2023年03月04日

2023年3月5日主日礼拝「主の約束を信じる」須賀工牧師

聖書:使徒言行録23章12節〜35節、エレミヤ書2章4節〜9節
説教:「主の約束を信じる」須賀工牧師

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録23章12節から35節の御言葉です。前回に引き続き、今朝の御言葉も、長い文脈となりました。今朝もまた、一つのことに、焦点を当てながら、共に、御言葉に聴いて参りたいと思います。
 今朝は、特に「神様の御計画」「神様の御心」「神様の摂理」について、注目しながら、御言葉に耳を傾けて参りたいと思います。
 私達にとって、「現実」とは、今、目に見える出来事です。しかし、目に見えるものだけが、「現実」であるとは限りません。目に見える現実の背後には、目には見えない神様の現実があるのです。私達クリスチャンは、その現実の背後にある「真実」に期待をし、思いを馳せながら、今日を生きることができるのです。今朝は、そのことに注目しながら、御言葉に、耳を傾けて参りたいと思います。
 そのために、まず、文脈全体から、簡単に、お話をさせてください。まず、使徒パウロは、ユダヤ人によって、集団暴行を受けました。パウロは、彼らにとって、ユダヤを裏切った人物です。ユダヤ人としてのプライドを捨てた人物であり、ユダヤ人のプライドを傷つけた人物でもあります。そして、その結果が、悲惨な暴力を生みました。
 しかし、パウロは、ローマ兵によって、保護されることになり、ローマ市民であるパウロを正しく裁くために、パウロの調査が行われることになります。
ちょうど、その頃、ユダヤ人の間で、パウロの暗殺計画が、立ち上がります。聖書によると、その際、ユダヤ人たちは、祭司長・長老たちを、上手く利用したようです。彼らは、再調査のために、パウロを最高法院へと連れてくるように、祭司長たちから百人隊長へ依頼を出そうとしたのです。要するに、その移動中、パウロを、暗殺しようと計画したわけです。 
 聖書によると、四十数名の暗殺者たちが、断食をして、パウロの暗殺を、固く誓ったと言われています。つまり、出来るだけ早く、パウロを殺したい。そのような強い殺意、大きな敵意が、ここから見受けられるわけです。
 さて、この陰謀を聞いていた人がいました。それが、パウロの甥(姉妹の息子)でありました。彼は、この陰謀を、パウロに、密告します。そこで、パウロは、彼を、千人隊長の下に送り、この件を密告させたのです。
 この陰謀を聞いた、千人隊長は、急遽、約470名の大部隊を動かし、使徒パウロを守りつつ、カイサリア(ユダヤ最大駐屯地)にいるユダヤ総督のもとに、送ることになったわけです。今朝の御言葉は、概ね、ここまでとなります。
 聖書に記されている、千人隊長の手紙の言葉は、とても印象的です。26節以下をお読みします。「クラウディウス・リシアが総督フェリクス閣下に御挨拶申し上げます。この者がユダヤ人に捕らえられ、殺されようとしていたのを、わたしは兵士たちを率いて救い出しました。ローマ帝国の市民権を持つ者であることが分かったからです。そして、告発されている理由を知ろうとして、最高法院に連行しました。ところが、彼が告発されているのは、ユダヤ人の律法に関する問題であって、死刑や投獄に相当する理由はないことが分かりました。しかし、この者に対する陰謀があるという報告を受けましたので、直ちに閣下のもとに護送いたします。告発人たちには、この者に関する件を閣下に訴え出るようにと、命じておきました」。
 皆様は、これを読んで、どのように思われたでしょうか。パウロの命を気にかけた、そういう優しい内容の手紙でしょうか。確かに、聖書学者の中には、この箇所は、ローマ帝国が、キリスト教会に対して、友好的であった証拠であると考える人もいるそうです。
 確かに、そういう部分もあるかもしれません。しかし、私は、そう思えないのです。私は、この手紙には、千人隊長の嘘、そして利己心が溢れていると思えるのです。
 この手紙をそのまま読むと、千人隊長が、まるで「ローマ市民のパウロを救い出した」と受け取ることが出来ます。
 しかし、事実は違います。千人隊長が、パウロの市民権を知ったのは、実際には、リンチを受けて、逮捕された後のことです。むしろ、彼は、それを知らずに、パウロを逮捕し、拷問にかけようとまでしたのであります。つまり、彼は、自分の過ちを隠して、都合の良い部分だけを記して、言うならば、その手柄を得ようとしたわけなのであります。
 もし、そのような悪意が、彼にあるとするならば、彼が、パウロを、カイサリアに護送したのは、パウロを守ることよりも、本当は、自己保身のため。そのためにしたのではないか。そのようにも理解できるわけです。
 無実のローマ市民が、ユダヤ人によって、暗殺された場合、あるいは、それによって暴動が起きた場合、その責任は、管轄の隊長が負わなければいけません。その責任から逃れるために、正に、自己保身のために、やっかいな存在を、他の人に任せたわけです。
このように、この千人隊長の手紙は、千人隊長の自己保身や利己心に満ちた手紙。そのように理解できます。いや、そのように理解する方が、文脈上、とても、わかりやすいのではないか。そのように思うのです。
 今朝の御言葉は、まるで、サスペンス・ドラマを、観ているかのような気持ち。そのような気持ちに、私達をさせるだろうと思います。
 しかし、ここから、分かることが、一つあるのです。それは、今、パウロを取り巻いている「現実」です。今、目に見える世界の「現実」は、人間の敵意と利己心に、溢れた世界なのです。これこそが、今、パウロの見ている、悲惨な世界の「現実」なのであります。
