2023年03月12日

2023年3月12日主日礼拝説教「イエスの祈り」須賀舞副牧師

聖書:ヨハネによる福音書17章20節〜26節、エレミヤ書32章39節
説教:「イエスの祈り」須賀舞副牧師

 石山教会で、わたしが担当する最後の説教となりました。2013年、石山教会に夫の工牧師が赴任し、この礼拝堂で最初に礼拝を献げた日を今でも鮮明に覚えております。まだ、わたしは副牧師ではなく信徒でした。子どもたちもまだ誕生していませんでした。それから10年、いろんなことがありました。天に召されていった兄弟姉妹方のお顔も思い浮かんでまいります。3年前からのコロナ禍も共に乗り越えてきました。何より、この石山教会の礼拝が10年間、途切れることなく日曜日ごとに捧げられてきたことを、心から主に感謝をしたいと思います。
 さて、わたしたちは今、主イエスが十字架へと向かわれていったことを覚える受難節、レントの期間を過ごしています。主イエス・キリストは、2000年前、神様の元からこの世に遣わされ、この地上で神様のお言葉を教え、人々と出会い、人なりたもう神のお姿を示されました。そして最後、同胞であったはずのユダヤ人たちから告発され、ローマの裁判にかけられ十字架刑によって死なれたのです。今年の暦では、4月7日(金)が受難日、即ち、主イエスが十字架におかかりになった日で、そこから三日目の4月9日(日)に主が復活されたイースターを祝うことになっています。そこまでの期間を受難節と呼んで、わたし達は、悔い改めの心をもって過ごしている訳です。
 わたしがちが読み進めてきたこのヨハネによる福音書において、主イエスは、その初めから、弟子たちや、信じてついてきた群衆、また、敵対するユダヤ人たちに向かって、わたしはこれから十字架にかけられて死ぬだろう。そして、三日後に復活して天に挙げられるだろうと、幾度も語ってこられました。
 けれども、この世的に見れば、主イエスの十字架の死とは、それが人間の救いであるとか喜びであるとは、到底言えない出来事でありましょう。誰が、裁判にかけられて死刑になった犯罪者をメシア、救い主と呼ぶだろうか。そのように多くの人は考えるだろうと思います。この世の価値観から言えば、惨めで悲惨で立派に見えるところが何もない、それが十字架の死なのです。
 そのような思いは、イエスさまを取り囲んでいた人々にとっても同じでした。弟子たちや群衆、ユダヤ人たちも、どれだけ、イエスさまご自身の言葉を聞いても、十字架の予告の言葉が全く理解できませんでした。イエスさまは一体何を言っているんだろう?そう不思議に思ったり、まるで話が噛み合わない受け答えをするばかりでした。
 けれども、いよいよイエスさまは十字架へと向かっていかれます。ヨハネによる福音書12:12からは、エルサレムに入られた主が、そこで再びご自身がこれから受ける十字架の意味を語り、弟子たちの足を洗い、食事を共にされていったことが伝えられています。そして、最後の晩餐において、主は、長い説教をされました。その最後にされた祈りこそが、本日与えられた御言葉ヨハネによる福音書17章です。
 この主イエスの祈りには、大きく三つのことが祈られています。一つ目は、1-5節です。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」」という祈りです。それは、これから起ころうとする、十字架の死を念頭に置いた祈りでした。十字架に引き渡され、死んで、そして復活してゆかれることを通して、主イエスご自身は、神の子としての栄光を受けさせてくださいと祈ったのです。けれども、これは決して、主イエスが、十字架で死ぬことですごい存在になりたい、偉大な存在にならせてくださいと祈り願ったのではありません。十字架の死は、主イエスを偉大な存在に祭りあげる出来事ではありません。私たちが、十字架の死と復活を通して、主イエス・キリストを信じるようになり、そして、信じる者たちの救いが実現する、これが十字架の意味でありました。つまり主イエスはここで、十字架の死を通してご自分に栄光が受けることによって、わたしたちの救いが実現することを祈り願われたのです。
 二つ目は、6-19節です。これは、弟子たちのための祈りです。主イエスが、ご自分の昇天後にこの世に残された弟子たちのために、祈った祈りでした。ここで主イエスは、弟子たちが、主イエスがこの世を去った後も、決して滅びないように、悪い者、つまり罪から守られるようにと、父なる神様に祈られました。
