリストの血によって−あるいは、キリストの十字架の死によって−、神様のものとしてくださった。そういう恵みを受けた人々の群れのことなのであります。
 少し、言い方を変えて申し上げるならば、「教会」とは、神様が、私達を、ご自身のものとする、そのために、御子という貴重な代価を支払って生まれた、そういう人々の群れなのです。
イザヤ書52章3節には、次のような御言葉があります。「主はこう言われる。『ただ同然で売られたあなたたちは、銀によらずに買い戻される』と」。「ただ同然で売られた」というのは、「無価値」である、ということです。ここに、私達の罪ある状態が、言い表されています。要するに、神様に背き、罪に捕らわれている、そういう私達は、もはや、ただ同然の無価値なものでしかない。そのように、聖書は、私達の現実を、言い表しているのです。
 しかし、その私達を、神様は、ご自身のものとして、買い戻してくださった。そして、そのために、銀よりも、遥かに尊い、御子の血、御子の命を差し出されたのであります。
 教会を教会として、成り立たせているもの。そういうものが、あるとするならば、それは、人間の情熱や人間のイデオロギーではありません。あるいは、私達の信仰や行いが、教会を成立させているわけではないのです。ここに、示されているような、キリストにある、一方的な、計り知れないほどの神様の深い愛と恵み。これこそが、教会を生み、教会を成立させているのです。
 さて、このように、「教会」とは、神様の代価によって、救われた人々の群れとして生まれました。それは、言うならば、教会は、あくまでも、「神様のもの」である、ということです。人間のものではありません。神様のものです。
 それ故に、教会は、神様の御心、神様の御言葉こそが、中心でなければいけません。あるいは、それらが、教会を支配していなければいけない。そういう所でもあります。人の言葉よりも、神様の御心や御言葉。それらが、何よりも、第一に優先されなければいけない。そういう所なのです。
 そして、それを、正しく、行うために、教会には、聖霊によって立てられた「指導者」「監督者」「長老」の存在が必要なのです。要するに、教会には、教会としての秩序が、御言葉が中心となるための秩序が、必要なのです。そして、そのために、用いられるべき存在が、必要とされているのです。
 彼らに、求められていることは、二つあります。一つは、「自らに気を配ること」です。二つ目は、「群れ全体に気を配ること」です。この場合の「気を配る」とは、どういう意味でしょうか。
 人間的な配慮をすることでしょうか。それは、違います。神様の御言葉を第一とし、神様の御心を優先できるように、「気を配る」ということなのです。指導者たちは、まず、何よりも、自分自身が、御言葉を、優先できるように、自らで、気を配る必要があるのです。そして、その上で、群れ全体にも気を配るのであります。
 教会が、正しく神のものとなり、神様の御言葉と御心で、一杯に、満ち溢れていく。そのために、自分自身と群れ全体に、気を配っていく。これが、主によって、たてられた指導者たちの務めです。そして、教会が、何よりも、優先すべき事柄なのであります。あくまでも、御言葉を中心に据え、神様の御心を第一とすること。そのために、全ての人が、配慮しあい、気を配って生きる。それが、神様のものとしての教会なのであります。
 さて、使徒パウロが、別れに際し、このような、言葉を語ったのには、明確な理由があったようです。それが、29節、30節の御言葉です。「わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます」。
 使徒パウロは、知っているのです。教会が、御言葉の支配から離れ去り、人間の支配に陥ってしまうこと。使徒パウロは、人間の持つ、潜在的な弱さや欠けを、よく知っているのであります。教会は、常に、外側から、そして、内側からも、危険に晒されているのです。
 だからこそ、大切なことは、何でしょうか。それは、「使徒から受けた御言葉」を思い起こし続けることであります。人間の言葉ではありません。使徒たちが受け、教会で語った。その御言葉。この御言葉を第一とし、何よりも、優先して、耳を傾けていくこと。人の言葉や思いを優先するのではなく、神様の御言葉、恵みの御言葉に留まり続けること。その御言葉を、何よりもまず、物事の最初に据えていくこと。これが、教会を、内外から守り、更に、群れを養う、一番の道なのであります。そのことが、ここで、特に、強調されているのであります。
 最後に、使徒パウロは、次の様に、語ります。「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」。
 使徒パウロは、ここで、エフェソの教会の人々を、神様と、その恵みの御言葉とに委ねます。彼は、決して、「教会を人に委ねること」はしませんでした。あくまでも、神様と御言葉とに委ねるのです。教会が、神様のものであり続けるためには、教会が、常に、神様と神様の恵みの御言葉に委ねられている。そういう群れであることが、大切なのです、
 神様の御言葉は、恵みの御言葉です。そして、聖書によると、この恵みの御言葉こそが、教会を立ち上がらせ、成長させ、そして、造り上げていくのです。人間の思想や情熱が、教会を造るのではないのです。神様の御言葉そのものが、教会を造り上げ、成長させ、導くのです。
そして、その恵みの御言葉は、ただ教会を造り上げる。それだけではありません。恵みの御言葉は、私達を、恵みを中心とした、聖なる者たちとの交わりへと導くのです。「聖なる者」とは、「神様のもの」「神様に属するもの」という意味です。恵みの御言葉は、私達一人一人を、恵みによって、「神様のもの」「聖なる者」へと、結びつける力があるのです。
 それは、言い換えるならば、神様の恵みの御言葉は、私達を罪から清め、私達をも、神様のものへと引き寄せていく。そういう力がある、ということなのです。
 教会が、神様のものとして、神様の御言葉を第一とするとき、私達は、この恵みを、常に味わい、噛み締めながら、この瞬間も生きられるのです。
 教会は、神様のものです。人間のものではありません。そして、神様は、キリストの血によって、一人一人を救い、一つの群れとしてくださいました。この教会は、神様の御支配、神様の御言葉と御心を中心としています。そして、この神様の教会は、神様の御言葉を第一とすることで、常に、私達に、真の救いを見させてくださり、誤った教えから、私達を守り、そして、私達に、神の国の希望を確かとしてくれるのです。
 新しい年が始まりました。そして、新年度から、新しい教師を迎えて、石山教会は、新たな旅に出ます。そこで何よりも、私達が、大切にすべきこと。それは、御言葉を第一として生きる、ということです。
そのために、お互いが、そして、自分自身が、御言葉を中心にする。そのような礼拝生活・教会生活、あるいは人間関係に、気を配り、生きていく。それが大切なことなのです。
 そして、何よりも、恵みの御言葉を第一とする。そのところにこそ、真の恵みと平安、赦されていることへの喜びと賛美、神の民とされていることの希望とが、満ち溢れていることを、改めて、心に刻み付けていく。そのような群れでありたいと思うのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 23:00| 日記