2023年02月04日

2023年2月12日礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:エレミヤ書31章31節〜34節
説教:「エレミヤの新しい契約の預言」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:使徒言行録21章37節〜22章21節、イザヤ書19章16節〜25節
説教:「主の恵みと憐れみ」須賀工牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を捧げています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 01:41| 日記

2023年2月5日主日礼拝説教「使徒パウロの逮捕」須賀工牧師

聖書:使徒言行録21章15節〜36節、民数記6章13節〜26節
説教:「使徒パウロの逮捕」須賀工牧師

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録21章15節から36節の御言葉です。今朝は、一つのことに、焦点を絞って、御言葉に聴いて参りたいと思います。それは、「本当の自由」とは何か、ということです。
 私達は、自由に、生きているでしょうか。全てのことから、解放されて、生きているでしょうか。社会や学校や家庭、あるいは、教会にすら、縛られていないでしょうか。他人の評価や環境に縛られていないでしょうか。自分のルールや自分の慣習や習慣、自分の価値観やイデオロギーによって、縛られていないでしょうか。何かの伝統や風習に縛られていないでしょうか。もしかすると、私達を、縛るものは、まだまだ、沢山、あるのかもしれません。
 この場合の「自由」とは、「何をしても良い」ということではありません。神様の御心から離れた自由は、本当の自由ではありません。神様の御言葉−聖書−から離れた自由は、本当の自由ではありません。神様の恵みから離れた自由は、本当の自由ではありません。それは、本当の自由ではなく、罪の奴隷であります。その意味で、真の自由は、神様の恵みの中でこそ、実感できるもの、あるいは、与えられるものであると、言えるかもしれません。
 使徒パウロは、「本当の自由」を知っている人でした。なぜ、使徒パウロは、自由に生きることが出来たのでしょうか。それは、主イエス・キリストだけが、ただ一つの救いであることを知っていたからであります。
 それは、逆に言えば、自分を縛る全てが、自分の救いにはならないこと。そのことを、使徒パウロ自身が、知っていたからであります。自分の価値観やイデオロギーやルールも、あるいは、積み重ねてきた習慣や慣習や常識も、その全てが、自分の救いにはならない。そのことを、彼自身が、知っていたからであります。ただ、主イエス・キリストだけが、この私の救いにしかならない。それ以外のものは、この私にとって、何も救いにはならない。使徒パウロは、そのことを、よく知っていたのであります。
 さて、使徒パウロは、エルサレムに、行きました。何のためでしょうか。異邦人教会で集めた献金を、エルサレム教会に、届けるためです。それだけではありません。このことを通して、異邦人を中心とする教会とユダヤ人を中心とするエルサレム教会が、一致するためでありました。
 しかし、その結果は、パウロの望んでいたものとは、違いました。エルサレム教会、とりわけ、ヤコブは、使徒パウロに、条件をつけたのです。一つは、「異邦人にも最低限の律法を守ってもらうこと」。もう一つは、「使徒パウロ自身も、律法を尊重し、請願の儀式を行うこと」であります。これは、言うならば、脅しです。律法を尊重しなさい。ユダヤ人を尊重しなさい。そうでなければ、一致は認めない、ということであります。
 使徒パウロは、どうしたでしょうか。この条件を飲んだのです。どうして、この条件を受け止めたのでしょうか。諦めたのでしょうか。そうではありません。彼が「自由」だったからです。そして、そのことを通して、キリストにある真の自由を、彼らに証するためであります。キリスト者であることは、ここまで、自由に生きられるのだ、ということ。そのことを、エルサレム教会に、伝えるためなのであります。キリストの福音は、ここまで、私達を自由にするのだ、ということ。その恵みに、共に、あずかりたいからなのです。
 本当の自由は、「律法」に従うことも、「律法」に従わないことも、許されていることです。偶像に供えられた肉を食べないことも、食べることも、許されていることです。自分のルールに従うことも、従わないことも、許されていることです。
