2023年01月15日

2023年1月15日主日礼拝説教音声「神の深みさえも究める」大坪信章牧師

聖書:コリントの信徒への手紙一2章6節〜16節、イザヤ書40章12節〜14節
説教:「神の深みさえも究める」大坪信章牧師

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皆様の上に、神様の祝福が豊かにありますように、心よりお祈り申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:54| 日記

2023年01月14日

2023年1月15日主日礼拝説教「神の深みさえも究める」大坪信章牧師

聖書:コリントの信徒への手紙一2章6節〜16節、イザヤ書40章12節〜14節
説教:「神の深みさえも究める」大坪信章牧師

 あるキリスト教関連の会報を読んでいた時に、御言葉の1節が目に留まりました。それが今朝、朗読していただいたコリントの信徒への手紙1、2章10節の御言葉です。「“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。」丁度その頃、石山教会との出会いが与えられ、その主の深いご計画を色々と思い巡らしていました。そして、この先、正式な招聘状が届き、説教の機会が与えられた時には、是非この御言葉を分かち合いたいという思いに導かれました。そして、今日その日を迎えました。この4月からは、今日の御言葉の通り「神の深みさえも究める」教会生活を、共に歩ませていただきたいと願っています。

 昨年末には、この2章10節の御言葉を思い巡らす中で、2023年度の教会標語と年間聖句、そして、伝道方針を提出しました。それに併せて、この日の礼拝予告のために、説教題と聖書箇所2箇所、また、讃美歌3曲も一緒に提出しました。けれども、その後、説教題の文字を一文字、間違えていたことに気づきました。探究の究と書くほうの究めると書くべきところを、極限の極と書くほうの極めるにしてしまっていました。年が明けて直ぐに連絡し、正しい文字のほうに直していただきました。これは漢字違いの勘違いでしたが、気づかなければ、言葉は言霊なので、意識の上でも勘違いが続いていたかもしれないと思うと侮れません。この漢字違いの勘違いは、大事なことを教えてくれました。極限の極は、限界や頂点に達することで、探究の究は、よく調べて本質を掴み、物事を奥深くまで明らかにすることです。大事なことというのは、神の深みさえも究めることには、限界や頂点が無いということです。だから、神の本質を掴み、神の奥深さを明らかにするためには、常に「“霊”」それは、聖霊の導きを受ける必要があるのです。また、2章10節には「一切のことを」とあります。一切とは一切合切です。つまり「“霊”」は、神の深みだけでなく、すべてのことをも究めるのです。要するに、聖霊は、光りが闇や陰を照らすように、あらゆる物事の本質を掴み、あらゆる物事の奥深さをも明らかにしてくださるのです。

 今日パウロは6節で言っています。「しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません」と。パウロは「信仰に成熟した人たち」と言っています。これは、ただ単に「完全に達した人たち」や「十分に成長した大人」を意味します。他の訳やギリシア語の原文では「信仰に」という言葉が無く、ただ「成熟した人たち」となっています。実は、この言葉には、パウロが皮肉を込めていると言われます。パウロは、この6節を境に、自分のことを「わたし」から「わたしたち」と言い換えています。その複数の中には、同じ福音宣教者たちが含まれます。また、これまでパウロは、コリントの教会の人たちのことを、2節と5節で「あなたがた」と言っていました。それが急に6節で「成熟した人たち」となるのです。まるで第三者の人たちがいるかのようですが、それもコリントの教会の人たちのことなのです。パウロは彼らに知恵を語りますが、それは5節の「人の知恵」や6節の「この世の知恵」ではありません。要するにパウロは、コリントの教会の人たちに「あなたたちは信仰においてではなく、この世の知恵を求めることにおいて成熟した人たちだ」と皮肉っているのです。と言うより彼らは、自分たちが成熟した人間であり、完全に達した人間であると自負し、そう言われることを好んでいました。

