2023年01月21日

2023年1月22日主日礼拝説教「主イエスの名のため」須賀工牧師

聖書:使徒言行録21章1節〜14節、イザヤ書40章6節〜11節
説教:「主イエスの名のために」須賀工牧師

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録21章1節から14節の御言葉です。いよいよ、使徒パウロによる、第三伝道旅行が終わります。そして、使徒パウロは、エルサレムに向かいます。
 当時、エルサレムでは、ユダヤ人による、ユダヤ国粋主義−あるいはユダヤ選民主義−が、力をつけ始めていたようです。それ故に、ローマ帝国への反乱も、エルサレムでは、頻繁に、起きていました。勿論、当時のエルサレム教会も、ユダヤ人たちから激しい迫害を受けていたようです。
 つまり、このような状況下で、使徒パウロが、本拠地エルサレムに行くこと。それは、命に関わる、大変、危険な行為なのです。ましてや、ユダヤ教を捨てて、「異邦人伝道」の中心を担ったパウロが、エルサレムに行くこと。このことは、私達が、想像できる以上に、危険な行為であった。そのように、言えるのです。
 聖書によると、使徒パウロは、エルサレムに行くまでに、ティルス、プトレマイス、カイサリアに、立ち寄ったようです。そして、彼は、それぞれの地域のクリスチャンたちによって、エルサレム行きを中止するように、強く引き留められていたようです。そのように、聖書では、言われています。
 特に、カイサリアにおいては、預言者の口を通して、「パウロの苦難」が予告されています。それは、つまり、神様御自身が、パウロの受ける苦難を予告していた、ということなのです。言い方を変えるならば、エルサレムに行き、苦難を受けること。そのことが、神様の御心なのだ、ということになるのです。
 それを聞いた人々は、全力で、使徒パウロを止めに入ります。ある意味では、神様の御心と人の心が、交差していく。そのような、場面が、ここで、分かりやすく、描かれていることになるのです。
 しかし、使徒パウロは、彼らの思いを振り切ってしまいます。そして、エルサレムに向かう覚悟を固めることになるわけです。使徒パウロは、次のように語ります。「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです」。
 ここでは「覚悟」という言葉が、使われています。もし、クリスチャンになることで、このような「覚悟」を求められるとするならば、私達にとって、信仰を持つことが、非常に、難しいことのように感じられるかもしれません。
 しかし、このパウロの「覚悟」は、使徒パウロの「強さ」から来るものなのでしょうか。それは違います。このパウロの「覚悟」は、キリストと一つであることの「喜び」、そして、「キリストの救いの確かさを知る」ところから来る。そういう「覚悟」なのです。
 主イエス・キリストが、この私のために、命を捨ててくださった。それによって、神様は、この私の罪を赦して下さった。キリストは、この私のために、命を捨てた。そのことで、罪を赦し、永遠の命を、与えてくださった。キリストは、この私を永遠に神の子どもとしてくださった。この恵みの確かさ、そして、計り知れない喜びが、使徒パウロの「覚悟」を生み出しているのであります。この私の為に命を捨ててくださった御方に対して、命をもって、仕えていく。そういう恵みを知ることの中から、生まれてくる「覚悟」なのであります。ですから、この覚悟は、喜びを起点としているのです。
 ここで、とても、大切なことは、何でしょうか。それは、神様の御心と、人の心が、交差している、ということです。そして、その交差していった心を、祈りによって、一つの線にしていったことなのです。自分たちの思いだけで終わるのではなく、そこで、神に立ち帰る。そのことを、彼らは、とても、大切にしたのです。
 私達は、決して、神様のロボットではありません。神様は、私達を、ロボットして、創造されたわけではないのです。様々な困難を前にし、人の心は、揺らぎます。ですから、使徒パウロを止めることもまた、キリスト者の良心によるものです。キリスト者としての思いやりです。私達は、その時に適って、キリストの恵みの中で、何を、どうするかを、自由に、選択をすることが出来るのです。
しかし、忘れてはいけません。私達の意志は、常に、私達の弱さと共にある、ということです。だからこそ、大切なことは、何でしょうか。神様に立ち帰る、ということです。神様の御心を優先する、ということなのです。
 私達もまた、信仰のゆえに、様々な困難を経験します。場合によって、乗り越えられないような困難を、目の前にすることもあるかもしれません。そして、そこで、様々な思いや意見が生まれてきます。これが、神の御心なのか、と問わざるを得ない場面もあるかもしれません。
 しかし、それでも、そこで大切にしたいことは、神様に立ち帰ることなのであります。交差する、神様の御心と、自分の思いが、一つの線になること。そのことを、祈り願うこと。それが、大切なのであります。