 そして、本日の箇所20節以下が三つ目の祈りです。20節には「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」とあります。「彼ら」とはこの時まさに主イエスの目の前にいる弟子たちのことです。では「彼らの言葉によってわたしを信じる人々」とは誰でしょう。それは、今ここに集うわたしたちのことです。弟子たちの言葉、つまり、この新約聖書にまとめられた主イエス・キリストを証しする言葉を読み、イエスをわたしの主、わたしのキリストであると信じた代々の聖徒たち、キリスト教会の2000年の歴史につならる一人一人、そして、今ここにいるわたしたちのために主イエスは、ここで祈り始められるのです。
 2000年前、まさにこれから十字架にかかって死んでゆかれようとしている主イエスは、今ここにいるわたしたちのためにも祈ってくださっていた。これは、とっても感動的なことです。主イエスは、一体わたしたちのために何を祈ってくださったのでしょうか。
 21節には、こうあります。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」「全ての者」というのは、弟子たちの言葉によって主イエスを信じた全ての者、つまり全ての信仰者のことです。主イエスが祈り願っておられるのは、全ての信仰者が一つとなることだったのです。
 罪あるわたしたち人間は、どれだけ一つになりたいと願っても、一つになれません。それは歴史を辿っても明らかですし、わたしたちの人生を振り返っても残念ながらそうだと言わざるを得ません。戦争、差別などの明らかな分裂だけでなく、身近な人間関係や家族関係においてもわたしたちは分断を抱えて生きています。また、一つとなれない現実は、キリスト教の歴史においてもたくさんあるのです。現に、このヨハネによる福音書が記され読まれていた紀元1世紀ごろ、つまり初代教会においても、分断が起きていました。今、牧師の担当する礼拝において、使徒言行録を読んでいますが、その内容からも使徒たちの時代から意見の相違がたくさんあったということがよく分かります。キリスト教、2000年の歴史は、分裂の歴史と言っても過言ではありません。東西の分裂、宗教改革、教派の誕生などもその一つと言えましょう。そして、厳しいですが、わたしたちのこの石山教会もそのような経験を抱えていますし、日本基督教団においても無関係の問題ではありません。
 本当に、辛く悲しいことです。わたしたちは、隣人を愛したい、尊重したい、平和に安心に平等に暮らしたい、といくら願っていたとしても、ともすると、ムカっとしたり、イラッとしたり、実際に裁いてしまったり、相手より上に立つような振る舞いをしてしまう。あるいは人間関係に無関心になってしまったり、拒絶し、自ら孤独になって生きてしまうこともあるかもしれません。それが時には大きな分断を招いてしまうのです。
 聖書はその根本の原因とは、わたしたちの「罪」であると言います。罪とは、神様を信じないことです。イエス様をわたしの主、わたしのキリストだ、と信じないことです。神様を信じ、神様を中心に生きる生き方が聖書の示す正しい生き方です。しかし、わたしたちは、神様中心ではなく自分中心に生きてしまう。この罪の現実は、どこまでも深く、わたしたちにまとわりつき、わたしたちの力ではどうしようもないしがらみとなっているのです。そして、わたしたちが一つとなることがそれによって妨げられてしまうのです。
 主イエス・キリストは、そのようなわたしたちのために、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」と祈られました。父なる神様と御子イエス様は等しい存在です。絶対に切り離されることのない同一の存在です。主イエスご自身がこのことを、繰り返し語ってこられたことを、このヨハネによる福音書は伝えています。
 繰り返し強調しますが、父なる神様と御子イエス様は「一つ」だと言うことです。そして、この父と子が一つであるのと同じように、全ての人を「一つ」にしてください、と主イエスは祈られたのです。父と子が一体であるのと同じように、主イエスを信じる群れの一人一人が、全世界の教会が、分断された全ての者たちが、ピッタリと一体になること、これが主イエスの願いでした。これは、わたしたち信仰者の思いが一つになりますように、ということではありません。話し合って、理解しようと努めて一致する部分を見つけていこうということでもありません。罪人であるわたしたちは最終的にはどう頑張っても、自分達の力では一つになることは難しいのです。不可能といっても良いと思います。だから、たとえ主イエスを信じる者同士でも、分断し、裁きあい、バラバラになってしまうのです。主イエスはわたしたちのこのような罪の現実も、全て知っておられました。だからこそ、父なる神様に祈ってくださったのです。全ての人を、教会を一つにしてくださいと。
