2023年02月19日

2023年2月19日主日礼拝説教音声「悪魔の子を愛するイエス」須賀舞副牧師

聖書:ヨハネによる福音書8章39節〜47節、イザヤ書63章19節
説教:「悪魔の子を愛するイエス」須賀舞副牧師

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皆様の上に、神様の祝福が豊かにありますように、心よりお祈り申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 20:01| 日記

2023年2月26日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:ダニエル書6章19節〜28節
説教:「ダニエルと獅子の洞窟」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:使徒言行録22章22節〜23章11節、出エジプト記22章27節〜29節
説教:「そばに立つ主」須賀工牧師

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 00:24| 日記

2023年2月19日主日礼拝説教「悪魔の子を愛するイエス」須賀舞副牧師

聖書:ヨハネによる福音書8章39節〜47節、イザヤ書63章16節
説教:「悪魔の子を愛するイエス」須賀舞副牧師

 先日、私が聖書の授業を教えているクラスで、高校生たちにこんな質問をしました。「あなたは、無償の愛というものがあると思いますか。」無償の愛とは、どんな相手でも愛するということです。見返りを求めずに愛を与え続けるということです。そう説明して、もう少し無償の愛について理解を深めるために、極端な例だよ、と言ってこんな話をしました。例えば、あなたが大好きな恋人と結婚することになっていよいよ結婚式という時に、その恋人が交通事故で重い後遺症を負ってしまった。あなたはこれから恋人と結婚するなら一生介護をしていかなければいけない。それでも結婚を選びますか。
 最初は、愛はある!平和な世の中になるためには愛が必要だ!と言っていた人たちも、たとえ話を聞くうちに、「それはちょっと無理かもな‥」と顔を見合わせ始めます。結局、グループディスカッションをしたところ、1グループを除く全てのグループが「無償の愛はない」と答える結果になりました。もうこの世の中は結局のところ愛のない世の中なんだーなどと言って、その結論の先に中々進めず、私の出したたとえがちょっと極端すぎたかな?と心配になる程、グループ内での話し合いの声が止み、一瞬クラスが暗い空気に包まれてしまいました。
 けれども、そんな中、1グループだけ、最後まで、「無償の愛はある」と答えたのです。じゃあそれって例えばどんな愛?と聞いてみると、親子の愛は無償の愛だというのです。こんな時、私はもっと深く生徒に考えてもらうため、ちょっとだけ意地悪な質問をしました。じゃあ虐待を受けた人たちや親がいない人は愛を受けられないってこと?と聞くと、生徒たちは、私たちが言いたかったのは、「親子のような愛」ってことだから、どんなに悪い人でも、無条件の愛を注ぐ親のような存在は必ずいるはずだというのです。
 もし、私自身が「あなたは無償の愛を与える人になれますか?」と問われたならば、そうはなりたいといつも願っていても、中々素直に「はい、なれます」とは言えないな、と考えてしまいます。なので、そういう意見を出してくれた生徒たちの気持ちは、よくわかるのです。けれども、そんなどん底のような雰囲気の中で、無条件に愛を注ぐ親のような存在が、誰にでも必ずいるんだ、と言う生徒たちに、私だけでなく、クラス全体が少し希望の光に照らされたような気持ちになりました。
 さて、ここに集う皆さんに、一つお伺いしたいと思います。「皆さんには、皆さんのことをいつもどんな時でも、どんなあなたであっても大好きだよ、愛しているよと言ってくれる親のような存在はいますか?」実は、この質問こそ、今日の御言葉の中で、イエスさまがユダヤ人たちに問われていることなのです。
 本日私たちに与えられた御言葉は、ヨハネによる福音書8:39-59です。前の箇所から続くイエスさまとユダヤ人たちとの会話です。前回の物語は、イエスさまを信じたユダヤ人たちの信仰を、イエスさまがそれは本当の信仰ではないと言い、ユダヤ人たちはイエスさまを信じていると言いながら、実は、殺そうとしているのだ、と批判しました。
