聖書:ヨハネによる福音書8章31節〜38節、エゼキエル書11章17節〜21節
説教:「真理はあなたを自由にする」須賀舞副牧師
須賀工ホームページ:https://takusuka21.wixsite.com/all-for-christ
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皆様の上に、神様の祝福が豊かにありますように、心よりお祈り申し上げます。
2023年01月30日
2023年1月29日主日礼拝説教音声「真理はあなたを自由にする」須賀舞副牧師
posted by 日本基督教団 石山教会 at 00:02| 日記
2023年01月28日
2023年2月5日礼拝予告
〇教会学校 9時15分〜
聖書:イザヤ書53章1節〜12節
説教:「イザヤのメシア預言」
〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:使徒言行録21章15節〜36節
説教:「使徒パウロの逮捕」須賀工牧師
感染予防対策をした上で、礼拝を捧げています。皆様のお越しを、心よりお待ち申し上げます。
聖書:イザヤ書53章1節〜12節
説教:「イザヤのメシア預言」
〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:使徒言行録21章15節〜36節
説教:「使徒パウロの逮捕」須賀工牧師
感染予防対策をした上で、礼拝を捧げています。皆様のお越しを、心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:51| 日記
2023年1月29日主日礼拝説教原稿「真理はあなたを自由にする」須賀舞副牧師
聖書:ヨハネによる福音書8章31節〜38節、エゼキエル書11章17節〜21節
説教:「真理はあなたを自由にする」須賀舞副牧師
「なぜ主イエスという方は、十字架にかけられ殺されたのか。」これは聖書を読む全ての人が抱く問いでありましょう。そして、本日の聖書を読むと、更に私たちは「なぜ主イエスという方は、ユダヤ人に殺されたのか。」という問いにもぶつかるのです。確かに今日の聖書箇所を読みますと、主イエスは 37節においてユダヤ人たちに「あなたたちはわたしを殺そうとしている。」とはっきり言われています。
もちろんイエスさまの死の責任が、全てユダヤ人にあったと言う訳ではありません。なぜなら、イエスさまの十字架の死とは、当時のローマ帝国下における犯罪を犯した者に対する刑罰の結果であったからです。現代の日本の司法制度で言うところの「死刑」です。私たちがいつも礼拝で告白する使徒信条の中には、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という一節があります。ポンテオ・ピラトとは、当時のユダヤを治めたローマ総督の名前です。このように、イエスさまはローマ帝国によって裁かれ十字架で殺されたと言うこともできるのです。
けれども、イエスさまの十字架の出来事には様々な要因があったにせよ、本日、私たちに与えられた聖書の言葉において、イエスさまは、ユダヤ人たちに「あなたたちはわたしを殺そうとしている。」とはっきりと語られているのです。そして、この先読み進めてまいりますと、それが事実となっていく、ユダヤ人たちもイエスさまを十字架で殺した者たちである、と言わざるを得ない現実があるのです。どうして、ユダヤ人たちは、そのようなことをしたのでしょうか。
そもそも、イエスさまご自身もユダヤ人でありました。つまりイエスさまと、ここに登場しているユダヤ人たちは同胞なのです。その上で、イエスさまは、私たちがこれまで読んできたこのヨハネによる福音書において、繰り返し、ご自身こそが主なる神がこの世に遣わした「神の子」であると証しされてきました。簡単に申し上げるならば、ユダヤ人の信じる神とイエスさまご自身が、等しい者であると言うことです。しかも、本日の箇所において、イエスさまが語られたその相手のユダヤ人は、イエスさまを信じた者たちであったと聖書は伝えているのです。しかし、彼らもまた、後にイエスさまを裏切っていきました。
そのような文脈で私たちが31節を読むならば、ここでユダヤ人たちに言われている「信じる」という言葉が、どうも、真の信仰とは異なるものだということが見えてくるでしょう。ヨハネによる福音書2:23-25では、イエスさまが人の心の不確かさを全てご存知であるということが既に語られています。そこでは、イエスさまのなさった奇跡を見て信じた人々を、イエスさまが信用しなかったと記されています。