 主イエスは、「彼らもわたしたちの内にいるようにしてください(17:21)」と祈りを続けます。「わたしたち」とは主イエスと父なる神様です。主イエスと父なる神の間には、お互いがお互いの内にいると言えるほどの交わりがあるのです。ですから、主イエスがなされる行い、癒し、奇跡、伝道活動の全ては神様の業であるし、主イエスが語られる御言葉は、神様の言葉なのです。そのような密接と言う以上の、神様と主イエスの深く強く豊かな交わりの内に、わたしたち一人一人もいるようにして下さい、と主イエスは祈られました。
 父なる神様と主イエスとの一つである交わりの中に私たちも入れていただくということは、父なる神様と主イエスが一つとなって抱いておられる思い、御心をわたしたちも知るようになるということでもあります。わたしたちが、主イエスがこの世において人となりたる神として語られたその御言葉、わたしたちが手にしているこの聖書が伝える、主の言葉その一つ一つの意味がわかるようになるということです。意味がわかるだけではありません。主イエスの言葉がわたしの言葉、わたしの生き方になるということです。
 ヨハネによる福音書が繰り返し伝えてきた、主イエスの御言葉、神様の御心とは、神様はわたしたちを愛している、愛して愛して、この上なく愛し抜かれたということです。24節には「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」とあります。主イエスは天地創造の前から、父なる神様に愛されている子でありました。その父が子に与えた愛、そしてその愛によって注がれた栄光を、信じる者全てにも見せてくださいと、イエス様は祈っておられるのです。
 26節には「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです」とあります。主イエスはわたしたちに父なる神の御名を知らせて下さいました。神様は、わたしたちを愛し、共にいてくださるお方だということを教えてくださったのです。主イエスの導きによってのみ、わたしたちは本当の意味で父なる神様を知り、信じるに至ることができます。そして、主イエスを通して神様を信じることで、父なる神様の愛がわたしたちの内にやどり、また主イエスご自身もわたしたちの内に宿ってくださるようになるのです。
 父なる神様と主イエスの間の一つであり、また、互いに愛し合う関係の中に私たちも入れていただくということは、父と子なる神の愛を受け、わたしたちも父と子なる神を愛するということです。そして、その父と子から受けた愛によって、互いに愛し合うということです。それが怒り・憎しみ・自己中心・無関心・分断・分裂、そのようなあらゆる罪のしがらみからわたしたちを解放する唯一の道です。わたしたちを一つに結び合わせる真の信仰なのです。 
 主イエスは最後の晩餐における長い説教の最後に、わたしたちのためにこのことを天の父に祈って下さいました。そして、主イエスはこの後、わたしたちのために十字架の死と復活による救いを成し遂げて下さったのです。この祈りの初めに、主イエスは天の父に「栄光」を与えてくださいと祈りました。本来、栄光を受けるべきお方とは神様ただ一人であるはずです。その栄光を、主イエスがこの地上において受ける時、それは主の十字架の死と復活の時です。主イエスは、ご自身の命を十字架の上で捧げ尽くし、自らが生贄となり、わたしたちが受けるはずの死の裁きを一身に受け、罪の贖いの捧げ物となってくださいました。この十字架の出来事によって、父なる神様の御心は、わたしたちを裁いて滅ぼすのではなく、愛し赦してくださることなのだと証しされたのです。この救いを成し遂げるお方は神様の御心を知っておられるお方、つまり神様ご自身であられる主イエス・キリストだけなのです。
 この石山教会での説教を終える時がいよいよ近づいてまいりました。最後にもう一度だけ、神様が、御子イエス・キリストを通してわたしたちに示された愛をご一緒に確かめ合ってこの説教を終わりにしたいと思います。わたしたちが持っているこの聖書、神様の御言葉が記されたこの聖書には、神様の愛がたくさん詰まっています。わたしたちは愛されているのです。どうか聖書をこれからも読み続けてください。祈り続けてください。主を賛美し続けてください。どうか父なる神様と主イエスとの愛の交わりに生き続けてください。どうか、主を愛し、兄弟姉妹を愛し、この愛を多くのまだ見ぬ兄弟姉妹たちに伝えていってください。わたしたちにはできないことであっても、神様には可能です。この石山教会に連なるお一人お一人が、神様に期待し、希望を抱いて信仰の旅路を歩まれていくようにと、祈り続けます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 01:57| 日記

