2023年01月07日

2023年1月8日主日礼拝説教「与える喜び」須賀工牧師

聖書:使徒言行録20章33節〜38節、エレミヤ書7章1節〜11節
説教:「与える喜び」須賀工牧師
 今朝、私達は、今年、成人式を控えている、卒園生を迎えて、共に、礼拝を捧げています。かつて、神様によって、幼稚園に招かれ、育てられた。その子どもたちが、今、晴れて成人の日を迎え、その節目に、こうして、共に、礼拝を捧げることができました。そのことを、本当に、嬉しく感じています。今朝は、そのような深い、喜びを味わいつつ、共に、御言葉に、聴いて参りたいと思います。
 新約聖書の中に、「使徒パウロ」という人物が、出てきます。約1950年前、彼は、命がけで、世界に、キリスト教を、伝えました。そして、沢山の教会を立てました。
 彼の働きを通して、沢山のクリスチャンが生まれました。そして、教会も生まれました。そして、今に至ります。つまり、彼の働きがなければ、この石山教会もありません。あるいは、清和幼稚園もなかった。それ故に、ここでの出会いも、なかっただろうと思います。その意味で、キリスト教の歴史の中で、一番、重要な人物ではないか。そのように思います。
 しかし、忘れてはいけないことがあります。それは、そもそも、なぜ、彼は、命を懸けて、キリスト教を、布教したのでしょうか。
 元々、使徒パウロは、ユダヤ教徒です。それだけではありません。彼は、キリスト教徒の迫害者でもありました。イエス様を嫌い、その弟子たちを憎みました。そして、教会を、この世から排斥しようとしました。彼は、それをすることが、ユダヤ人である自分にとって、正しいこと。そのように、感じていたのだろうと思います。あるいは、そうすることが、ユダヤ教を守るための義務である。そのように、感じていたに違いありません。
 そして、その意味で、当初のパウロは、自分のプライドや誇り、立場や権威に、固執し続けた人物であった。そのように思うのです。
 しかし、その彼が、イエス様と出会います。そして、イエス様を通して、変えられていくのです。イエス様との出会いを通して、自分の過ちに気づかされたわけです。いや、それだけではありません。その過ちを犯した自分を、神様は、赦してくれた。イエス様は、愛してくれた。そして、この自分を、それでも必要としてくれた。そのことを、彼は、知ることが、出来たのであります。
 こんな自分のために、こんなに、無知で、無力で、罪の深くて弱い。この自分のために、神様は、イエス様は、赦しを与えてくださった。新しい命を与えてくださった。この深い幸いが、彼を、新たに生かすことになったのです。
 その意味で、キリスト教における、最大の功績者は、使徒パウロではありません。そのパウロを赦し、選び、用いてくださった。神様御自身。この神様こそが、イエス様こそが、真の栄光を受けるべき存在なのです。
 そして、何よりも、使徒パウロが受けた、この救いの歴史的出来事は、今、あなたが、清和幼稚園に招かれ、こうして、石山教会へと、再び導かれ、共に、主を礼拝する、この瞬間のためにあったのだ、ということ。あなたが、今、神様の救いを知るために、この出来事があったのだ、ということ。そのことを、新たに、感謝をもって、覚えるものでありたいと思うのです。
 さて、今朝の御言葉は、使徒言行録20章33節から38節の御言葉です。この御言葉から、まず、示されることは、何でしょうか。それは、使徒パウロは、「伝道」をしながら、「生活費」を稼いでいたのだ、ということです。要するに、副業をしていた、ということです。それでは、どうして、「副業」をする必要があったのでしょうか。
 聖書によると、「弱い者を助けるため」です。それでは、ここで、言われている「弱い者」とは、どういう人のことを指しているのでしょうか。
 そのことについては、使徒パウロが送った、コリントの信徒への手紙一9章3節から12節に詳しく、書かれています。少し長い箇所ですが、読んでみたいと思います。
 ここで、言われていることは、何でしょうか。それは、「御言葉を語る人」が、報酬を受けること。それは、当然の「権利」なのだ、ということです。それは、神様によって、与えられている「権利」なのだ、ということです。これについては、旧約時代から示された権利であります。
 しかし、使徒パウロは、その当然の権利を放棄したのです。なぜでしょうか。それは、パウロが、報酬を得る。そのことで、躓く人がいたからです。そのことが、御言葉の妨げになってしまったからなのです。「使徒パウロが、教会の財産を食い尽くしている。もう、この人の話は聞けない!」と考える人がいたのかもしれません。