 しかしパウロは、そんな彼らに、彼らが求める「この世の知恵」を語るつもりは微塵もありません。そんなことをすれば、益々彼らを違った意味で成熟させてしまいます。パウロは「この世の知恵」のことを「滅びゆく支配者たちの知恵」とも言っています。これは「支配者たちの気に入る知恵」とも訳されています。そうすると「この世の知恵」は、1章26節以下の能力や家柄、力や地位のことを指しているかのようです。この世の支配者たちは、そういうものに自分が恵まれていることを知り、それを誇りに思っていたからです。それなら幸せなはずですが、パウロは彼らを「滅びゆく」者だと言うのです。なぜなら、能力や家柄、力や地位は、支配者たちを優越感に浸らせますが、救いには与らせないからです。だから、そういうものに自分が恵まれていることを知る知恵と誇りは、あとに空しさだけが残るのです。そこでパウロは、7節で「神の知恵」について語るのです。「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです」と。パウロが語る「神の知恵」は「隠されていた」とか「神秘」と説明されています。神秘は、人間の知恵では計り知れない不思議のことで、普通の認識や理論を超越したものです。この神秘は「奥義」とも訳されますが、それは物事の本質のことです。そうすると、そのような「神の知恵」を、なぜパウロは、語ることができたのかという素朴な疑問が湧いてきます。

 実際、8節に「この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう」とあります。この世の支配者たちは「神の知恵」を理解しなかったがために「栄光の主を十字架につけた」のです。この世の支配者たちというのは、ローマ総督ポンテヲ・ピラトや領主ヘロデ・アンティパス、そして、大祭司カイアファだと言われています。彼らは能力や家柄、力や地位に自分が恵まれていることを知る知恵を誇り「神の知恵」を理解しなかったのです。要するに、物事を浅く見ることしかできず、物事の本質を見抜けなかったのです。物事だけでなく神の本質も見抜けなかったのです。その神の本質こそ栄光の主イエス・キリストです。神は、この栄光を私たちに与えるために「神の知恵」を「世界の始まる前から定めておられた」のです。この世の栄光とは、自分で勝ち取り、自分が讃えてもらうことです。しかし、真の栄光とは、神が神を信じる者たちに与えるもので、神が、その救いの御業(業績)を信じる者たちによって讃えられることなのです。パウロは、そのことを証明するために、9節で旧約聖書のイザヤ書64章3節の御言葉を引用して言いました。「しかし、このことは、『目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された』と書いてあるとおりです」と。この準備されたことこそが、神の本質である、栄光の主イエス・キリストの十字架の救いという御計画でした。

 そこで、先程の素朴な疑問について考えたいのです。なぜパウロは「人の心に」それは、自分の心にも思い浮かばなかった「神の知恵」を語ることができたのでしょうか。そのことについて、パウロは10節で言っています。「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます」と。それは、神が「“霊”によって」明らかに示された、つまり、啓示されたからです。啓示とは、神が人間に真理を開示することです。神は、それを「“霊”によって」実現されたのです。これについて、パウロは11節で尤もなことを言っています。「人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません」と。例えば、私の思いは私の家族が代弁しても、誰も知ることはできません。私の思いを知っているのは、私の内にある霊だけです。だから、私の内にある霊が語らなければ、誰も私の思いを知ることはできません。同様に、神の思いは神の霊だけが知っています。だから、神が何を心に秘めておられるのか、それは、神が霊によって語ってくださらない限り、誰も、決して知ることはできないのです。

 しかし、何と神は、その“霊”によって、御自分の思いをパウロたちに明らかに示されたのです。その方法について、パウロは12〜13節で述べています。「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです」と。パウロは、はっきりと言っています。「神からの霊を受けました」と。本来、神の中にある霊、聖霊が、今パウロの中にあるのです。つまり、神が何を御心に秘めておられるのか、その思いを唯一知っている神の霊が、パウロの中にあって「世の霊」(それは自己中心的な魂)に勝ったのです。だからパウロは、神が恵みとして自分に与えてくださったものを知ったのです。すなわち、栄光の主イエス・キリストの十字架の救いを知ったのです。その恵みを知ることこそ、私たちを真に、いえ、永遠に活かす神の知恵なのです。これが、先程の素朴な疑問への答えです。