2023年03月06日

2023年3月5日主日礼拝説教音声「主の約束を信じる」須賀工牧師

聖書:使徒言行録23章12節〜35節、エレミヤ書2章4節〜9節
説教:「主の約束を信じる」須賀工牧師

@Spotify
https://open.spotify.com/episode/6mHNiBXJBf8nHLigYQuCQJ?si=c0a0682756d54d5c

AYouTube
https://youtu.be/J-8OHPhaERc

皆様の上に、神様の祝福が豊かにありますように、心よりお祈り申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:55| 日記

2023年03月04日

2023年3月5日主日礼拝「主の約束を信じる」須賀工牧師

聖書:使徒言行録23章12節〜35節、エレミヤ書2章4節〜9節
説教:「主の約束を信じる」須賀工牧師

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録23章12節から35節の御言葉です。前回に引き続き、今朝の御言葉も、長い文脈となりました。今朝もまた、一つのことに、焦点を当てながら、共に、御言葉に聴いて参りたいと思います。
 今朝は、特に「神様の御計画」「神様の御心」「神様の摂理」について、注目しながら、御言葉に耳を傾けて参りたいと思います。
 私達にとって、「現実」とは、今、目に見える出来事です。しかし、目に見えるものだけが、「現実」であるとは限りません。目に見える現実の背後には、目には見えない神様の現実があるのです。私達クリスチャンは、その現実の背後にある「真実」に期待をし、思いを馳せながら、今日を生きることができるのです。今朝は、そのことに注目しながら、御言葉に、耳を傾けて参りたいと思います。
 そのために、まず、文脈全体から、簡単に、お話をさせてください。まず、使徒パウロは、ユダヤ人によって、集団暴行を受けました。パウロは、彼らにとって、ユダヤを裏切った人物です。ユダヤ人としてのプライドを捨てた人物であり、ユダヤ人のプライドを傷つけた人物でもあります。そして、その結果が、悲惨な暴力を生みました。
 しかし、パウロは、ローマ兵によって、保護されることになり、ローマ市民であるパウロを正しく裁くために、パウロの調査が行われることになります。
ちょうど、その頃、ユダヤ人の間で、パウロの暗殺計画が、立ち上がります。聖書によると、その際、ユダヤ人たちは、祭司長・長老たちを、上手く利用したようです。彼らは、再調査のために、パウロを最高法院へと連れてくるように、祭司長たちから百人隊長へ依頼を出そうとしたのです。要するに、その移動中、パウロを、暗殺しようと計画したわけです。 
 聖書によると、四十数名の暗殺者たちが、断食をして、パウロの暗殺を、固く誓ったと言われています。つまり、出来るだけ早く、パウロを殺したい。そのような強い殺意、大きな敵意が、ここから見受けられるわけです。
 さて、この陰謀を聞いていた人がいました。それが、パウロの甥(姉妹の息子)でありました。彼は、この陰謀を、パウロに、密告します。そこで、パウロは、彼を、千人隊長の下に送り、この件を密告させたのです。
 この陰謀を聞いた、千人隊長は、急遽、約470名の大部隊を動かし、使徒パウロを守りつつ、カイサリア(ユダヤ最大駐屯地)にいるユダヤ総督のもとに、送ることになったわけです。今朝の御言葉は、概ね、ここまでとなります。
 聖書に記されている、千人隊長の手紙の言葉は、とても印象的です。26節以下をお読みします。「クラウディウス・リシアが総督フェリクス閣下に御挨拶申し上げます。この者がユダヤ人に捕らえられ、殺されようとしていたのを、わたしは兵士たちを率いて救い出しました。ローマ帝国の市民権を持つ者であることが分かったからです。そして、告発されている理由を知ろうとして、最高法院に連行しました。ところが、彼が告発されているのは、ユダヤ人の律法に関する問題であって、死刑や投獄に相当する理由はないことが分かりました。しかし、この者に対する陰謀があるという報告を受けましたので、直ちに閣下のもとに護送いたします。告発人たちには、この者に関する件を閣下に訴え出るようにと、命じておきました」。