 前回の文脈の最後の箇所、8:38でイエスさまは「わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」と言われました。この「父」という言葉こそが、本日の箇所を読み解く上で、大変重要な言葉となります。38節は、少し分かりにくい文章ですけれども、口語訳ではより意味が通りやすくなっています。「わたしはわたしの父のもとで見たことを語っているが、あなたがたは自分の父から聞いたことを行っている。」と、訳されておりました。つまり、主イエスはご自分の父のもとで見たことを語っておられるのに対して、ユダヤ人たちは彼らの父から聞いたことを行っている、ということです。イエスさまの「父」とユダヤ人たちの「父」が全く持って別なのだと、ここではっきりと指摘されているのです。 
 では、イエスさまの父とは誰のことで、ユダヤ人たちの父とは誰のことなのでしょうか。本日の箇所冒頭の8:39でユダヤ人たちは、『わたしたちの父はアブラハムです』と答えました。自分達は信仰の父とも呼ばれるアブラハムの子孫であり、神に選ばれた民であると主張したのです。それに対してイエスさまは「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。あなたたちは、自分の父と同じ業をしている」とおっしゃいました。
 まず、イエスさまがここではっきりさせているのは、ご自分の「父」はアブラハムが信じた神様であるということです。そして、その神様の子としてこの世に来られ、その神様から聞いた真理の言葉を今語っておられるのです。もう一つはっきりさせておられることは、ユダヤ人たちは、アブラハムの神様を信じると言いながら、その神様から遣わされた御子イエスさまは信じていないということです。それどころか殺そうとしているのです。
 けれども、イエスさまを拒否するということは、父なる神様をも拒否するということです。では、ユダヤ人たちは神様を父とせずに、一体誰を父としているのでしょうか。ユダヤ人たちは、最初、「わたしたちの父はアブラハムです。」と言いました。けれども、イエスさまに、あなたたちはそのアブラハムとは全く違うことをしている。この私を殺そうとしていると言われます。つまり、あなたたちはアブラハムの子ではないと指摘されているのです。
 それに対して、ユダヤ人たちは負けじと反論します。8:41の後半です。「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはひとりの父がいます。それは神です。」これはある意味、イエスさまに対する皮肉が込められた言葉でした。イエスさまが聖霊によってマリアの子として生まれたことは皆さんも当たり前のこととしてご存じであると思います。ユダヤ人たちは、そのことをここで皮肉としているのです。父のヨセフとイエスさまは血のつながりにおいては本当の親子関係ではありませんでした。それをユダヤ人たちは、ここで言っているのです。つまり、イエスさまはマリアが誰かとの姦淫によって生まれた人である、そのような悪意ある中傷の言葉によって、「わたしたちはあなたのように姦淫で生まれた父親のはっきりしない者ではないんだ。」と罵っているのです。
 誰を父とするかという問題は、その人が、誰の子として生きているのかという問題でもあります。ですから、イエスさまとユダヤ人たちとの対立は要するに、主イエスが神の子なのか、それともユダヤ人たちが神の子なのか、このような対立なのです。
  本日の箇所において、ご自身こそ、ユダヤ人たちが信じている主なる神が遣わした神の子であると、イエスさまは何度も語られます。けれどもこの言葉を、ユダヤ人たちは空しいものとして聞いていました。ユダヤ人たちは、どうしてもイエスさまを主なる神の子であると信じる事ができませんでした。その理由を、イエスさまは8:44以下で次のように説明しています。「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。」
 実は、過去にこの言葉は、「ユダヤ人の父は悪魔であり、ユダヤ人は悪魔の子である」というふうに解釈され、キリスト教会によるユダヤ人迫害や、第二次世界大戦下、ナチス・ドイツによるホロコーストの根拠として利用されてしまいました。しかしイエスさまはそのようなことを語ったのではありません。なぜなら、悪魔の支配というのは、ユダヤ人だけではなく人間の普遍的な問題だからです。つまり、私たちの問題でもあるということです。私たちも、ともすると悪魔の支配を受け、自分を殺し、周りの人を殺し、そして、イエスさまを殺す、そのような一人になってしまうのです。イエスさまの言葉にはそんな普遍的な人間の罪の問題が語られているのです。