本日の箇所も、2章の話とよく似ています。8:30には「これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。」とあります。にもかかわらず、8:31で、イエスさまは、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当の弟子である。」と言われるのです。イエスさまの言葉を聞いて信じた人々に対して、わたしの言葉に留まりなさいと言われている。つまり、ユダヤ人たちは、イエスさまの言葉を聞いて信じたつもりになっているが、イエスさまの言葉にとどまってはいないのだということです。ともすると、イエスさまから離れてしまい、違うものに目移りしてしまう、それではイエスさまの本当の弟子とは言えない、ということです。
この信じたつもりになっているユダヤ人たちについて、イエスさまは、もう一つ、本日の箇所の終わりのところ、8:38でこのように言われます。「わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」この最後の「ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」と言う言葉は、ここだけを切り取るとわかりにくい言葉です。もし、ユダヤ人たちが父なる神さまから聞いたことを行っているのなら、イエスさまからなんら指摘されることはないはずではないかと感じます。しかし、その先、8:44を読みますと、この8:38後半部分のユダヤ人の「父」が、天の父なる神さまではないと言うことがはっきりとわかるのです。8:44以下で、イエスさまはユダヤ人たちに「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって真理をよりどころとしていない。」と言われます。つまり、8:38の「あなたたちは父から聞いたことを行っている。」とは、悪魔から聞いたことを行っている、ということなのです。あなたたちは、悪魔の子だ、悪魔は最初から人殺しであり、その究極の行いが「わたしを殺すこと」、つまりイエスさまを十字架にかけて殺すことをあなたたちは行っている、ということです。
このことは、ユダヤ人の問題であって私たちとは無関係なのでしょうか。いいえ、違います。今、ここにいる私たちは、この与えられた御言葉を、私たちのことして読み聞かなければいけません。つまり、私もイエスさまを死へと向かわせた一人なんだ、ということです。私たちはその視点で、今日の箇所を読まなければいけない。神を信じる者たちが、特に自分は信じていると自他ともに認めるような人たち、けれども実は信じているつもりになっている人たちが、主イエス・キリストを殺すのです。
イエスさまを信じなかったからではなく、イエスさまを信じる思いの中に、イエスさまへの殺意がある、これは非常にショッキングな事柄かもしれません。今ここに集う私たちの信じる心の中にも不確かさがあり、そしてイエスさまへの殺意があるという。しかも、8章は、最後、イエスさまによって罪の指摘を受け続けたユダヤ人たちが、悔い改めるどころか、イエスさまを本当に殺そうとして石を手にするところで終わっていくのです。
しかし、このような決定的な関係の破れがあってもなお、イエスさまは全てをご存じの上で、ご自分を殺そうとする者たち、いや、ついには本当に十字架にかけて殺してしまう者たちらに語り続けることをやめません。
イエスさまは、このようにお語りになります。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする(8:32)。」この言葉は、もしかしたらクリスチャンでない方達にとっても、どこかで聞いたことのある言葉かもしれません。何故なら、ヨーロッパの高等教育機関などの入り口にこの「真理はあなたちを自由にする。」という言葉がよく掲げられているからです。日本においても、国立国会図書館にこの言葉が掲げられています。本来なら、教会が戸口に掲げる方がしっくりくるこの聖書の御言葉を、国立の施設が掲げているのは不思議なことです。
実は、国会図書館のその言葉は、確かに聖書が由来となっていますが、細かい言葉が少し変えられており、「真理はわれらを自由にする。」となっています。「真理はわれらを自由にする。」この言葉には、おそらく、人間が知的な探求によって真理に到達し、自由を獲得してゆくことができる、またそのような学問的探究を図書館という場所において推奨するという意味が込められているのだと思います。確かに、人類は、学びを通して、科学やテクノロジーを発展させてきました。また、文化や政治の面においても、自由や人権、民主主義など現代では当たり前の価値観を、真理を探る営みにおいて獲得してきたのです。結果、それによって、私たちは、今、より豊かでより便利な、そしてより自由な生活をしているのです。
けれども、本日の御言葉が指し示すのは、そのようなことではありません。人間の真理探求による自由な価値観の獲得を、イエスさまはおっしゃったのではないのです。そもそも、イエスさまが言われた「真理」も「自由」も、全く異なる意味なのです。イエスさまが言われた「真理」も「自由」も、私たちが努力で勝ち得るものではありません。それは、イエスさまを通して神さまから与えられるものです。私たちの内なるところからではなく、私たちの全く外側から得られるものなのです。