 皆様は、これを読んで、どのように思われたでしょうか。パウロの命を気にかけた、そういう優しい内容の手紙でしょうか。確かに、聖書学者の中には、この箇所は、ローマ帝国が、キリスト教会に対して、友好的であった証拠であると考える人もいるそうです。
 確かに、そういう部分もあるかもしれません。しかし、私は、そう思えないのです。私は、この手紙には、千人隊長の嘘、そして利己心が溢れていると思えるのです。
 この手紙をそのまま読むと、千人隊長が、まるで「ローマ市民のパウロを救い出した」と受け取ることが出来ます。
 しかし、事実は違います。千人隊長が、パウロの市民権を知ったのは、実際には、リンチを受けて、逮捕された後のことです。むしろ、彼は、それを知らずに、パウロを逮捕し、拷問にかけようとまでしたのであります。つまり、彼は、自分の過ちを隠して、都合の良い部分だけを記して、言うならば、その手柄を得ようとしたわけなのであります。
 もし、そのような悪意が、彼にあるとするならば、彼が、パウロを、カイサリアに護送したのは、パウロを守ることよりも、本当は、自己保身のため。そのためにしたのではないか。そのようにも理解できるわけです。
 無実のローマ市民が、ユダヤ人によって、暗殺された場合、あるいは、それによって暴動が起きた場合、その責任は、管轄の隊長が負わなければいけません。その責任から逃れるために、正に、自己保身のために、やっかいな存在を、他の人に任せたわけです。
このように、この千人隊長の手紙は、千人隊長の自己保身や利己心に満ちた手紙。そのように理解できます。いや、そのように理解する方が、文脈上、とても、わかりやすいのではないか。そのように思うのです。
 今朝の御言葉は、まるで、サスペンス・ドラマを、観ているかのような気持ち。そのような気持ちに、私達をさせるだろうと思います。
 しかし、ここから、分かることが、一つあるのです。それは、今、パウロを取り巻いている「現実」です。今、目に見える世界の「現実」は、人間の敵意と利己心に、溢れた世界なのです。これこそが、今、パウロの見ている、悲惨な世界の「現実」なのであります。
 しかし、初めにも申し上げましたが、目に見える現実だけが、真実ではありません。この悲惨な現実の背後に、神様による「本当の現実」がある。いや、その現実を超えた「真実」が、もう既に、進み出しているのです。これを「原歴史」、あるいは「救済史」と呼ぶこともあります。
 つまり、私達は、この悲惨な現実を前にしても、目には見えない、神様の恵みによる現実がある。そのことを見つめることができる。ここにキリスト者であることの、深い慰めがあるのです。
 そのことを、もう少し、具体的に見ていくために、23章11節の御言葉に、注目したいと思います。「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。『勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない』」。
 そもそも、神様の御心は、何でしょうか。神様の御計画、神様の摂理は、何でしょうか。それは、使徒パウロが、ローマで、キリストを証しすることなのであります。
 ここで示されている「しなければいけない」という言葉。この言葉は、とても、強い言葉です。そして、それは、神様の強い御意志を表す。そういう類の言葉でもあります。つまり、ローマ伝道は、人間の計画を超えた、神様の御計画なのです。「神様が、それを決めている」ということなのです。その意味で、パウロの志は、パウロの勝手な思い込みではない、ということなのです。それは、神様の御意志であり、神様の決意なのだ、ということなのであります。
 そうでありますから、どのような、障害や妨害があっても、それは、必ず実現するのだ、ということなのです。だからこそ、主は、その約束を信じて「勇気を出せ」と仰せになるのです。
