2023年02月10日

2023年2月19日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:エゼキエル書37章21節〜28節
説教:「エゼキエルの預言」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:ヨハネによる福音書8章39節〜47節、イザヤ書63章16節
説教:「悪魔の子を愛するイエス」須賀舞副牧師

感染予防対策(マスク、消毒、換気)をした上で、礼拝をささげています。皆様のお越しを、心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:02| 日記

2023年2月12日主日礼拝説教「主の恵みと憐れみ」須賀工牧師

聖書:使徒言行録21章37節〜22章21節、イザヤ書19章16節〜25節
説教:「主の恵みと憐れみ」須賀工牧師

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録21章37節から22章21節の御言葉です。今朝の御言葉は、大まかな内容として「使徒パウロの弁明・演説」であります。
 しかし、この演説は、ユダヤ人たちによる殺意、敵意、憎しみを前にした演説でありました。要するに、命に関わる、大変、緊迫した局面において、ユダヤ人に向けて、語られた演説であります。
 そもそも、なぜ、ユダヤ人による迫害は、起きたのでしょうか。一言で言えば、その原因は、ユダヤ人の誤解によるものでありました。彼らは、使徒パウロが、エルサレム神殿の「ユダヤ人の庭」−ユダヤ人しか入れない場所−に、異邦人を連れ込み、神殿を冒瀆したのだと、誤解したのです。
 しかし、このような誤解が、生じた背景には、理由がありました。それは、彼らが、以前から抱いていた、パウロに対する敵意や憎しみであります。ユダヤ人にとって、使徒パウロは、正に、裏切り者です。彼らにとって、パウロは、神の民イスラエルのプライドを捨てた人です。ユダヤ人の伝統や慣習を捨てた人であります。伝統的なユダヤ教の立場に立つ人々にとって、パウロは、到底、許されるはずのない、裏切り者でありました。
 つまり、問題は、パウロが、異邦人を、神殿に連れ込んだことが、事実か否か、という話ではないのです。恐らく、使徒パウロもまた、このユダヤ人の感情を、よく理解していただろうと思います。
 それ故に、彼は、ここで、自分のこと、自分が、どのようにしてクリスチャンになり、伝道者になったのか。それを、語り始めたのではないかと思います。自分を裏切り者だと思っている人々に対して、自分の回心について、分かりやすく、ヘブライ語まで使って、弁明したのであります。
 使徒パウロは、次のように語り始めました。使徒言行録22章1節から5節をお読みします。「『兄弟であり父である皆さん、これから申し上げる弁明を聞いてください。』パウロはがヘブライ語で話すのを聞いて、人々はますます静かになった。パウロは言った。『わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。このことについては、大祭司も長老会全体も、わたしのために証言してくれます。実は、この人たちからダマスコにいる同志にあてた手紙までもらい、その地にいる者たちを縛り上げ、エルサレムへ連行して処罰するために出かけて行ったのです』」。
 パウロは、まず、自分の生い立ちについて、語り始めました。パウロは、キリキア州のタルソスで生まれた、外国籍のユダヤ人です。
 しかし、パウロは、エルサレムで育ち、律法の専門家ガマリエルのもとで、律法について、厳しい教育を受けました。当然、律法を熱心に守り、神殿祭儀を重んじ、具体的にも、神様に対して、熱心に、お仕えをしていたのです。それだけではなく、その熱心さ故に、この道−キリストを信じる信仰・教会−も迫害しました。
 つまり、ここで、パウロが言いたいことは、何でしょうか。それは、私もあなたと同じだったのだ、ということです。群衆は、熱心であるからこそ、パウロを許せなかったのです。それと同じ情熱によって、パウロもまた、教会を憎んだのです。その意味で、自分も、ユダヤ人も、何も変わらないのだ、ということ。正に、裁きや批判からではなく、同調から、使徒パウロは、語り始めたのであります。
 しかし、このパウロに大転換が起きたのです。使徒言行録22章6節から11節をお読みします。「『旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、真昼ごろ、突然、天から強い光がわたしの周りを照らしました。わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いたのです。『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と答えがありました。一緒にいた人々は、その光は見たのですが、わたしに話しかけた方の声は聞きませんでした。『主よ、どうしたらよいでしょうか』と申しますと、主は、『立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる』と言われました。わたしは、その光の輝きのために目が見えなくなっていましたので、一緒にいた人たちに手を引かれて、ダマスコに入りました』」。
 使徒パウロは、ダマスコ途上で、復活の主と出会います。そもそも、このダマスコへの旅も、クリスチャンを迫害することが、主な目的でした。
 しかし、その道中、使徒パウロは、復活の主と出会うのです。そして、彼は、そこで、天地が、ひっくりかえるような、衝撃を受けることに、なったわけです。即ち、神への熱心さによってしていたこと。それが、実は、神ご自身への迫害行為であった。そのことを、知ったのであります。要するに、自分の情熱からくる、罪の現実を知ったのです。しかし、それだけではありません。神様は、その自分を赦し、それでも、用いてくださるのだ、ということ。その神様の救い、その憐れみと恵みをも、知る者とされたのであります。
 その後、使徒パウロは、ダマスコに入り、アナニアと出会います。12節から16節までを、お読みします。「『ダマスコにはアナニアという人がいました。律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした。この人がわたしのところに来て、そばに立ってこう言いました。『兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい。』するとそのとき、わたしはその人が見えるようになったのです。アナニアは言いました。『わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい』」。