けれども、私たちはどこまでも自分達の可能性に、力に期待してしまいます。それは、8:33においても、ユダヤ人たちは、イエスさまに「わたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」と反論しました。シンプルに言うならば、ユダヤ人たちは「私たちはもう既に自由です!」と言ったのです。アブラハムは神と契約を結んだイスラエルの祖先であり、信仰の父とも言われる旧約聖書の人物です。旧約聖書をよく読みますと、イスラエルの民は、エジプト、バビロン、ペルシャ、ローマ等のさまざまな国から支配を受け続けていました。けれども、神に選ばれ契約を結んだ民である以上、その本質においては誰かの奴隷にはならない、神の民として自由な身分であるのだ、とこの時ユダヤ人たちは言いたかったのかもしれません。
けれどもそこで、イエスさまは、すかさず、「あなたたちは「罪の奴隷」ではないか」と指摘されます。8:34の「はっきり言っておく。」という言葉は、イエスさまが強調されて何かを語られる時の決まり文句です。イエスさまが教えようとされた、大事なこと、それは、「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」ということでした。そして続けて、「奴隷は家にいつまでもいるわけには行かないが、子はいつまでもいる。」と言われました。これは、たとえです。まず、この奴隷とは、罪の奴隷の状態にある人々のことです。そもそも、奴隷は、いつだって雇われ人です。主人によって雇われている時は、主人の家にいさせてもらえて、ご飯も食べられるでしょう。けれども、主人がもうお前に用はないと言えば、奴隷は家を失い、路頭に迷い出てしまうのです。それが、罪の奴隷である者の宿命なのだ、とイエスさまは教えておられるのです。
しかし、子は、奴隷とは違います。子は、家族の一員です。即ち、信じて神の子とされた人々は、神の家族の一員だということです。そもそも、子は、奴隷とは違い、仕事が何もできなくても、家を追い出されることはありません。どのような子であっても、親は子を心配し、大事にします。親は子どもの存在そのものを、愛しているからです。その子が世間で、役に立つような人でもそうでなかったとしても、仕事や勉強ができようと、できなかろうと、立派な人だったとしても、非常識であったとしても、父なる神さまは、どんな子どもであっても、「あなたは尊く価値があるのだ」と言われるのです。
ここまでの話をまとめるとするならば、イエスさまは、あやふやな信仰に生きる者たちに、二つのことを語られました。これは、今ここで、イエスさまご自身が皆さんにも語られていることです。まず一つは、「あなたは罪の奴隷である。」ということです。そして、もう一つは、「罪の奴隷として生きるのではなく、神の子となって自由を得なさい」ということです。
私たちは、どうしたら神の子となれるのでしょうか?何をしたら自由を得られるのでしょうか?8:36には「だから、もし子があなたたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」とあります。この「子」とは、神の子であられる主イエス・キリストのことであります。主イエス・キリストこそ、私たちを本当に自由にするお方です。そして、イエスさまは私たちに、「わたしの言葉にとどまりなさい。」と言われます。イエスさまは、人となった神の言葉そのものです。そして、イエスさまは真理そのものだからです。
私たちは、イエスさまにしっかり結ばれ、聖書の御言葉をいつもどんな時も心に刻み、口ずさんで生きているでしょうか。仕事の悩み、家族の問題、日常の大きいことから小さなことまで、喜びも悲しみも、その全てを、私たちは、まず御言葉に聴くところから始めているでしょうか。聖書は、私たちに、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と言います。けれども、その言葉に私たちはどれほど心を従わせて歩めているでしょうか。
古の預言者エゼキエルは、「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。」という主なる神の約束を語りました。本日共にお読みした旧約聖書の箇所です。まさにここで預言される、主なる神がこの世に与えてくださる「一つの心」「新しい霊」こそが、主イエス・キリストです。