 私達は、この11節の御言葉の中で、12節以下の御言葉を、読んでいくことが大切なのです。つまり、あのユダヤ人たちの陰謀も、パウロの甥による密告も、カイサリアへの移送も、千人隊長の手紙も、その全ては、パウロが、ローマで、キリストを証ししなければいけない。その神様の決意、神様の御心、御計画、摂理の中で、起きている。そのことに過ぎないのです。言い換えるならば、いかなる悲惨な現実の中でも、ここで、全てを統べ治め、支配しているのは、神様御自身しかいないのだ、ということなのであります。
 確かに、この文脈は、人間の悪意、殺意に満ちています。人間の利己心にも満ちています。それが、目に見える「現実」です。
 しかし、そのことを通して、実は、もう一つの真実が「前進」しているのです。目の前の現実によって、もう一歩も、先に進めない。そう思わずにはいられない、そういう現実の中で、しかし、その全てのことが、神様の御業の中に、既に、置かれているのです。神様の御支配の中に、全てがあるのです。ユダヤ人の陰謀から救われたことも、カイサリアに移送されたことも、それは、もはや、パウロにとっては、神様の御手の中にある大きな一歩なのです。
 考えてみれば、主イエス・キリストの御苦難もまた、これと同じです。主イエス・キリストは、ユダヤ人の思惑、弟子たちの裏切り、総督の利己心によって、十字架に架けられたのです。しかし、その十字架の御業こそが、私達の救いと恵みの御業にも変えられていったのであります。人間の思惑や悪意を超えて、神様の救いの御計画は、私達の目には見えないところで、確実に、前に進んでいるのであります。
今、私達人間を支配しているのは、人間の悪や闇ではないのです。痛みや苦しみではないのです。目に見える現実は、確かに、苦しいかもしれない。しかし、神様の救いを信じて、目を上げる時、そこには、もう一つ、恵みに溢れた、神様の御業を、見つめることも出来るのです。
 私達もまた、様々な苦しい現実を、目の前にすることがあるかもしれません。もう駄目だと、膝をついて、立ち止まってしまうことがあるかもしれない。あるいは、この先のことを不安に感じ、立ち止まることもあるでしょう。
 しかし、その時、私達は、目に見える現実だけを見ているのかもしれません。本当に、大切なことは、この現実の中にある、神様の現実を、見つめていくことです。その時、神様が、この私に、何をして下さるのか。むしろ、それを期待し、信じて、委ねる。そのような者へと導かれていくのではないでしょうか。
私達を支配しているのは、私達の為に、命をかけて下さる御方です。私達のために愛を貫かれる御方です。その御方が、私達の人生の主人公でいてくださいます。それをしっかりと心に留めていく時、私達は、その御方の御手の中で、御支配の中で、神様の造られる真の現実を、期待をもって見つめることができるのです。
 2022年度、最後の一カ月となりました。来週は、副牧師の説教です。19日は、合同礼拝です。ですから、私が、この石山教会の主日礼拝で、説教をするのは、あと一回となります。
そして、いよいよ、新年度を迎えます。新しい年度を前に、不安を抱えている人もいるかもしれません。無事に礼拝が守られるだろうか。教会の会計は守られるだろうか。オンライン礼拝も続けられるのだろうか。不安なことを、取り上げるならば、キリはない。
 しかし、私達は、どのような状況下においても、神様の御計画、そして、神様の御支配の中にあるのです。
 目に見える現実は、不安要素に溢れているかもしれない。しかし、この私達の為に、命を捨てるほどに、私達を愛して下さる御方が、私達の支配者であり、私達のそばに立って語り続け、示し続けてくださいます。大切なことは、この本当の現実に立ち帰り、それを見つめ直して、前を向くことなのです。そのために、私達は、日々、主の御言葉に耳を傾け、礼拝を通して、主との交わりに生きる。そのようなものでありたいと思うのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 12:15| 日記