 けれども、それでも未だ腑に落ちないのです。パウロは「神からの霊を受けました」と言いますが、その事実を、どのように会得すれば良いのかが分からないからです。霊は掴みどころがありません。だから、何をもって神からの霊を受けたと言えるのか、それを人は知りたいのです。そして、それが神の深みさえも究める鍵なのです。実に、このことについても、パウロは、はっきりと言っています。「“霊”に教えられた言葉によっています」と。この聖霊に教えられた言葉とは、要するに御言葉です。私たちは、この御言葉によって、神の深みさえも究めるのです。この御言葉は、旧約時代で言えば、王や指導者や預言者たち、新約時代で言えば、主の弟子たちや使徒たちが聴いて書き記しました。彼らは皆、神に選ばれた者たちですが、人間でもあります。もし、そのような意識が私たちの中に少しでもあれば、どうしても、御言葉に対する私たちの気持ちも人間的になります。だから御言葉は、人が語ったとしても「聖霊が教えてくださる言葉」という言い換えは、常に私たちが為すべきことなのです。この聖霊が、御言葉によって私たちに真理を教えてくださるからです。それが、栄光の主イエス・キリストの十字架と復活の救いです。

 最後にパウロは、この2章を終えるにあたり14節で言っています。「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません」と。ここでパウロは「自然の人」と15節の「霊の人」について語ります。自然の人と言うと、言葉やイメージの上では綺麗ですが、聖書では「生まれながらの人」を意味します。それは、罪の奴隷になっている人のことです。初々しい赤ん坊が罪の奴隷だとは、なかなか受け入れ難いことです。ただ、この2章の文脈に沿って言えば、それは、自分の思いを優先する人のことだと言えます。その思いとは、自分の言葉、自分の知恵や知識、自分の欲望です。自然の人は、そういったものが恵みであると知って誇り、栄光を勝ち取るために、そういったものを極めようとするのです。それは、極限の極と書くほうで極めるのです。だから一向に「神の霊に属する事柄」を受け入れることができないのです。要するに14節にあるように「その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。」

 それは、13節で言われていたように 「霊的なものによって霊的なことを説明する」からです。肉的なものによって霊的なことは説明できません。肉的なものは肉的なことしか説明できません。しかし、霊的なものは霊的なこともそうですが、肉的なことも説明し、肉的なことは危険だと判断するのです。それについて、パウロは15節で言っています。「霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません」と。霊の人が誰からも判断されないのは、理由があります。パウロは16節で、旧約聖書のイザヤ書40章13、14節を引用して言っています。「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか」と。実際のイザヤの言葉は、次のようになっています。「主の霊を測りうる者があろうか。主の企てを知らされる者があろうか。主に助言し、理解させ、裁きの道を教え、知識を与え、英知の道を知らせうる者があろうか」と。イザヤが言うように、そういう人間は誰もいません。誰もいませんが、神の思いである神の霊だけは違います。すなわち、聖霊だけは違いますが、パウロは16節で言うのです。「しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています」と。なぜなら、パウロたちは「“霊“に教えられた言葉」すなわち、御言葉に聞いているからです。パウロが引用したイザヤ書40章21節と28節には、次のような御言葉があります。「お前たちは知ろうとせず聞こうとしないのか。」「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか」と。要するに、聖霊が教えてくださる御言葉に聞くなら、私たちは知ることができるのです。この御言葉が、一切のことを究め、神の深みさえも究め、神の本質を明らかにするのです。それが、栄光の主イエス・キリストの十字架と復活の救いなのです。この栄光を、神は信じる人たちに与えてくださったので、彼らは罪に死んで、義によって生き、栄光の主を賛美するのです。だから、私たちも御言葉を追い求めて、栄光の主を賛美いたしましょう。知恵というのは、恵みを知ると書きます。御言葉によって知る恵み、この神の知恵が、私たちを真に、いえ、永遠に活かすのです。

posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:39| 日記

2023年01月11日

2023年1月22日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:ヨブ記1章13節〜22節
説教:「ヨブの試練と祝福」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:使徒言行録21章1節〜14節、イザヤ書40章6節〜11節
説教:「主イエスの名のため」須賀工牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を捧げています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:24| 日記