 この時、神に選ばれた民であり、神の子であるはずのユダヤ人たちは、悪魔に支配され、悪魔の子となっていました。そのために主イエスの言葉を聞くことができなくなっていました。悪魔の子は、父である悪魔の欲望を満たしたいと思うようになるのだと、イエスさまは言われます。悪魔の欲望とは何でしょうか。人を殺すこと、それが悪魔の欲望です。これは、何も、殺人ということだけではありません。人を霊において生かさず、生き生きと生きることを妨げ、押し潰そうするということです。わたしたちも周囲に対してそのような態度をとってしまってはいないでしょうか。誰かの悪魔になってしまってはいないでしょうか。
 イエスさまは、悪魔は偽りを言う、偽りの父であると語られます。偽りとは、悪魔の言うことはいつも嘘ばかりだとか、嘘つきは悪魔の子だ、ということではありません。この偽りとは、イエスさまが直前の箇所で語られた「真理」に反するものです。「真理はあなたたちを自由にする(8:32)」とイエスさまは言われました。悪魔の偽りはその真理にどこまでも相反するものなのです。真理は人を自由にしますが、偽りは人を生かすことも、自由にすることもなく、人を殺す者とし、罪の奴隷とするのです。
 今日の箇所では、神という父の下で神の子として生きることと、悪魔という父の下で悪魔の子として生きることとが対照的に語られています。それは言い換えるならば、私たちの生き方に対する問いかけでもあります。わたしたちは、真理に生きるのか、真理を否定して偽りに生きるのか、主によって問われているのです。
 その分れ道はどこにあるのでしょうか。それは、主イエス・キリストを信じるか否かです。イエスさまの言葉に留まるか否かです。イエスさまを独り子なる神と信じて、イエスさまの御言葉に留まり続ける。このことを通して、私たちは、独り子を与えて下さるほどに世を愛して下さった、神の愛による救いの真理を知ることができるのです。そして真理は私たちを自由にします。私たちも主イエスと共に神の子とされ、父である神の愛を受けて生きる者とされるのです。
 最後に、もう一度冒頭で話した、高校生たちの話にまた戻りますが、「無償の愛」を与える親のような存在について是非ご一緒に考えてみたいと思います。「皆さんには、皆さんのことをいつもどんな時でも、どんなあなたであっても大好きだよ、愛しているよと言ってくれる親のような存在がいますか?もしいるならばそれはだれですか?」この問いかけをもう一度自分自身で問うてみてください。私は、皆さんのその答えが、聖書の証しする「主イエス・キリストの父なる神様」であって欲しいと願っています。
 天の父なる神様は、私たち一人一人を創造し生まれる前から、愛し、御子イエス・キリストの命を惜しまず献げ尽くしてまで、その愛を貫いてくださいました。その愛には、条件も見返りもありません。神様は、ただ一方的に、私たちを、本当に愛してくださっているのです。
 本日の箇所において、イエスさまは、目の前のユダヤ人を心から救いたいと願っておられました。ユダヤ人は聖書(旧約聖書)が示す通り、確かに、神に選ばれた民でありました。その根拠となっているのが、本日読まれた旧約聖書イザヤ書63:19です。そこには「あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らず、イスラエルがわたしたちを認めなくても、主よ、あなたはわたしたちの父です」とあります。だからこそ、本来ならば、ユダヤ人たちは聖書(旧約聖書)に預言されてきたメシア、救い主がどのようなお方で、またどのようにしてやって来られるのかを、誰よりも知っていたはずでした。
 イエスさまご自身もユダヤ人でありました。だからこそ、彼らが父なる神の救いの真理を悟らない様を悲しみ、その救いの真理をわかってほしい、信じてほしいと願っておられたのです。目の前のユダヤ人たちがイエスさまご自身を受け入れて、父なる神のもとに立ち帰ることを願っていたに違いないのです。たとえ、彼らがイエスさまを受け入れずについには殺してしまう、そのような悪魔の子であるとわかっていても、イエスさまは、どこまでも彼らを愛し、自ら十字架にかかって命を献げ、その愛を貫かれました。このイエスさまの究極であり、唯一の無償の愛を、私たちも信じてこの一週間も歩んで参りたい、そのように願います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 00:14| 日記