 しかし、初めにも申し上げましたが、目に見える現実だけが、真実ではありません。この悲惨な現実の背後に、神様による「本当の現実」がある。いや、その現実を超えた「真実」が、もう既に、進み出しているのです。これを「原歴史」、あるいは「救済史」と呼ぶこともあります。
 つまり、私達は、この悲惨な現実を前にしても、目には見えない、神様の恵みによる現実がある。そのことを見つめることができる。ここにキリスト者であることの、深い慰めがあるのです。
 そのことを、もう少し、具体的に見ていくために、23章11節の御言葉に、注目したいと思います。「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。『勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない』」。
 そもそも、神様の御心は、何でしょうか。神様の御計画、神様の摂理は、何でしょうか。それは、使徒パウロが、ローマで、キリストを証しすることなのであります。
 ここで示されている「しなければいけない」という言葉。この言葉は、とても、強い言葉です。そして、それは、神様の強い御意志を表す。そういう類の言葉でもあります。つまり、ローマ伝道は、人間の計画を超えた、神様の御計画なのです。「神様が、それを決めている」ということなのです。その意味で、パウロの志は、パウロの勝手な思い込みではない、ということなのです。それは、神様の御意志であり、神様の決意なのだ、ということなのであります。
 そうでありますから、どのような、障害や妨害があっても、それは、必ず実現するのだ、ということなのです。だからこそ、主は、その約束を信じて「勇気を出せ」と仰せになるのです。
 私達は、この11節の御言葉の中で、12節以下の御言葉を、読んでいくことが大切なのです。つまり、あのユダヤ人たちの陰謀も、パウロの甥による密告も、カイサリアへの移送も、千人隊長の手紙も、その全ては、パウロが、ローマで、キリストを証ししなければいけない。その神様の決意、神様の御心、御計画、摂理の中で、起きている。そのことに過ぎないのです。言い換えるならば、いかなる悲惨な現実の中でも、ここで、全てを統べ治め、支配しているのは、神様御自身しかいないのだ、ということなのであります。
 確かに、この文脈は、人間の悪意、殺意に満ちています。人間の利己心にも満ちています。それが、目に見える「現実」です。
 しかし、そのことを通して、実は、もう一つの真実が「前進」しているのです。目の前の現実によって、もう一歩も、先に進めない。そう思わずにはいられない、そういう現実の中で、しかし、その全てのことが、神様の御業の中に、既に、置かれているのです。神様の御支配の中に、全てがあるのです。ユダヤ人の陰謀から救われたことも、カイサリアに移送されたことも、それは、もはや、パウロにとっては、神様の御手の中にある大きな一歩なのです。
 考えてみれば、主イエス・キリストの御苦難もまた、これと同じです。主イエス・キリストは、ユダヤ人の思惑、弟子たちの裏切り、総督の利己心によって、十字架に架けられたのです。しかし、その十字架の御業こそが、私達の救いと恵みの御業にも変えられていったのであります。人間の思惑や悪意を超えて、神様の救いの御計画は、私達の目には見えないところで、確実に、前に進んでいるのであります。
今、私達人間を支配しているのは、人間の悪や闇ではないのです。痛みや苦しみではないのです。目に見える現実は、確かに、苦しいかもしれない。しかし、神様の救いを信じて、目を上げる時、そこには、もう一つ、恵みに溢れた、神様の御業を、見つめることも出来るのです。
 私達もまた、様々な苦しい現実を、目の前にすることがあるかもしれません。もう駄目だと、膝をついて、立ち止まってしまうことがあるかもしれない。あるいは、この先のことを不安に感じ、立ち止まることもあるでしょう。
 しかし、その時、私達は、目に見える現実だけを見ているのかもしれません。本当に、大切なことは、この現実の中にある、神様の現実を、見つめていくことです。その時、神様が、この私に、何をして下さるのか。むしろ、それを期待し、信じて、委ねる。そのような者へと導かれていくのではないでしょうか。
私達を支配しているのは、私達の為に、命をかけて下さる御方です。私達のために愛を貫かれる御方です。その御方が、私達の人生の主人公でいてくださいます。それをしっかりと心に留めていく時、私達は、その御方の御手の中で、御支配の中で、神様の造られる真の現実を、期待をもって見つめることができるのです。
 2022年度、最後の一カ月となりました。来週は、副牧師の説教です。19日は、合同礼拝です。ですから、私が、この石山教会の主日礼拝で、説教をするのは、あと一回となります。
そして、いよいよ、新年度を迎えます。新しい年度を前に、不安を抱えている人もいるかもしれません。無事に礼拝が守られるだろうか。教会の会計は守られるだろうか。オンライン礼拝も続けられるのだろうか。不安なことを、取り上げるならば、キリはない。
 しかし、私達は、どのような状況下においても、神様の御計画、そして、神様の御支配の中にあるのです。
 目に見える現実は、不安要素に溢れているかもしれない。しかし、この私達の為に、命を捨てるほどに、私達を愛して下さる御方が、私達の支配者であり、私達のそばに立って語り続け、示し続けてくださいます。大切なことは、この本当の現実に立ち帰り、それを見つめ直して、前を向くことなのです。そのために、私達は、日々、主の御言葉に耳を傾け、礼拝を通して、主との交わりに生きる。そのようなものでありたいと思うのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 12:15| 日記