先日、次年度からこの石山教会を牧会される大坪信章先生を説教者として礼拝にお招きしました。そこで、大坪先生は、コリントの信徒への手紙一2:6-16から説教をされました。その説教において、神の極みには限界というものがない、けれども、その神の極みを私たちは極めることができるのだという希望が語られました。しかし、それは、私たちの力では不可能なことであり、私たちは、聖霊の導きを受けて始めて、神の深みだけでなく、すべてのこと、この世の光も闇も一切合切を究めることが可能になるのだということが語られました。
あと数ヶ月で、石山教会は、新しい牧師を迎え新年度のスタートを切ります。さまざまな変化に対して、不安もあるかもしれません。もしかしたら、私たちの教会はこの変化の時を乗り切る気力も体力も、心もとないかもしれません。けれども、私たちは、聖霊を求め続けてまいりましょう。心を一つにし、聖書に聴き続けてまいりましょう。祈り続けてまいりましょう。そして、神を褒め称え、主イエス・キリストのご栄光を光り輝かせてまいりましょう。聖霊の働きは、私たちを通して、確実に前進してゆくでしょう。
説教:「真理はあなたを自由にする」須賀舞副牧師
「なぜ主イエスという方は、十字架にかけられ殺されたのか。」これは聖書を読む全ての人が抱く問いでありましょう。そして、本日の聖書を読むと、更に私たちは「なぜ主イエスという方は、ユダヤ人に殺されたのか。」という問いにもぶつかるのです。確かに今日の聖書箇所を読みますと、主イエスは 37節においてユダヤ人たちに「あなたたちはわたしを殺そうとしている。」とはっきり言われています。
もちろんイエスさまの死の責任が、全てユダヤ人にあったと言う訳ではありません。なぜなら、イエスさまの十字架の死とは、当時のローマ帝国下における犯罪を犯した者に対する刑罰の結果であったからです。現代の日本の司法制度で言うところの「死刑」です。私たちがいつも礼拝で告白する使徒信条の中には、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という一節があります。ポンテオ・ピラトとは、当時のユダヤを治めたローマ総督の名前です。このように、イエスさまはローマ帝国によって裁かれ十字架で殺されたと言うこともできるのです。
けれども、イエスさまの十字架の出来事には様々な要因があったにせよ、本日、私たちに与えられた聖書の言葉において、イエスさまは、ユダヤ人たちに「あなたたちはわたしを殺そうとしている。」とはっきりと語られているのです。そして、この先読み進めてまいりますと、それが事実となっていく、ユダヤ人たちもイエスさまを十字架で殺した者たちである、と言わざるを得ない現実があるのです。どうして、ユダヤ人たちは、そのようなことをしたのでしょうか。
そもそも、イエスさまご自身もユダヤ人でありました。つまりイエスさまと、ここに登場しているユダヤ人たちは同胞なのです。その上で、イエスさまは、私たちがこれまで読んできたこのヨハネによる福音書において、繰り返し、ご自身こそが主なる神がこの世に遣わした「神の子」であると証しされてきました。簡単に申し上げるならば、ユダヤ人の信じる神とイエスさまご自身が、等しい者であると言うことです。しかも、本日の箇所において、イエスさまが語られたその相手のユダヤ人は、イエスさまを信じた者たちであったと聖書は伝えているのです。しかし、彼らもまた、後にイエスさまを裏切っていきました。
そのような文脈で私たちが31節を読むならば、ここでユダヤ人たちに言われている「信じる」という言葉が、どうも、真の信仰とは異なるものだということが見えてくるでしょう。ヨハネによる福音書2:23-25では、イエスさまが人の心の不確かさを全てご存知であるということが既に語られています。そこでは、イエスさまのなさった奇跡を見て信じた人々を、イエスさまが信用しなかったと記されています。
本日の箇所も、2章の話とよく似ています。8:30には「これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。」とあります。にもかかわらず、8:31で、イエスさまは、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当の弟子である。」と言われるのです。イエスさまの言葉を聞いて信じた人々に対して、わたしの言葉に留まりなさいと言われている。つまり、ユダヤ人たちは、イエスさまの言葉を聞いて信じたつもりになっているが、イエスさまの言葉にとどまってはいないのだということです。ともすると、イエスさまから離れてしまい、違うものに目移りしてしまう、それではイエスさまの本当の弟子とは言えない、ということです。