 ここで言われている「わたしたちの先祖の神」とは、勿論、ユダヤ人たちが、先祖代々、大切に拝んできた神様です。熱心に仕えてきた神様です。その神様が、使徒パウロを選び、御心を悟らせてくださったのです。そして、この神様の選びによって、「あの正しい方」つまり、主イエス・キリストと出会わせてくださり、その御声を聞くものとしてくださったのです。それだけではなく、神様が、パウロを選び、キリストと会わせ、その声を聞かせたのは、パウロを、キリストの証人とするためであったのです。つまり、キリストによる救いを伝えさせるために、敵対したものを赦し、愛し、選び、召されたのであります。
 これは、何を言いたいのでしょうか。それは、使徒パウロは、決して、裏切り者ではない、ということです。使徒パウロの大転換は、ユダヤ人が信じ、仕えてきた、先祖代々の神様が、使徒パウロを、恵みを憐れみによって、選び出して下さった。そのことによって、ただ一方的に、与えられた、大転換だったのだ、ということなのです。
 使徒パウロは、決して、イスラエルの神を、捨てたわけではないのです。むしろ、イスラエルの神は、もう捨てられても当然の存在を、キリストを通して、拾い上げてくださったのだ、ということなのです。
使徒パウロは、迫害者でありました。その意味で、ユダヤ人と変わりません。しかし、キリストと出会い、罪を知り、救いを知り、新しい目的を知った。この自分が、こうして、本当の救いを知ったのであるならば、同じようなあなたが、救われないはずはない。そういう強い、メッセージもまた、ここで、響いてくるのであります。
 さて、使徒パウロは、この神様の御心に応えるべく、洗礼を受けました。ここで、少し、立ち止まりたいと思います。そもそも、「洗礼」とは、何でしょうか。それは、まず、「主の名を唱える人」になることです。言い方を変えるならば、「主イエスを救い主と唱える人」になることです。あるいは、「主イエスを私の主」と呼び、主の道を、歩み直すことです。
 先ほども、使徒パウロは、キリスト教信仰を「その道」と表現しました。正に、信仰とは、主の道を、主と共に行くことです。つまり、「わが道」を行くことではありません。わが道を行く自分の方向が転換し、主の道へ導かれていくこと。これが、洗礼を受ける、ということなのです。洗礼を受けることは、ある意味で、自分の人生の支配権を、キリストに渡し、主の示される道へと歩み始めることなのであります。大転換とは、ここまで大きな転換なのです。
 そのことを、踏まえた上で、17節から21節の御言葉をお読みします。「『さて、わたしはエルサレムに帰って来て、神殿で祈っていたとき、我を忘れた状態になり、主にお会いしたのです。主は言われました。『急げ。すぐエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け入れないからである。』わたしは申しました。『主よ、わたしが会堂から会堂へと回って、あなたを信じる者を投獄したり、鞭で打ち叩いたりしていたことを、この人々は知っています。また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです。』すると、主は言われました。『行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ』」。
 使徒パウロは、ダマスコで、洗礼を受けました。その後、聖書によると、エルサレムに戻ったようです。この御言葉は、その時、使徒パウロが、再度、復活の主と出会った場面を描いています。
 主イエス・キリストは、ここで、使徒パウロに対して、エルサレムを去るように命じます。その理由は、ユダヤ人が、パウロの証を聞かないからです。それに対して、パウロは、自分が、教会の迫害者であったことを語り始めます。すると、まるで、そのパウロの言葉を遮るような仕方で、主イエス・キリストは、パウロに対して、再度、異邦人のもとへと派遣命令を出します。
 はっきり申し上げて、この一連のやり取りは、かみ合っていません。だから、何が言いたいのかよく分からない。これが、正直な気持ちなのです。但し、この箇所を、様々な視点から、調べていくと、一筋の光が見えてきます。
 恐らく、ここで、使徒パウロは、主イエス・キリストに対して、反論したのではないでしょうか。パウロは、自身が、教会の迫害者であったことを語りました。つまり、今、ここで、自分が、迫害者から、大転換したこと。そのことを、同じユダヤ人に語り聞かせること。この方が、伝道の効果が上がるのではないか、と考えたのでしょう。
 しかし、主イエス・キリストは、その彼の思いを打ち砕き、拒否しました。洗礼を受けて間もないパウロもまた、まだまだ、自力、我力から抜けきれず、我が道を行こうとしたのかもしれません。そのパウロに対して、主イエスは、「私が示す道」を行きなさいと教えられた。あなたの人生は、あなたのものではない。あなたの人生は、もうすでに、救い主のものなのだ、ということ。救い主の御支配の中に、あなたは、恵みと憐れみによって、生きているのだ、ということ。そのことを、主は、パウロに教えられたのだと言えるのです。つまり、ここでもまた、使徒パウロは、ある意味で、「大転換」を与えられたのだと言えるのです。
 私達もまた、キリストと出会います。この礼拝を通して、キリストとの交わりに生きるのです。私達もまた、我が道を進んでいたかもしれません。それは、もしかすると、神様に背を向け、キリストを傷つける道であったかもしれない。その道の先には、罪と滅びしかなかったかもしれない。
しかし、その私達とキリストは、ここで出会うのです。そして、私達は、そこで、罪を知り、それでも、愛され、赦され、必要とされていることを知るのです。失敗に立ち止まるのではなく、方向転換しても良いことを知る。そして、キリストに支配されることで、本当の恵みや憐れみを知りながら、それを味わいながら、平安の内に生きられるのです。
 多くの迫害者を前にしても、毅然として、語り続けるパウロです。わが道を行くものであるならば、ここまで、堂々とはしていなかったと思います。正に、全存在において、キリストが支配している。御言葉に従い、キリストの道へと転換して、生きていく。その者には、いかなる困難の中でも、しっかりと立ち続けられる平安が、約束されているのではないでしょうか。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:50| 日記