自分たちのために、御子をすら、惜しみなく、死に渡される御方が、私達の思いを越えて、遥かに良いものをくださるに違いない。そういう思いに立ち帰りながら、主に委ねて祈る。自分の思いに留まるのではなく、全てを良いものへと導く、主に委ねて、歩み続ける。そこに信仰者の姿がある。そのことを、ここから、強く、教えられるのであります。
 さて、そもそも、なぜ、使徒パウロは、危険を冒してまでも、エルサレムに行く。そういう必要があったのでしょうか。使徒言行録の中においては、その目的や理由については、語られていません。
しかし、例えば、ローマの信徒への手紙やコリントの信徒への手紙を読むと、そのことが、詳細に記されています。ここでは、そのことについて、詳しく触れませんが、一言で、言えば、「異邦人教会で集めた献金」を届けること。これが、エルサレムへ行く、理由なのです。
 何のための献金なのでしょうか。一つは「貧しい人々を援助する」ための献金です。迫害が激しくなるエルサレムにおいて、貧しさ、苦しさの中にある、キリスト者を助けること。これが、目的なのです。
しかし、この献金が、異邦人教会によって、集められたものであった、ということ。このことにも大きな意味があります。使徒パウロは、ここで、ユダヤ人教会と異邦人教会の一致を願ったのではないでしょうか。
キリスト教は、突然、生まれた、新興宗教ではないのです。私達に与えられた救いは、突然、与えられた救いではないのです。
 ユダヤ人に約束された救い主は、私達にとっての救い主でもあるのです。真の神様は、ユダヤ人だけを救う神ではなく、全ての人を救う神なのです。その意味で、私達の救いは、創造の前から、永遠の昔から、約束された救いなのです。ユダヤ人は、その救いの歴史の出発点として、神様によって、先立って、選ばれたに過ぎないのです。
 そして、ユダヤ人のために命を捨てられ、永遠の命を約束された御方は、今、信仰によって、私達をも、同じ救いへと導いてくださったのです。律法や伝統を越えて、ただ信仰によって、全ての人が、神様の民とされるのです。
 もし、この両者関係が、一つとならなければ、福音が二つになります。恵みも二つになります。聖書も二つに分かれます。真理もバラバラです。
 真の神は、一人の神です。真の救い主も一人の救い主です。二人も、三人もいません。それ故に、恵みも一つ、福音も一つ、救いも一つであります。その一つの恵みを、律法や伝統や民族や国を越えて、信仰を通して、共に味わえる。そこに教会があるのです。
 使徒パウロが、ここで、命を懸けてでも、エルサレムに行く、ということは、今の私達の救いが、聖書に基づく、確かな救いであること。そのことに深く関わっているのです。
私達の救いは、突然、人が生み出したものではないのです。ユダヤ教から離脱した人々が、勝手に、始めたことではないのです。旧約聖書で証された、全能なる、唯一神が、ユダヤ人を、救済の初穂としてくださり、そのユダヤ人の中に、救い主を与えて下さった。そして、そのただ一人の救い主が、全ての人のために、命を捨て、復活してくださった。今や、ユダヤ人という枠は、取り去られ、全ての人が、信仰によって、神の民として、永遠に生きることができるのです。
神様は、イスラエルの父祖であるアブラハムに、次のように、約束して下さったのです。「あなたから、全ての国民に祝福が与えられる」と。神様は、この約束を、キリストにおいて成就し、教会を通して、それを、実現してくださったのであります。
使徒パウロが、異邦人教会から、献金を集め、命を懸けてでも、それを、ユダヤ人教会に届けたのは、ユダヤ人の教会と、異邦人の教会が、一つの体になることを求めていたからです。そして、そのことを通して、神様が、唯一の神であり、救い主が、ただ一人の救い主であり、恵みも救いも愛も一つなのだ、ということ。そこにしか、全人類の真の希望はないのだ、ということ。そのことを、証しするためでもあったのです。
 私達に与えられた救いは、主イエス・キリストによる救いです。この救いは、初めに、ユダヤ人に約束されました。しかし、今、信仰によって、あなたも、この救いの中に導かれています。あなたもまた、永遠なる神の、救いの流れの中に、永遠に入れられているのです。
 律法を守ることが救いではありません。ユダヤ人の伝統に生きることが、救いではありません。修行や勉強によって、得られる救いではありません。ただ、キリストだけが、私達の救いであります。その救いは、突然、生まれた新興宗教による救いではありません。聖書が約束し、証ししている、確かな救いです。あなたは、その救いの確かさの中に生きられるのです。
 私達もまた、様々な苦難や艱難の中に、立たされることがあります。他の救いに心が奪われてしまうこともあるかもしれません。しかし、救いは、ただ一つです。ただ一つである、ということは、「変らない」ということです。
 どのような時代にあっても、どのような状況下にあっても、神様の愛は変らない。救いも変らない。それが奪われることもなければ、朽ちることもない。死すらも、それを、奪うことはできない。私達は、この深い確かに立つとき、目の前の困難もまた、神様の備えたもう、良い道に変えられることを期待して、祈りを持って、前進することができるのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 00:00| 日記