この信じたつもりになっているユダヤ人たちについて、イエスさまは、もう一つ、本日の箇所の終わりのところ、8:38でこのように言われます。「わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」この最後の「ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」と言う言葉は、ここだけを切り取るとわかりにくい言葉です。もし、ユダヤ人たちが父なる神さまから聞いたことを行っているのなら、イエスさまからなんら指摘されることはないはずではないかと感じます。しかし、その先、8:44を読みますと、この8:38後半部分のユダヤ人の「父」が、天の父なる神さまではないと言うことがはっきりとわかるのです。8:44以下で、イエスさまはユダヤ人たちに「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって真理をよりどころとしていない。」と言われます。つまり、8:38の「あなたたちは父から聞いたことを行っている。」とは、悪魔から聞いたことを行っている、ということなのです。あなたたちは、悪魔の子だ、悪魔は最初から人殺しであり、その究極の行いが「わたしを殺すこと」、つまりイエスさまを十字架にかけて殺すことをあなたたちは行っている、ということです。
このことは、ユダヤ人の問題であって私たちとは無関係なのでしょうか。いいえ、違います。今、ここにいる私たちは、この与えられた御言葉を、私たちのことして読み聞かなければいけません。つまり、私もイエスさまを死へと向かわせた一人なんだ、ということです。私たちはその視点で、今日の箇所を読まなければいけない。神を信じる者たちが、特に自分は信じていると自他ともに認めるような人たち、けれども実は信じているつもりになっている人たちが、主イエス・キリストを殺すのです。
イエスさまを信じなかったからではなく、イエスさまを信じる思いの中に、イエスさまへの殺意がある、これは非常にショッキングな事柄かもしれません。今ここに集う私たちの信じる心の中にも不確かさがあり、そしてイエスさまへの殺意があるという。しかも、8章は、最後、イエスさまによって罪の指摘を受け続けたユダヤ人たちが、悔い改めるどころか、イエスさまを本当に殺そうとして石を手にするところで終わっていくのです。
しかし、このような決定的な関係の破れがあってもなお、イエスさまは全てをご存じの上で、ご自分を殺そうとする者たち、いや、ついには本当に十字架にかけて殺してしまう者たちらに語り続けることをやめません。
イエスさまは、このようにお語りになります。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする(8:32)。」この言葉は、もしかしたらクリスチャンでない方達にとっても、どこかで聞いたことのある言葉かもしれません。何故なら、ヨーロッパの高等教育機関などの入り口にこの「真理はあなたちを自由にする。」という言葉がよく掲げられているからです。日本においても、国立国会図書館にこの言葉が掲げられています。本来なら、教会が戸口に掲げる方がしっくりくるこの聖書の御言葉を、国立の施設が掲げているのは不思議なことです。
実は、国会図書館のその言葉は、確かに聖書が由来となっていますが、細かい言葉が少し変えられており、「真理はわれらを自由にする。」となっています。「真理はわれらを自由にする。」この言葉には、おそらく、人間が知的な探求によって真理に到達し、自由を獲得してゆくことができる、またそのような学問的探究を図書館という場所において推奨するという意味が込められているのだと思います。確かに、人類は、学びを通して、科学やテクノロジーを発展させてきました。また、文化や政治の面においても、自由や人権、民主主義など現代では当たり前の価値観を、真理を探る営みにおいて獲得してきたのです。結果、それによって、私たちは、今、より豊かでより便利な、そしてより自由な生活をしているのです。
けれども、本日の御言葉が指し示すのは、そのようなことではありません。人間の真理探求による自由な価値観の獲得を、イエスさまはおっしゃったのではないのです。そもそも、イエスさまが言われた「真理」も「自由」も、全く異なる意味なのです。イエスさまが言われた「真理」も「自由」も、私たちが努力で勝ち得るものではありません。それは、イエスさまを通して神さまから与えられるものです。私たちの内なるところからではなく、私たちの全く外側から得られるものなのです。
けれども、私たちはどこまでも自分達の可能性に、力に期待してしまいます。それは、8:33においても、ユダヤ人たちは、イエスさまに「わたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」と反論しました。シンプルに言うならば、ユダヤ人たちは「私たちはもう既に自由です!」と言ったのです。アブラハムは神と契約を結んだイスラエルの祖先であり、信仰の父とも言われる旧約聖書の人物です。旧約聖書をよく読みますと、イスラエルの民は、エジプト、バビロン、ペルシャ、ローマ等のさまざまな国から支配を受け続けていました。けれども、神に選ばれ契約を結んだ民である以上、その本質においては誰かの奴隷にはならない、神の民として自由な身分であるのだ、とこの時ユダヤ人たちは言いたかったのかもしれません。