 なぜ、パウロが、報酬を得ること。これが、躓きになるのでしょうか。なぜ、それが、御言葉の妨げになるのでしょうか。それは、彼らが、「当然の権利」を、知らないからです。当たり前のことを、知らないからです。それほどまでに、無知なのです。使徒たちが、この世にあって、御言葉に専念するものとして、当然の権利を、神様によって与えられていること。そのことを知らないからなのです。
 言い換えるならば、彼らの信仰が、そこまで成長していないからなのです。それ故に、使徒パウロは、信仰者として発達途上の者たちが、つまずかないようにする。そのために、当然の権利を放棄し、副業をしているのだ、ということなのです。
 ここで重要なことは、仕事をするか、しないか、ではないのです。それが、問題ではないのです。信仰の弱い兄弟姉妹を躓かせない。そのためであるならば、自分の立場、地位、権利、自由すらも放棄する。そういう姿勢が大切なのです。それこそが、パウロの示す、キリスト者としての姿勢なのであります。
 ここでパウロは、イエス様の言葉を引用します。それが「受けるよりは与える方が幸いである」という言葉です。私達は、この言葉を、そのままの言葉で理解します。
 その意味で言うならば、確かに、「与えることが幸い」なのです。なぜなら、与えることで、感謝されます。誉を受けます。満足感や充足感も得られます。だからです。
 しかし、考えてみてください。それは、もはや、与えているのではなくて、違う何かを、自分を満たす何かを、むしろ「受けて」いることにならないでしょうか。そうであるならば、それはもはや「与える」とは、言い切れないものでありましょう。
 では、ここで言われている「与える」とは何か。それは、隣人のために、自分の権利すらも放棄することなのです。相手に御言葉を届けるために、自分の立場や地位、権利、誉や感謝すらも放棄することなのです。それが、「与える」ということなのです。そして、実は、その生き方こそが、私達に幸いを見させてくれるのだ、ということ。そのことが、ここから語られているのです。
 なぜ、パウロは、このようなことを、堂々と言えたのでしょうか。このことについても、使徒パウロが記した、フィリピの信徒への手紙3章8節から知ることができます。
 主イエス・キリストと出会い、主イエス・キリストを知り、キリストと共に生きられること。これこそが、パウロにとって、何にも代えられない幸せなのです。全てを放棄しても、キリストの恵みがあれば十分。そのように思うのであります。
 考えてみるならば、何よりもまず、この主イエス・キリストこそが、この私のために、受けるのではなく、与え尽くした御方であります。
 神様の独り子として、当然、受けるべき、自由と権利を放棄し、神の子として、当然受けるべき誉や栄光を捨てて、一人の貧しい人となり、この私の罪を背負って、十字架の死を受けいれてくださった。
正に、この弱い私のために、この私が滅びてしまうのではなく、生きるために、御自分の命すらも、放棄されたのです。使徒パウロの生き方は、このキリストの救いを起点とし、土台としている。この深い恵みを知り、そこに幸いを見いだしていく。そこから、与えることの喜びを、彼は知るものとされているのです。
私達にとって、大事なことは、何でしょうか。それは、何よりも、イエス様が、この私のために何をしてくださったか。その深い恵みに立ち、そこに留まることです。その深い恵みを知り、そこに真の幸いを見いだす。その時、私達も又、自らの全てを捧げることの本当の喜びを味わい知ることができる。その恵みが、ここに、指し示されているのです。
 新成人となる皆様は、これから、社会で、大いに活躍されると信じています。恐らく、沢山の影響を、この世界にもたらしてくださることでしょう。
 しかし、忘れないでください。あなたのために、あなたを罪や死から救うために、イエス様が、命を捨てられたこと。それぐらい、愛し抜いてくださったこと。全てを放棄してでも、あなたを愛そうとしてくださる御方がいるのだ、ということ。そして、その愛は、あなたが幼稚園に通うようになってから、今に至るまで、そして、これからも、変わることはない、ということです。
 間違いや失敗を犯すこともあるかもしれません。しかし、この愛は変りません。この恵みは変らないのです。ぜひ、あなたが、何かをする、ということよりもまず、イエス様が、あなたのために何をしてくださったのか。そこに視点を当てて頂ければと思います。そして、その視点をもって、沢山の人と関わる時、あるいは、色々な働きをするとき、全てを失ってもなお、あなたは、本当の幸せを見ることができるのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 00:00| 日記