 しかし、ここで、とても、大事なことは、神様のために、何を選ぶかなのです。福音の伝道のために、何を選ぶか、なのであります。神様の恵みに留まる中で、何を手にするか、なのであります。神と隣人とを愛するために、何を選択し、何を意志とするのか、なのであります。ここが、ブレてしまうと、神様との関係も、人間関係もまた、その自由によって、分団してしまうこともあるのです。生きるにしても、死ぬにしても、食べるにしても、寝るにしても、主のために、主の栄光のために、主の御業のために、というところが、大切なのです。
 使徒パウロ自身が、次のように、記しています。コリントの信徒への手紙一9章19節から23節の御言葉です。「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身そうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」。
 ここにこそ、キリストによって、与えられる本当の自由があります。本当の自由とは、福音のために、神様の救いの御業のために、自分のこだわり、いや、自分自身を喜んで捨て、奴隷にすらなれることなのであります。そして、そのことを通して、人間のこだわりが、人間を救うのではなく、ただ、キリストだけが、どんな自分であっても、たとえ、こだわりを捨てた存在であったとしても、この自分を救うことができる。そのことを、自分自身が確かにすることができる。キリストの救いの力、福音の力の確かさに、自らも、与ることができるのであります。
 真の自由を知る人は、キリストの救いを知る人です。キリストは、私達のために何をして下さったのでしょうか。主イエス・キリストは、神様の独り子であり、真の神でありながら、私達と同じ人になられ、私達のために、十字架に向かって行かれました。真の神である御方が、真の神としての権威を放棄し、私達のために奴隷となって、死んでいかれたのです。私達のへの愛のゆえに、私達を救うためにです。このキリストご自身の自由によって、私達は罪を赦され、救いに与ることができたのです。私達のために、神としての栄光と権威と自由を捨てて人となり、本来、受ける必要のない十字架の死をも、引き受けて下さった。その主イエス・キリストの自由に生かされていくとき、私達もまた、その主のために、隣人のために、本当の自由を生きることができる。この福音に、共にあずかれるならば、使徒パウロは、喜んで、律法の奴隷になれるのです。
 この後、使徒パウロは、ユダヤ人たちによる迫害を受けます。そして、ローマ帝国によって逮捕されてしまいます。実際には、逮捕というよりは、保護されたという言い方のほうが正しいかもしれません。
しかし、結果的に、何が起こるのでしょうか。使徒パウロは、大勢の人々に対して、福音を語るチャンスをもらえることになるのです。それについては、次週以降に、お話をします。
但し、それだけではありません。念願でもあった、ローマにも渡ることができるのです。そこで、伝道生活を、生涯続けることができたのです。使徒パウロは、福音のためであるならば、自分の命にも縛られず、逮捕されることもいとわないのです。福音に、共に、与ることができるならば、自分は、どんな生き方もできる。そのように生きるのです。
 自由を知る人は、キリストの救いを知る人です。そして、キリストの救いを知る人は、キリストの救いの喜びに満ち溢れた人であります。
 今、使徒パウロを支配しているのは、律法や伝統ではないのです。習慣や慣習ではないのです。自分のこだわりやルールではないのです。それらが、使徒パウロを救うことはない。
しかし、どんな生き方であっても、どんな存在であっても、ただ、キリストだけが、この自分を救うことができる。ただ、キリストの自由だけが、この自分を救ってくれた。だから、この地上において、どれだけ、縛られているように見えていても、使徒パウロは、常に、真の自由を感じながら生きることができたのです。それは、命の危機すらも、伝道のチャンスと捉えられる。それほどの自由さなのであります。
私達は、何かに縛られていないでしょうか。私達は、何かにこだわっていないでしょうか。そのこだわりは、あなたを救う力となっているでしょうか。死を打ち破るものになっているでしょうか。むしろ、あなたを苦しめ、重荷となり、他者との分断をすら生むものになっていないでしょうか。
 あなたが、何かを持っていても、持っていなくても、ただキリストだけが、私達の救いです。ただ一つの福音だけが、あなたを、本当に救う力になります。このキリストの恵みのもとに、共に、留まり、その恵みに与り、真の自由を知って、神の国を仰ぎ見るものでありたいのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 00:32| 日記