けれどもそこで、イエスさまは、すかさず、「あなたたちは「罪の奴隷」ではないか」と指摘されます。8:34の「はっきり言っておく。」という言葉は、イエスさまが強調されて何かを語られる時の決まり文句です。イエスさまが教えようとされた、大事なこと、それは、「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」ということでした。そして続けて、「奴隷は家にいつまでもいるわけには行かないが、子はいつまでもいる。」と言われました。これは、たとえです。まず、この奴隷とは、罪の奴隷の状態にある人々のことです。そもそも、奴隷は、いつだって雇われ人です。主人によって雇われている時は、主人の家にいさせてもらえて、ご飯も食べられるでしょう。けれども、主人がもうお前に用はないと言えば、奴隷は家を失い、路頭に迷い出てしまうのです。それが、罪の奴隷である者の宿命なのだ、とイエスさまは教えておられるのです。
しかし、子は、奴隷とは違います。子は、家族の一員です。即ち、信じて神の子とされた人々は、神の家族の一員だということです。そもそも、子は、奴隷とは違い、仕事が何もできなくても、家を追い出されることはありません。どのような子であっても、親は子を心配し、大事にします。親は子どもの存在そのものを、愛しているからです。その子が世間で、役に立つような人でもそうでなかったとしても、仕事や勉強ができようと、できなかろうと、立派な人だったとしても、非常識であったとしても、父なる神さまは、どんな子どもであっても、「あなたは尊く価値があるのだ」と言われるのです。
ここまでの話をまとめるとするならば、イエスさまは、あやふやな信仰に生きる者たちに、二つのことを語られました。これは、今ここで、イエスさまご自身が皆さんにも語られていることです。まず一つは、「あなたは罪の奴隷である。」ということです。そして、もう一つは、「罪の奴隷として生きるのではなく、神の子となって自由を得なさい」ということです。
私たちは、どうしたら神の子となれるのでしょうか?何をしたら自由を得られるのでしょうか?8:36には「だから、もし子があなたたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」とあります。この「子」とは、神の子であられる主イエス・キリストのことであります。主イエス・キリストこそ、私たちを本当に自由にするお方です。そして、イエスさまは私たちに、「わたしの言葉にとどまりなさい。」と言われます。イエスさまは、人となった神の言葉そのものです。そして、イエスさまは真理そのものだからです。
私たちは、イエスさまにしっかり結ばれ、聖書の御言葉をいつもどんな時も心に刻み、口ずさんで生きているでしょうか。仕事の悩み、家族の問題、日常の大きいことから小さなことまで、喜びも悲しみも、その全てを、私たちは、まず御言葉に聴くところから始めているでしょうか。聖書は、私たちに、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と言います。けれども、その言葉に私たちはどれほど心を従わせて歩めているでしょうか。
古の預言者エゼキエルは、「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。」という主なる神の約束を語りました。本日共にお読みした旧約聖書の箇所です。まさにここで預言される、主なる神がこの世に与えてくださる「一つの心」「新しい霊」こそが、主イエス・キリストです。
先日、次年度からこの石山教会を牧会される大坪信章先生を説教者として礼拝にお招きしました。そこで、大坪先生は、コリントの信徒への手紙一2:6-16から説教をされました。その説教において、神の極みには限界というものがない、けれども、その神の極みを私たちは極めることができるのだという希望が語られました。しかし、それは、私たちの力では不可能なことであり、私たちは、聖霊の導きを受けて始めて、神の深みだけでなく、すべてのこと、この世の光も闇も一切合切を究めることが可能になるのだということが語られました。
あと数ヶ月で、石山教会は、新しい牧師を迎え新年度のスタートを切ります。さまざまな変化に対して、不安もあるかもしれません。もしかしたら、私たちの教会はこの変化の時を乗り切る気力も体力も、心もとないかもしれません。けれども、私たちは、聖霊を求め続けてまいりましょう。心を一つにし、聖書に聴き続けてまいりましょう。祈り続けてまいりましょう。そして、神を褒め称え、主イエス・キリストのご栄光を光り輝かせてまいりましょう。聖霊の働きは、私たちを通して、確実に前進してゆくでしょう。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 00:00| 日記